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No.868 「無知の知」にも限界はある

知識は人生をコントロール可能にする道標
しかし、それが時に誤った理解で完結させることもあります。

つまり、無知であること。
この無知についてAIに以下の質問をしました。

これを「成長痛」と捉えれば、感じる痛みを少しは緩和できます。
大人である自分を長く過ごしていることもあり、
その過ごした時間の長さ、そして集めた知識の量で自分は多くのことを知っている…と自己完結させてしまうことがある。

つまり、自分に対する過信です。

物事を知ることはスッキリするだけでなく、時には恥の感情も含みます。
なので、本当は知った方がいいことを知らないままにする矛盾も起こします。

知ろうとしない、知っても受け入れようとしない
恥を感じなくて済むけど、それは自分への信頼を疑っているのではないか?

人間がここまで生きているのは感情と理性を使い分けているためでもありますが、感情が(圧倒的に)優位な状態が続くと、無意識に他人を繰り返し傷つける愚か者に堕ちてしまう。

じゃあ、堕ちることに意味はあるのか?
それでも社会で生きていけるから意味はあります。

言い換えると、成功体験。
それを自ら手放したいとはなりにくい依存的な体質になる怖さを感じる。
だからこそ、このような葛藤が起こるのです。

「でも、無知を全否定はしたくない」
なぜなら、"すべて"を知ることは生きることそのものに絶望するに違いないから。

希望と絶望を繰り返し経験するわたしたち
その経験を知識や知恵に昇華させることで、生きる強さを獲得・更新しますが、すべてを知ると思考も感情も機能不全にさせてしまう気がします。

「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない」
これは、フランスの小説家カミュの書籍「表と裏」に書かれた言葉です。

希望を抱くことは、心がワクワクしたり、行動を促す支えとして機能します。
しかしこの希望を長期保存させると、必ず来る終わりを強く恐れ、絶望し、激しく流されるでしょう。

そう気づいてしまったわたしはどうしたら?
次の絶望が来るまでに、期限付きの希望を味わい尽くすこと。
つまり、事前設定されたストーリーに従うということです。

知識は光であり、影を濃くすることもある
だから、「知っていいことにも限界はある」と認めること。
こうして探究心もコントロールすることで、継続して自分を守り、強くする。

これも、信じたいと思えることのひとつです。

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トモ@noteクリエイター4年目 最後まで読んでくださり、ありがとうございます。 ”サクセスストーリーの創作”はこれからも続きます!