母は何かを知っている。 #246
母には、話していないことがいくつかある。
主に仕事のこと。
だから実家に帰るたび、少しだけ緊張する。
私の実家はちょっと田舎の一軒家。広くはない庭には小さな池がある。小さい頃、家族みんなで穴を掘って作った池だ。
雲ひとつない真っ青な朝、母が庭で池をのぞいていた。
「のぞいてるとな、メダカが寄ってくるねん」
「ほらほら」と母が指差す。私もその先をのぞく。本当だ。小さなメダカが吸い寄せられるように水面に上がってきた。そこに母は餌をまく。
「餌やりおばさんがきたって分かるんやろな」
母は微笑む。2センチくらいのメダカたち。尾ひれが、朝の光をキラキラと波打たせていた。
「メダカ、いつから飼いだしたん?」
私が小さい頃は、近所のホームセンターで買ってきたメダカをこの池で世話したり、お祭りでとってきた金魚を池に放したりした。
「これな、あんたがちっちゃい頃に飼ってたメダカの子孫やで」
ギョッとする。
「お母さんは別に何にもしてないねん。自分たちで繁殖して、力強く生きてはるわ。メダカさんたち」
ある時、母は池にメダカの稚魚がいるのを見つけて、こうして毎朝、餌をあげるようになったらしい。「何もしてない」と言うが、バケツにためた雨水を池に継ぎ足したり、増えすぎた水草を間引いたり、なんだかんだ世話しているに違いない。
「ここら辺にトカゲの巣もあるんよ」
母は池の横の石を指差す。ジャガイモくらいの大きさだ。
「あ、ほら」
声の先で、なんと濃い緑色のトカゲがこちらを向いていた。尻尾を含めて10センチくらいの体だ。
「みんな、このおばさんは餌くれると思ってんねやろな。トカゲにはやってないけど」
だって蜘蛛とかミミズとかあげられへんもん、と母は笑う。
いや、母よ・・・・・・
餌をあげるあげないの問題ではない。人間以外の生き物たちと意思疎通できるようになってない?
「ちなみにさっきのトカゲは、この春に生まれた子やで」
この春に生まれた子!?
なぜそんなことが分かるんだ。
「だってまだ小さかったやろ。去年くらいまでもうちょっと大きい子やってんけど。きっと世代交代したんやろな」
神様ってこういう気持ちなのかな、と思う。
きっと人間の生き死にも、季節の移り変わりのように、遠くから見守っているのだろう。
さらに母は、メダカの餌とは違う粉を、庭にまきはじめた。朝の薄柔らかな光に反射するそれらは、まるで妖精のようだ。
「ウチの鳩が食べにくるのよ」
鳩。ウチの鳩?
そんなそんな。
目印にリボンをつけてるわけでもないでしょうに。いつも同じ鳩がくるんじゃないんでしょ?
「いや、きっと同じ鳩やねん。いっつも2匹、ツガイでくるんよ」
「だからウチの鳩」と母は右を見た。その視線をたどると、庭のそばの電線に、鳩が2羽、肩を寄せ合ってこちらを見ていた。まさかとは思うが、もう疑う理由もない。
「あの子たちは、人間がいなくなったら食べにくるねん」
母曰く、家に猫がいるから、それを警戒して、人がいるうちは降りてこないのだとか。
母の朝のルーチンを見届け、一緒に家に入る。
実家の庭は立派な生態系ができていた。娘ながら、母の放つ慈愛のオーラは尋常ではないと思っていたが、どうやら種族の垣根を超えるほどのものだったらしい・・・・・・
今度は猫が母にまとわりつく。「さっき餌あげたでしょ」といなす。ゴロゴロと心地よい音が微かに聞こえる。静かな朝だ。
猫の頭を撫でる母の手は、私が覚えていたものより、少しふしくれだって、血管が浮いていた。
実家を離れて暮らすようになり、お互い知らないことが増えた。私は話していないことがたくさんある。いつか全て話せたらと思っていた。でもいつからか、そう思わなくなった。
今みたいな、どうでもいい時間を大切にしたい。この世界を歪ませたくない。もう少しだけここにいさせて。
しゃがんだ母の背中を眺める。丸まった背中に張りはなく、少し小さくなったように見える。昔はあそこにおぶわれたこともあっただろう。でももう、その背中の感触も覚えていない。
触りたいな、と思った、その時だ。
唐突に、母が言った。
「このことな、小説に書いていいよ」
え。
鳩が餌をついばんでいるのだろう。コツ、コツ、と、小石が地面にぶつかる音が微かに聞こえてくる。
「そうするわ」
そう言うのが精一杯だった。
それ以上、母は、何も言わなかった。
私も、何も聞かなかった。
何を知っているのかなんて。
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