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もし江戸川乱歩が浦島太郎を書いたら…?

竜宮の肖像

 あの事件を思い出すと、私は今でも、濡れた鱗の冷たさを指先に感じるのである。

 もっとも、事件といっても、警察が来たわけではないし、新聞が煽り立てたわけでもない。村の人々は、最初のうちこそ噂をしたが、ほどなく口をつぐんだ。海のそばの土地では、普通ではない出来事ほど、かえって普通に飲み込まれてしまう。潮が寄せては引くように、人の記憶もまた寄せては引く。残るのは、砂に書いたような曖昧な輪郭だけである。

 浦島太郎。
 その男の名を、私は今でも妙に気味の悪い響きとして覚えている。

 彼は、浜辺の村に住んでいた。痩せた家並み、潮に白く吹かれた板壁、夕方になると黒く見える小舟、そしてどこまでもしつこい海。村は貧しかったが、貧しい土地には貧しい土地のしたたかさがある。人々は働き、食べ、老い、死んだ。そうした一切の事柄は、少しも不思議ではなかった。浦島太郎だけが、どういうわけか、その不思議に似つかわしくないほど、静かに暮らしていたのである。

 彼は若者だった。
 けれど、若者らしい血の騒ぎというものが、あまり見えなかった。漁に出れば黙々と網を引き、酒を飲めば酒に酔うのではなく沈黙に酔う。笑うことは笑うが、その笑いにはどこか裏がある。まるで自分の笑い声を、内側からもう一人の自分がじっと聞いているようだった。私はその目を何度か見たことがある。あれは、何かを見通している目ではなく、むしろ見てはならぬものに気づいてしまった目である。

 ある夏の日のことだ。
 浜辺で子供たちが騒いでいた。私はその場にいなかったが、あとで何度も聞かされた。大きな亀を捕まえたのだという。子供とは残酷なものだ。残酷というより、無邪気な好奇心が残酷と区別のつかない地点まで行ってしまうのである。甲羅を叩き、ひっくり返し、砂の上で転がして笑っていたそうだ。亀は不気味なほど動かなかった。まるで、最初からそのために海から上がってきたのででもあるかのように。

 そこへ浦島太郎が通りかかった。

 彼は子供たちを叱った。
 それは正義感からだったのか、たまたま気が向いたからなのか、私にはわからない。だが彼は亀を抱き上げ、海へ戻してやった。とたんに、亀はまるで生き物の皮を脱いだかのように、するりと波間へ消えたという。子供たちはしばらく口をあけたまま見送っていたが、ほどなく飽きて、また別の遊びに移ったらしい。

 ここまでは、よくある話である。
 しかし、問題はここからだった。

 亀を助けたその翌日か、あるいは三日後だったか、浦島太郎の前に奇妙な使いが現れた。正確な日時が曖昧なのは、当の本人でさえ、時間の順序を後になってからしか思い出せなかったからだ。海辺では、普通の時間というものが、しばしば失われる。潮の満ち引きのように、事実もまたいつの間にか位置を変えるのである。

 その使いとは、亀だった。
 いや、亀の姿をしていたが、私は今でも本当にそれを亀と呼んでよいか迷う。甲羅は黒光りし、目は妙に人間じみていた。しかもその目は、ただ見ているのではなく、見られることを知っている目だった。使いは浦島太郎の足元に近づくと、甲羅の上に小さな札を載せた。そこには、読めるような読めぬような文字で、ただ一言、来い、と書かれていたのだそうだ。

 浦島太郎は驚かなかった。
 この男は、肝が据わっていたのではない。むしろ、驚くべきことに慣れてしまう種類の人間だった。驚きが続くと、人はそれを驚きとして受け取らなくなる。だから、彼は亀の示した札を見て、妙だとは思ったが、怖いとは思わなかった。むしろ、長く忘れていた呼び声を聞いたような顔をしたという。

 亀は、彼を海へ誘った。
 するとどうだろう、浜辺の波が一瞬だけ黒ずみ、次の瞬間には、そこに立派な船が現れていたのである。赤い幔幕、金の飾り、見るからに人間離れした船だった。村の者があとで見れば、きっと夢だと言ったことだろう。だが私は、その船が夢だとは思わない。夢というものは、こんなふうにあからさまに人の心をつかみはしない。もっと静かに、もっとねっとりと忍び込むものだ。あれは夢ではない。もっとわるいものだ。理屈の通らぬ現実である。

