【アマノ文筆クラブ】短編(約4000字)『推し活と串カツ、どっちにするの?』
「あんたは今、人生の分岐点に立ってるよ」
水晶玉を覗き込む老婆、ドーラ・エイマンは、しわがれた声で告げた。その姿は、まるで絵本から抜け出した魔女だ。大阪の定食屋でせっせと働く私――幸島幸子にとって、この占い師への相談料は半月分の給料に相当したが、それでも「あんたは気に入ったから」と格安にしてくれたのだという。
これまでの経緯を説明しようとする私を、占い師は手で遮った。
「何も言うな。探したいのは彼氏だろう」
「いいえ、婚約者です。落ち着いたら東京で一緒に暮らそうと言ってくれました」
「それはあんたの一方的な思い込みさ」
ドーラの言葉が胸を刺す。
ジョー。大日方丈一郎。親がいない寂しさを埋めるみたいにダンスに全てを捧げた彼は、東京の大手事務所にスカウトされ私を残して上京した。だがしばらくすると音信不通。事務所に問い合わせても「そんなタレントは知らない」の一点張り。なのに、SNS ではモデルでタレントのベリーと親密そうに写る、ジョーの姿が溢れている。
「いいかい。あんたには今、同時に二つの未来が存在する。自分で選ぶんだ。運命の不確定性原理、ってやつさ。シュレーディンガーの猫って知ってるかい?」
「いいえ」
「箱を開けるまで、猫が生きているか死んでいるかはわからない。運命そのものを作り出すことはできないが、未確定の未来をひとつに確定させる、それが私の力さ。選んだ瞬間に、もう一方の未来は消える」
ドーラがニヤリと笑った。
「推し活と串カツ、どっちにするの?」
「はぁ!?」
言ってる意味がわからない。私は占い師の顔を見つめた。
「分かりにくかったね。カードで説明しよう」
ドーラは使い古されたタロットをテーブルに三枚、扇状に広げた。
「まず、この男……ジョーと言ったかね。こいつは『愚者(The Fool)』だ」
指差したのは、崖っぷちを危うげに歩く若者のカード。
「定住せず、何にも縛られず、ただ高みを目指して踊り続ける。身一つでどこへでも行くが、足元の崖が見えていない。この男と関わることで、あんたの運命は激しく揺さぶられる」
ドーラは次に、左右に分かれた二枚のカードをめくった。
「一つ目の十年後の未来。ジョーが成功し、世界に羽ばたく。あんたが彼を追いかけ続ける『推し活』の道。それは『隠者(The Hermit)』だ。あんたは暗い部屋で、一筋の光――画面の中の彼――だけを頼りに生きる。みじめだが、ある意味では純粋な聖者のような生き方だね」
私は息を呑んだ。それから、もう一枚のカードに目を落とす。そこには豊穣な大地に座る、ふくよかな女性が描かれていた。
「もう一つの十年後の未来。彼をあんたの隣に繋ぎ止める道。これは『女帝(The Empress)』。あんたには『串カツ』屋の女将の方がしっくりくるかね? あんたは愛する男を自分の檻に閉じ込め、その王国の支配者になるのさ」
「十年……」私は呟いた。
「そう、このカードが示すのは今後十年の輪郭だけさ。その先は霧の中。運命の枝分かれが多すぎて、神様にだって見えやしない。さあ、選びな。私には未来を確定する力はあっても、それを選択するのは、あんただ」
戸惑う私に、ドーラは水晶玉を通して今後十年の未来を「映像」として流し込んできた。
「選ぶんだ。その瞬間に、もう片方の未来は消滅する」
私は、脂汗を流した。ジョーは私を裏切りダンサーとしての成功と引き換えに、自分は犠牲になる……。世界的スターとなった彼を一人遠くから眺めるのか。彼からは感謝もされず、誰も私を褒めてはくれない。
それとも、ジョーが挫折して自分の元へ戻って来る未来、私の隣に一生縛り付けるのか。
どす黒い独占欲が、心を鷲づかみにした。私を置き去りにして手の届かない世界へ行ってしまうジョーが許せない。だけど、そんなことは口に出せない。身体がブルブルと震え、涙が溢れてくる。
「誰もあんたがしたことは見てない。責められることもないんだよ」
(彼に夢を叶えてほしい。でも……誰にも渡したくない。私のジョーでいてほしい)
「……ヒヒヒ。決まったね。口に出さなくていい」
ドーラのいやらしく笑い声が聞こえる。私はテーブルに突っ伏した。
****
数日後、ジョーが大阪に戻ってきた。 東京へ移籍してから、わずか三ヶ月。だが、駅の改札から現れた彼は、輝きを完全に失っていた。
長身でスタイルが良く、どんな時もダンスのステップを踏むように軽やかだった歩調が、今は不自然に乱れている。右手に杖を突き、左足を引きずるようにして、一歩一歩、苦痛をこらえるように歩いてくる。付き添っていたのは、モデルのベリーだった。彼女は憔悴しきったジョーを私に預けると、ろくに目も合わせず「あとはよろしく」とだけ言い残し、逃げるように東京行きの新幹線へ戻っていった。
「……ジョー、その足」
私の問いに、彼は答えない。ただ、死人のような目で地面を見つめている。私はその時、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。「彼がすべてを失って戻ってくる」というドーラの言葉。私はそれを、せいぜい「挫折して夢を諦める」程度にしか考えていなかった。
(違う。こんな、身体を壊してまで戻ってきてほしかったわけじゃない……!)
