【歴史小説】天昇る火柱(4)「西方」
この小説について
この小説の主人公は、赤沢新兵衛長経という男です。
彼は、信州の小城に庶子として生まれ、田舎武士として平凡な一生を送るはずでした。
しかし彼には、二十歳近くも年の離れた兄がいました。
兄は早くに出家して家督を放り出すと、諸国を放浪し、唐船に乗って明国にまで渡ってゆきました。
そして細川京兆家の内衆となり、やがて畿内のほとんどを征服することになります。
神も仏も恐れぬ破壊者、赤沢沢蔵軒宗益。
その前に立ちふさがるのは、魔王・細川政元への復讐に全てを捧げる驍将、畠山尚慶。
弟にして養子の新兵衛とともに、赤沢宗益の運命を追いかけていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
本編(4)
「西方様が、帰ってくる」
という噂を、新兵衛は聞くようになった。
「西方様って誰だ」
甘く熟した柿に皮からかぶりつきながら、猿丸に向かって尋ねた。
惣社前の茶屋で、台に腰掛けていた。
目の前には、賑やかな往来がある。
振売、脛巾、壺装束。信濃の田舎では考えられない人通りだ。古市は、華やかさでは南都をも凌ぐ、という評判さえある。
「西方様ですか」
猿丸は何となく、乗り気のしなさそうな様子だった。眉根を八の字にひん曲げている。
「どうしたんだよ」
「惣領様のお兄君、古市西胤栄様でさ」
「へえ」
そんな者がいたのか、と新兵衛は首をひねった。
「帰ってくる、ということは、しばらくこの古市にはいなかった、というわけか」
この郷へ来てから、既に半年が経っていた。
新兵衛は惣領家へ仕える若党の一人として、日々忙しく過ごしていた。赤沢宗益の弟だから、という扱いも特にない。
朝から惣領館へ出仕して、雑用をこなし、評定に出て、家へ帰る。大和国で一番大きいという湯壺の垢を取る、という仕事まである。
惣領の澄胤はもちろん、あんな大口を叩いていた楠葉元次まで、ほとんど古市にはいなかった。家老や学侶といった連中が、その留守を取り仕切っている。
新兵衛は所用を申し付けられ、奈良や木津まで出向くこともあった。そんな時にたまたま澄胤と顔を合わせると、
『どうじゃ、赤沢新兵衛。あそこの勤めにはもう慣れたか』
などと気さくに声をかけられた。
派手な柄物の小袖を着流し、仲間と博打を打っている。向かい合うと、カリカリという音が常に聞こえてきた。手の中に二つの賽子を握り込んでいるのだ。
そういった輪の中に、天竺人の顔をした老人も交ざっていた。新兵衛もできるなら、そちらの仲間に入っていたい気がした。
古市では仕事の合間に、迎福寺の住持から読み書きを習った。あるいは、家老の鹿野園に剣の稽古をつけられる。
が、新兵衛は早くも、鹿野園程度では相手にならない、と感じ始めていた。
「しかし妙だな、俺はここへ来てから、一度もその西方様の姿を見たことがないぞ」
「それはそうでさ」
猿丸はきょろきょろと周囲を見回してから、辺りを憚る様子で口を寄せてきた。
「隠居なされて、筒井の元へ奔られたので」
「筒井」
新兵衛は思わず、顔を離して声を上げてしまった。
大和では興福寺が一国を成敗しており、その下で大乗院、一乗院という塔頭が勢力を二分している。
古市は大乗院方、筒井は一乗院方の衆徒筆頭であり、互いに奈良の支配をめぐって争い合う立場だった。
「そいつは、古市の宿敵じゃないのか」
年嵩の小者は、しいっ、という手振りで面差しを歪めている。
「左様です。だから、大きな声では言えないんで」
「俺も今じゃ、この郷の一員のつもりだ。その辺りのこと、あれこれ教えてくれ」
「それでしたら」