 浦島太郎は、その船に乗った。

 海は荒れていなかった。
 むしろ、あまりに穏やかだった。静かな海ほど不気味なものはない。表面が鏡のように凪いでいるとき、その下で何がうごめいているか、誰が知ろう。船は進み、進むうちに、海の色が少しずつ深くなった。青が、青ではなくなり、黒に近い緑になり、やがて、見つめていると吸い込まれそうな暗さへ変わる。浦島太郎は縁に手を置き、じっと前方を見ていた。そこに何があるのか、自分でも知らずに。

 やがて、彼の前に宮殿が現れた。
 それが竜宮城である。

 竜宮城は美しかった。
 美しい、という言葉では足りない。あまりに異様な美しさだった。壁は青く、柱は珊瑚のように赤く、床は光り、天井は魚の鱗を敷き詰めたようにきらめいていた。けれど、その豪奢さの奥に、妙な空虚さがあった。豪華な劇場の幕が、上演のないまま閉じられているような寂しさである。私は見た瞬間、ここは何かを隠していると感じた。美しいものは、たいてい何かを隠す。醜いものもまた何かを隠す。隠さないものなど、ほとんどないのである。

 浦島太郎を迎えたのは、乙姫だった。

 乙姫は白く、細く、どこか人形めいていた。
 だが人形というと失礼かもしれない。もっとおぞましいのは、彼女が人形のように見える一方で、時折ほんのわずかに、人間のような、いや人間以上に生々しい表情を見せることだった。たとえば、微笑みの中に鋭い観察の光を忍ばせる。たとえば、優しい声の奥に、金属をこすり合わせたような冷たさを潜ませる。浦島太郎は、その女を見たとき、自分の心臓が一度だけ嫌な音を立てたのに気づいたらしい。

「ようこそ」

 乙姫はそう言った。
 その声音には、歓迎の甘さがあった。だが私は知っている。もっとも甘い声こそ、もっとも警戒すべき声である。浦島太郎はその場で膝を折りそうになった。いや、恋に落ちたわけではない。もっと嫌な感じの、説明のつかない眩暈である。

 以後、彼は竜宮城で暮らすことになった。

 暮らした、というのが実に奇妙である。
 彼は何を食べ、何を見、誰と話し、どういう気分で日々を過ごしていたのか。そこが、あとから思い出そうとしてもどうにも定かでない。私が当時聞き取った話によれば、食事は珍味の連続だったらしい。海の底で育った魚、白く透き通った貝、名も知らぬ菓子、香りの強い酒。だが、どんなに贅を尽くした食卓でも、そこに死の匂いが混じると、急に不気味になる。竜宮の宴はまさにそれだった。うっとりするほど華やかで、しかも、食べる者のほうをじっと見ているような気味悪さがある。

 乙姫は親切だった。
 親切すぎるほどに。
 人を丁重にもてなす者は、しばしば人をもてあそぶ者である。浦島太郎は、最初のうちこそ浮かれていたようだが、次第にその親切の底にある冷えを感じはじめた。竜宮城では、誰も彼に無理を強いない。だが、無理を強いないことのほうが、かえって彼を追い詰めたのである。人間は、押しつけられれば反発できる。だが、押しつけられない快適さの中では、じわじわと自分の輪郭を失っていく。これが実にたちの悪い罠なのだ。

 ある夜、浦島太郎は乙姫に尋ねた。

「ここは、いったいどこなのです」

 乙姫は少し首を傾げた。

「竜宮です」

「いや、そういう名は知っていますが、そうではなく」

「では、どのようにお答えすれば」

「わからないのです。見たことのない場所だ」

 乙姫は、しばらく彼の顔を見ていた。
 その目は、静かに、しかし執拗に、浦島太郎の内部を探るようであった。

「あなたは、ここが怖いのですか」

「怖いのではありません。ただ」

「ただ?」

「どこかで、見たことがある気がする」

 乙姫は笑った。
 けれどその笑いは、喜びではなかった。むしろ、狩人が獲物の足跡を見つけたときのようなものだ。浦島太郎は、その笑みに背筋を冷やした。見たことがある、と言った瞬間、彼自身もまた妙な気分になったのである。竜宮城の柱、壁、廊下の曲がり具合、そして乙姫の白い手。そのどれもが、まるで夢の中で何度も見たことのあるような気がする。だが、そんなことがあるだろうか。初めて来た場所なのに、懐かしい。懐かしいのに、どこかで見失っている。あの感じは、あとで思えば既視感というより、もっと悪質なものだった。忘れていた記憶が、こちらを見る前に、先にこちらを知っているのである。