自分の浅はかな欲望が、彼から「踊るための肉体」そのものを奪い去ったのではないか。冷たい脂汗が背中を伝った。
安アパートへ帰り、ジョーは初めて沈黙を破った。
「愛想尽かせろよ、サッチン。もう、一生これや」
彼は自嘲気味に笑い、ズボンの裾を捲り上げた。そこに剥き出しになっていたのは、冷たく無機質な金属の義足だった。練習中の事故で、左足の膝下を失ったのだという。
「あ……」
声が出なかった。膝から崩れ落ち、自分の喉を掻きむしりたくなった。ドーラの占いの館へ戻り、彼女の胸ぐらをつかんで叫びたかった。
「時間を戻して! 『串カツ』なんていらない! 私は彼を追いかけるだけの『推し活』でいい、だから彼の足を返して!」
けれど、老婆の声が耳の奥でリフレインする。
『選んだ瞬間に、他の未来は消える。シュレーディンガーの猫って知ってるかい?』
もう、彼が世界を股にかけて踊る未来は、この世界から消滅してしまったのだ。私が、私のこの利己心が、あの輝かしいジョーを殺したのだ。自分の犯した罪の恐ろしさに、私はその場で意識を失った。
それからしばらくして、ジョーがアパートから姿を消した。不吉な予感が頭をよぎる。占いで見せられたビジョンの記憶を辿り、私は必死に彼を探した。海だ。タクシーなら間に合う。辿り着いたのは、かつて二人で将来を語り合った海岸だった。
砂浜に杖が突き刺さっている。その先に、沖へとゆっくり歩を進めるジョーの背中が見えた。
「ジョー! 待って、行かないで!」
私は叫びながら遠浅の海を駆けた。長身のジョーには胸の高さでも、私にとっては顔が浸かる死の境界線だ。彼にしがみつこうとして波に煽られ、私は無様に溺れた。鼻腔を焼くような海水の痛み、うまく声が出せない。
「……ッ、助けて……!」
その声に、ジョーがハッとして振り返った。彼は不自由な足で必死に私を抱き寄せ、二人で波間に浮いた。
「……何してんねん。サッチンまで死ぬ気か」
「死なないで……。行かないで……」
「サッチン、しがみつくな。このままじゃ共倒れや」
ジョーは私を抱いたまま、空を仰いだ。そこから先はよく覚えていない。気がつけば二人、砂浜に倒れ込んでいた。
「……俺、施設育ちで、ずっと一人だった。でも、俺のために命がけで海に飛び込んでくれる奴がおるんやな。……恩人やな、サッチンは」
砂浜で目を覚ました時、ジョーは吹っ切れたような笑顔だった。
「俺は一度死んで生まれ変わった……もうダンスには未練はない。死ぬ気で俺を助けてくれたお前のために、俺は生きる」
「私も、死んで生まれ変わった。だから、……結婚してください」
彼は私の本当の罪を知らない。私が彼をこの地獄に引きずり下ろした張本人だとも知らず、彼は初めて、心から安らいだような顔で笑った。私は、自分を赦すことができないまま、彼に縋り付いた。
****
それから、私が働く定食屋の店主夫婦に結婚の報告をした。すると二人は、「ちょうど引退を考えていたから店を譲る」と言い出した。
「前から、サッちゃんにこの店を譲ろうと思っとったんや」
「いや、店を譲る言うても、ここ借家やがな」
「アホやな。譲るのは『お得意さん』や。それが一番の財産やで」
店は「串カツ屋」として新しく生まれ変わった。といっても設備が変わった訳ではないし、そんなお金もない。ただ、メニューを少し変更しただけだ。
理由を聞かれたが、「占いのお告げ」とだけ答えた。切り盛りするのは、料理が得意な私。ジョーはかつてのピリピリとした鋭さを消し、穏やかな笑顔で接客に励んだ。
商店街の人気者になった彼は、放課後の子供たちや買い物帰りの年寄りから、「ジョーくんの店やから」と愛されている。
「はい、二度漬け禁止やで!」
威勢よく笑う彼の横顔は、スポットライトを浴びていた頃よりずっと、人間らしくて温かい。店内に満ちるラードの香りと、客たちの笑い声。私はキャベツを刻みながら、あの日の占い師の問いを思い出す。
(私、これでよかったのかしら?)
現在、大阪の路地裏。私のお腹には、新しい命が宿っている。店は繁盛し、家族としての幸せが形を成せば成すほど、私の心の奥底にある罪の意識は深くなっていく。
ある晩、客が引けた後の店内でジョーが不意に、調理器具を磨く手を止めて私を見た。
「……なあ、サッチン」
その声の低さに、私は心臓が跳ねるのを感じた。
「俺は、お前に感謝してる。死ぬ気で助けてくれたことも、この店で生きる場所をくれたことも。……でもな、俺にはお前に言われへんことがある。俺は、お前が思ってるような綺麗な人間やないんや」
ジョーの瞳に、一瞬だけ東京の地獄の闇が過ぎった。私は、何も聞くことができなかった。彼もまた、何かを墓場まで持っていく気なのだ。あの日の私と同じように。
「ええよ。私にだって、あるもん」
私は努めて明るく答え、ジョーに背を向けてキャベツを刻み始めた。
お互いに、絶対に明かせない裏切りがある。私は彼の足を奪い、彼は彼で私に言えないような経験を東京でしたのかもしれない。その事実は、決して溶け合うことのない毒のように、二人の底に沈んでいる。
けれど、その毒があるからこそ、私たちはこの「偽物の幸せ」を、本物よりも必死に、壊れないよう抱きしめていけるのかもしれない。
了
あとがき
この作品は、NHKの朝ドラから着想を得て書きました。
登場人物など、あえて似た名前にしました。
こちらの企画に参加させていただきました。ありがとうございました。
