雲
昨日は暑かった… 湿度? 空気、重いような気もする。
今朝も何となく重い。
温度も湿度も目に見えない。温度計も湿度計も「数字」で、温度湿度そのものでない。
空に見える雲だって、手につかめるものでない。でも、「在る」。
そう考えると、人間も雲みたいなものだ。
この肉体は表象で、数字(医学的数値)や霧、靄(魂、心?)が集まってできているが、実体は不定形だ。
相手によって態度を変え、気分によって自分が変わる。
目に見えぬ、つかめないもので「形どられ」ているだけ。
「イデー」の意味が少し解かってきた。イデー、キルケゴールが何より大切としたはずのイデー。何のための存在か── この「ための」の意味も。
そのために生きれるような、だからそのために死ねるような、「高潔な精神」とも言い換えられるもの… を実体のない「自己」に供することが生を高める、掛け値なしに大切な、重要なものになってくる。
人は自己、自己、自己のかたまりだ、一人一人が自己自己自己… この自己を自己とするのはイデーなのだ。「理念」と訳されることが主だが、… もっと大きなものが含まれている、内包されている…
ソクラテスもブッダも雲のような存在だった、と思っていた。
ブッダは対機説法で相手によって言うことを変え、ソクラテスは対話によって真の理を、地上にある限界その限りにおいて(と知りながら)雲のように言葉を使い、相手とともに真の理を確かめた── 確認、把握した。
この地上に桎梏された者、その限りにおいて、ということを知っていた。ほんとうに知っていた。
この地上に在る、ということは、空から観じなければ、見えない──
彼らが特別なのではない、われわれみな、イデーをもっている、備えられている。このイデーが自己をつくり存在をつくっている。
イデーが存在をつくっている。私がどんな私であるのか、彼がどんな彼であるのか、自己の自己たる自認も同様に他者へ授ける評価価値、印象心象(この「象」がなければ存在は存在しないも同然だ)。見る主と見られる客、この主客そのものさえイデーなくして「存在」できぬ、かよわいものなのだ。
妄想、想像、発想。イデー、イデア、アイデアは同類語である。観ずる、見る。理念に留まらず、「観念」も含まれていいのではないか。多義に渡るものだ。
義。義とは? 意味。意味を付けるものは? 本体に付いてくる付属品。その本体は不定形。おまけにばかり、目が捉われる。その目を、この目を、高められる── 「空」にあげられるものがイデーであり、自己の生を満たすも満たさぬも自由自在にできるものだ。
誰でもこれを有しているが、「不満」の方へ飛行しているようにみえる… 満たされぬ方へ満たされぬ方へ、低空飛行へ舵を取っているようにみえる… 私もそうだ… だからイデーが肝要になる、このためなら死ねる、だからこのために生きれる、そのようなイデーの高み、自己創造が。
その継続、持続も、この生がある限り、この地に桎梏されている限りの自由だ。不自由な部屋から見る空は常ならぬ美を放つ。それも常だが、実体は無常なのだ。