 浦島太郎は、日々の中で、少しずつ自分を失っていった。
 といっても、すべてを失うのではない。細部が、ひとつずつ抜け落ちるのだ。故郷の浜の形。母の顔。若いころの痛み。子供のころ見た夢。自分の声の響き。そういうものが、朝起きるたびに少しずつ薄くなる。記憶は消えるというより、底へ沈む。沈んだものは、たとえその後ずっとそこにあっても、取り出せなくなる。私はこの手の話に、恐ろしさを感じる。失うというのは、何かがなくなることではない。なくなったことを思い出せなくなることなのだ。

 そんなある日のこと、浦島太郎は、城の奥で奇妙な部屋を見つけた。

 扉は半開きだった。
 中には鏡があった。いや、鏡というのも少し違う。鏡に似た、しかし鏡よりも深い、つるりとした黒い板が壁いっぱいに張られていたのである。そこに映っていたのは、竜宮の装飾ではない。浦島太郎自身の姿だった。だが、妙である。鏡の中の彼は、実際の彼よりも少し年上に見えた。頬はこけ、目は落ちくぼみ、口元には、見覚えのない疲れがにじんでいる。

 浦島太郎は、手を上げてみた。
 鏡の中の男も、少し遅れて手を上げる。
 その遅れが、ひどく不快だった。
 彼は思わず一歩引いた。すると、鏡の中の男も一歩引く。だが、完全に同じではない。向こうのほうが、ほんの少しだけ遅い。ほんの少しなのに、そこに無限の距離を感じた。浦島太郎は、しばらくじっと見ていた。

 すると、不意に、鏡の中の彼の肩越しに、別の顔がのぞいた。

 女の顔である。
 白い。
 目が大きい。
 口が笑っている。
 乙姫だった。

 だが、こちらには乙姫はいない。
 扉の外にも気配はない。
 浦島太郎は息を呑んだ。次の瞬間、鏡の中の乙姫は、にやりと、実にいやらしい笑みを浮かべた。まるで彼の驚きを最初から待っていたかのように。

「見つけた」

 声は、鏡の向こうから聞こえた。
 浦島太郎は後ずさった。
 そのとき、背後の扉が、ぎい、と音を立てて閉まったのである。

 ここで彼がどれほど狼狽したか、想像してほしい。
 竜宮城は美しい場所だ。だが、美しい場所で扉が閉まると、逃げ場がないぶん、恐怖は十倍にもなる。浦島太郎は扉を叩いた。開かない。叫んだ。返事はない。振り返れば、鏡の中の乙姫がじっとこちらを見ている。彼女は笑っていた。いや、笑っていたのは彼女だけではない。鏡の中の浦島太郎もまた、同じように、しかしどこか違う表情で笑いはじめていたのである。

 私はこのへんの話を聞いたとき、背筋がぞっとした。
 もう一人の自分。
 それはありふれた発想だが、ありふれているものほど気味が悪い。浦島太郎は鏡を叩いた。だが鏡の中の男もまた、同じように鏡を叩いてくる。こちらが右手を上げると、向こうは左手を上げる。左右の対応が狂っている。左右が狂うと、人はすぐに自分の位置を失う。

 やがて鏡の中の乙姫が、にゅうと手を伸ばしてきた。
 ありえないことだ。
 けれど、ありえないことが起きるための場所が、竜宮城なのである。乙姫の白い指先が、浦島太郎の頬に触れた。ひやりとした。触れられた瞬間、彼は気づいた。鏡の中にいるのは、自分ではない。自分に似た何かだ。では、本物はどちらなのか。そんな問いは無意味であるはずなのに、無意味だからこそ、ひどく切実だった。

