【アマノ文筆クラブ】ショートショート『私、どろんします』
ある街に、泣く子も黙るやり手の旅館経営者がいました。
彼女は女手一つで老舗旅館を立て直し、今は娘夫婦に現場を任せ、自分は「大女将」として悠々自適の隠居生活を送っています。
しかし、彼女には人には言えない秘密がありました。ストレスが溜まると無意識に若い男性に変身し、若い女性にサディスティックな教育的指導をせずにはいられなくなるのです。
今日も、変身の発作が抑えきれない大女将は、「私、どろんします」という書き置きを自室に残し、忽然と姿を消してしまいました。
その人は、まるで少女漫画から抜け出してきたような理想の男性だった。
名前も素性も知らない謎の人。けれど、女性をエスコートするスマートな振る舞いや、吸い付くような色白い肌。そして何より、湯水のように金を使うその余裕。街の女の子たちは、彼を「謎の若旦那」と呼んで憧れていた。
そんな彼と、運良く夜の公園で二人きりになれた。
今夜は朧月夜。雲の隙間から、時折ぼんやりとした月光が差し込んでいる。
「月が、綺麗ですね……」
私はありったけの勇気を振り絞って、愛の告白にも似た言葉を口にした。彼はふっと目を伏せ、芝居がかった仕草で私の肩を抱き寄せた。
「……君には言っておかなきゃな。俺は満月の光を浴びると、変身するんだ」
「まあ、嘘がお上手ね」
私は冗談だと思って笑った。けれど、彼は真剣な眼差しで私を見つめている。
「本当だよ。月を見ると、自分を抑えられなくなるんだ」
「ふふ、じゃあオオカミに変身しちゃうの?」
「その通りだ。よく分かったな。正確には変身が解けて本性が現れるのだが……」
私の鼓動は早鐘を打った。
「……いいわよ。男の人はみんな、オオカミだって言うもの。私、覚悟はできてるわ。さあ、私を……好きにして」
私がうっとりと目を閉じ、震える唇で「食べて」と呟きかけた、その時。空を覆っていた雲が風に流され、眩しいほどの満月が姿を現した。
「……いいのか? 後悔するぜ。俺は変身すると気が荒くなってなあ、今までみたいに優しくはできなくなる」
刹那、彼の体がぶるぶると震えだし、喉の奥から「ウウッ……」という野太い唸り声が漏れた。変身が始まる! 私は恐怖で叫び声をあげた。
「いやあああーっ!! 本物の狼男!?」
「シャキッとしなさいッ!!」
鼓膜を震わせる怒声に、私は飛び起きた。目の前にいたのは、美青年でも狼男でもなかった。
はち切れんばかりに肉の乗った二の腕を、高級な着物の袖に押し込み、貫禄たっぷりの太鼓腹を帯で締め上げた、恰幅のいい中年女性が仁王立ちしていた。
「アンタ、さっきからなんなのその締まりのない顔は! 股関節を割って立ちなさい、股関節を!」
「……えっ?」
「何が『食べて』よ! アンタみたいな痩せぎす、ウチの賄い飯を三杯食べてから出直しなさい! ほら、背筋を伸ばす! 挨拶の声が小さい! 宿の品格は中居の立ち姿で決まるのよ!」
「……ウ、ウソ、変身するってオオカミじゃなくて……」
「そうよ、この街で大女将と言えば私よ! 変身したら気が荒くなるって言ったでしょうが! 私は作法と躾には、そりゃあ厳しいんだからね! ほら、さっさと立ちなさい。今からウチの旅館で三日三晩、雑巾がけの修行よ!」
「いやあああーっ!! 思ってたんと違うーーーー!!」
了
こちらの企画に参加させていただきました。ありがとうございました。