と、猿丸は茶屋の台から腰を上げた。新兵衛も柿の種を吹き、食べ残しの芯を足元に捨てて立ち上がった。
二人は北口の木戸から出て、郷の外、惣墓と向かい合っている厩へ向かった。
猿丸の仕事場は、その厩舎だった。新兵衛も館での勤めの合間によくそこへ出入りし、馬の世話をし、乗馬の鍛錬を積んでいた。
古市の馬は、数は少ないが質が良い、と言われている。八木、五条といった宿場はもちろん、河内、摂津などの国外からも、多くの人々が買い求めにやってくる。
何となれば、他ならない惣領の澄胤が、南山城を行き交う馬借の親玉なのだ。極楽坊の三斎市に出て、自ら馬を商ってもいたという。そうして奈良の周りの物の流れを抑えている。
だからこそ、興福寺の抹香臭さが漂ってくるような本貫の古市には、あまり居着きたがらない。
「西方様は、かつてここ古市の惣領であられました」
猿丸は、馬場の竹柵の足元にごろんと腰を下ろしながら、大儀そうに話し始めた。
「澄胤様の兄上ならば、そういうことだろう」
「しかし、文明七(1475)年に春日社大鳥居の合戦で筒井に惨敗なさると、自ら惣領の地位を退かれました。あまりにも多くの郷民が討ち死にしましたので」
「ふむ」
もう二十年も昔のことだ。信州の田舎で生まれた自分には、到底与り知れない。
「その後は、隠居分として館の西の離れにおられましたが、やがて居たたまれなくなったのか、筒井と書面を交わして謀反を企て、それが露見すると郷を出奔なされました」
「ほう」
一度は手放した惣領の座が、やはり恋しくなったのか。いずれにせよ、澄胤にとっては度し難い兄に違いない。
「しかし筒井は、今や本貫にも帰ることができない、牢人の身だろう」
「左様で」
猿丸は足元の草をむしりながらうなずいた。背後の厩からは、ぶるぶると唾を飛ばす馬たちの鼻息が聞こえてくる。
筒井氏は、惣領のあとを継いだ澄胤に合戦で大敗し、本貫の筒井郷を追われていた。奈良からも放逐され、今では東山内の奥深くまで没落している。
少なくとも軍働きにおいては、兄弟の器量の違いは明白だと言うべきだろう。
「で、そんな西方様が今さら帰ってくるとは、どういった話だ」
「澄胤様が、いよいよ本貫に居着かれないからでさ。気持ちが外へ外へと向かい、古市の惣領でいるより、むしろ南山城の守護代であられたいようじゃ。みんなそう噂しとります」
「なるほど。西方様とやらはその隙をついて、今一度惣領の位に復帰してやろうという心積もりか」
新兵衛にもようやく得心がいった。大和の小覇王たる澄胤にも、喉に刺さった小骨のような身内がいたものだ。
「で、そなたは」
「は?」
相手は乱杭歯の受け口を開いたまま、ぽかんと見返してきた。
「古市の厩を預かっている猿丸としては、どちらへつくつもりだ。澄胤様か、西方様か」
しばらく黙り込み、常に似ない厳しい顔つきになって、小さな息のかたまりを吐いた。
「先ほど申し上げた、春日社大鳥居での合戦。そこでわしの一人息子が討ち死にしましてな」
「猿丸、子どもがいたのか」
岩井川沿いの蛭子市という所に、一人で住んでいると聞いていたが、かつては家族がいたとしても不思議ではない。
「まだ十四歳で、初陣でした。今の新兵衛どのと同じように、若党として惣領家へお仕えしておりましてな。あとで筒井の方から首が送られてきましたが、口は頬まで裂かれ、目玉は両方ともえぐられて、それはもう見るに堪えんような有様でした」
暗い谷底を覗き込むような目つきのまま、淡々とつぶやいた。
「あの時の思いを、わしはこれから一生忘れることはないでしょう」
~(5)へ続く
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