「あなたは、こちらへ来るの」

 乙姫が言った。

「来る? どこへ」

「私のいるほうへ」

「馬鹿な」

「馬鹿ではありません。あなたはもう半分、こちらです」

 半分。
 その言葉に、浦島太郎はぞっとした。
 自分が半分だとは、どういうことか。肉体が半分ではない。魂が半分でもない。では何が半分なのだ。名前か。記憶か。時間か。わからぬ。だが、わからないことほど恐ろしい。

 そのとき、浦島太郎は、ある記憶を思い出した。
 いや、思い出したのではない。
 流れ込んできたのだ。

 亀。
 海。
 子供たち。
 浜。
 そして、あの時、助けたはずの亀の目。
 あれは助けを求める目ではなかった。
 呼び戻す目だったのである。

 浦島太郎は理解した。
 彼は最初から、ここへ来るように仕組まれていたのだ。
 助けた亀も、船も、乙姫も、すべてが一つの罠だった。だが、誰のための罠なのか。彼自身のためか、それとも別の誰かのためか。考えようとすると、頭が割れる。竜宮城は、迷宮であると同時に、心を映す鏡でもあった。通路はどこまで行っても同じ形をし、部屋の飾りはどれも似通い、出口は見えない。まるで、自分自身の内部を彷徨っているようではないか。

 浦島太郎は走った。
 廊下を、階段を、庭を、池の縁を、息も切らせず。
 背後で笑い声がした。乙姫の声である。
 いや、それだけではない。
 別の声。
 さらに別の声。
 同じ声が何重にも重なって、彼の耳を打つ。追ってくるのは人影ではなく、彼の中の何かだったのかもしれない。いっそ人間に追われるほうがましである。自分自身に追われるのは、どうにも救いがない。

 彼はついに、最初に案内された大広間へ戻っていた。
 中央に箱があった。
 漆塗りの、小さな箱である。
 彼はそれを見て、声にならない声をあげた。
 あの箱だ。
 開けてはならぬ、と言われた箱だ。
 そうだ、これを持たされていたのだ。いつの間にか。なぜだかは分からぬ。だが、開ければ何かが起こる。そういう匂いがした。

 乙姫が、廊下の奥からゆっくり現れた。

「開けなさい」

 浦島太郎は首を振った。
 嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 そう思ったのに、手が勝手に箱へ伸びる。
 人間の意志というものは、実に頼りない。怖いときほど、身体が先に裏切るのである。

「やめろ」

 彼は自分に言ったのか、乙姫に言ったのか、それとも読者に言ったのか、もはや分からない。だが箱の蓋は上がった。

 中には、何もなかった。

 いや、正確には、何もないように見えたのである。
 けれど、空っぽというのは案外こわい。空っぽの中には、ふつう見えないものが潜むからだ。浦島太郎は覗き込んだ。すると、箱の底に、極小の人間がひとり、丸まっていた。いや、ひとりというのも違う。彼自身に見えた。彼自身そっくりの、小さな小さな浦島太郎が、膝を抱えてそこにいたのである。

 彼は叫んだ。
 小さな浦島太郎も叫んだ。
 声は聞こえなかった。
 なぜなら、あまりに小さいからだ。
 だが、彼には分かった。箱の中にいたのは、彼の時間だった。あるいは、彼のもう一つの姿だった。もっとわるく言えば、彼から抜け落ちた人生そのものだ。浦島太郎は震えた。乙姫は微笑んでいた。あの顔には、勝利の甘さがあった。美しい女の勝利ほど、醜いものはない。

「それを開けてはいけないと、申し上げたでしょう」

「これは……何だ」

「あなたの帰り道です」

「帰り道だと?」

「ええ。時間をしまっておいたのです」

 そう言って乙姫は、あの笑みを深くした。
 浦島太郎は、もう何も言えなかった。
 箱の中の小さな彼は、こちらを見上げている。見上げているというより、助けを求めているのかもしれない。だが、助けられるものは、もはやあまりに違ってしまっていた。大きいほうの浦島太郎は、自分の手を見る。老い始めている。いや、すでに老いていた。髪に白いものが混じり、指はしわだらけになり、背骨がいやに痛い。箱を開けたことで、時間がこちらへ漏れ出したのだ。

 ここから先は速かった。

 老いは、まるで追手のように襲ってきた。
 顔の皮がたるみ、歯がぐらつき、視界が白く曇る。
 それでも浦島太郎は箱を閉めようとした。だが閉まらない。
 開けるより、閉じるほうが難しい。
 これは世の常である。
 恋も疑いも秘密も、開くのは一瞬だが、閉じるには骨が折れる。ましてや、時間などというものはなおさらだ。

 乙姫の声が遠くなる。
 いや、遠くなるのではない。
 彼のほうが沈んでいくのだ。
 竜宮城の天井がぐるぐる回る。
 壁の鱗が目になって彼を見つめる。
 自分の顔が、どこかの鏡に増えている。
 浦島太郎は崩れ落ち、床に手をついた。
 その手は老人の手になっていた。
 節くれだち、皮膚は薄く、血管が浮いている。
 ああ、これが時間か。
 これが、あれほど厄介で、見えなくて、誰もが平気な顔をして使っている時間か。

 彼は最後に、乙姫を見た。
 女はもう笑っていない。
 それどころか、ひどく冷たい顔をしていた。
 まるで、もう用の済んだ人形を見ているかのように。

「なぜ」

 浦島太郎は、かすれた声で言った。
 乙姫は少しだけ肩をすくめる。

「あなたが開けたからです」

「何を」

「知りたかったのでしょう」

 知りたかった。
 その言葉に、彼は呻いた。
 知りたかったのだ。
 なぜ亀が自分を呼んだのか。
 なぜ竜宮城がこんなにも懐かしいのか。
 なぜ自分だけが、村へ戻ったときに取り残されるのか。
 それを知りたかった。
 だが、知るという行為は、常に代償を伴う。何かを知るたび、何かが失われる。彼はそれを身をもって味わったのである。

 その後のことは、はっきりしない。
 いや、はっきりしないというより、はっきりしているのに、誰も信じたがらないのだ。浦島太郎は、浜辺へ戻された。あるいは自分で戻ったのかもしれない。そこには老人がひとりいた。いや、それが彼自身だったのかもしれない。村人たちは彼を見ても誰も知らず、彼もまた誰をも知らなかった。名前は消えた。記憶は擦れた。箱は跡形もなかった。残ったのは、異様に老いた男と、海の匂いだけである。

 やがて、彼は玉手箱を開けた。
 その途端、煙が立ちのぼり、さらに老いた。
 白髪は雪のように増え、顔はしぼみ、声は枯れた。
 そして、とうとう動かなくなった。

 だが、私はこの結末を、単純な教訓話として受け取る気にはなれない。
 あの男は罰を受けたのか。
 それとも、時間の秘密に触れた代償を払ったのか。
 あるいは、最初から、すべてが彼の内側で起こっていたのか。
 私はときどき、海辺の村へ行く。今でも。
 夕暮れの浜は、あの頃と少しも変わらないように見える。だが、よく見ると、砂の上に奇妙な足跡がある。亀のものとも、人間のものともつかぬ、ねじれた跡だ。私はその跡を見るたび、浦島太郎の最後の顔を思い出す。恐怖の顔ではない。驚きの顔でもない。あれは、ひどく静かな、知ってしまった者の顔だったのである。

 竜宮城は、今もあるのだろうか。
 あるいは、最初からなかったのか。
 だが、ああいうものは、あったかどうかではなく、触れてしまったかどうかが問題なのだ。触れた者は、もう以前の自分には戻れない。

 そう考えると、浦島太郎の話は、ただの昔話ではない。
 浜辺で亀を助けた若者が、海の底の女に誘惑され、時間を奪われたという、それだけの話ではない。
 もっといやらしい、もっと執拗な、人間の好奇心と恐怖と孤独の物語なのである。
 そして、箱の中でこちらを見上げていたあの小さな男の目を、私は忘れることができない。あれは、誰の目だったのか。浦島太郎の目か。時間の目か。竜宮城そのものの目か。
 たぶん、その全部だ。
 全部が混ざり合って、ひとつの暗い瞳になっていたのだろう。

 海は、黙っている。
 その沈黙が、いちばん恐ろしい。

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