【歴史小説】寧らかの波 第四章(3)「命を賭けて国を救おうという者が、一人もいないわけじゃなか」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引く少年・楠葉入鹿は、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、さらにはジイと旧知の管領・細川高国によって、故郷沼島の人々を人質に取られる。
細川氏のために働くことを強いられた入鹿は、美貌の明国人・宋素卿とともに大内氏の持つ勘合を奪いに行くが、異形と化した明国の僧・宗設に裏切られて失敗する。
南海の臥蛇島へ渡った入鹿は、佐々木永春という倭寇の生き残りの老人と出会う。そして素卿の本当の夢が、境界に生きる者たちの安息の場所を築くことだと知る。
島の来訪神・ボゼに扮した中林孫太郎に逆恨みされ、火槍で襲われながらも、入鹿は何とかこれを打ち倒す。
島に居場所をなくした孫太郎も一行に加え、素卿たちは大内の遣明船を水際で阻止すべく、大陸の港都・寧波へ向かうのだった……
本編
三
余姚江と奉化江がうねりながら合流し、甬江という一つの川になって海へ注いでいく。
三つの流れが一ヶ所に集まっているのが、三江口、と呼ばれる寧波の中心地だった。
「三つの川が合わさっている、ということであれば、山城の大山崎と同じじゃがの」
相変わらず漢服姿の永春は、白髭をしごきながら得々とうなずいた。
「三つの川?」
「桂川、宇治川、木津川じゃ。あちらは三本が一つになって淀川へ流れ込むぶん、一つ多いとも言えるかの。もっとも、八幡宮の油座とて我らの国では大きな町場じゃが、こちらの殷わいとはまるで比較にならんわい」
二つの川の西岸に、城壁で囲まれた府城がある。その外側にも官庁や商店、民家が立ち並び、数え切れないほどの人間が行き交っている。
月湖の畔から東へしばらく歩いた場所だった。元々自分たちが川を遡り、上陸してきたのもこの辺りだった。
だが改めて眺め渡してみると、ここまでの繁栄を平然と抱え込む明国というものが、むしろ空恐ろしいくらいだ。
「お前はやっぱり、何もものを知らんのう。本当に日本の男か。これは嫌味じゃねえぞ、ただの事実じゃ」
孫太郎が頭の後ろで手を組み、飽きもせず言い募ってきた。
が、もはやあまり腹も立たない。頭の限度を超えるようなことをいくつも目の当たりにして、今はそれどころではない、という気もしていた。
「その通りかもしれんな」
むしろそう答えてやると、永春の方がホッホと笑った。
「『論語』にはこうある。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずとせよ。是れ知るなり。それがわかったぶん、お主は知者に一歩近づいたということよ」
「そうなのか」
話すことまで明国人になりきっている。ケッ、と孫太郎は小さく吐き捨てた。
「あの府城の中に、武器庫がある」
素卿は、反り返ってそびえ立つ版築の城壁を指さしてみせた。
「楼、柵、門、石段で備えてはいるが、長年の太平のせいで、兵の士気も練度も緩みきっている。剣技を身につけた日本人が死を恐れずにかかれば、かなう者はいない。が、敵は明兵ではない」
張りつめた面差しで、独り言のように語り続けていた。
「正式な朝貢使として到着すれば、あの城へ入る時に、武器は全て没収される。太監から府城内部の地図を受け取ることになっているので、頭に叩き込み、できる限り速やかに自分たちの武器を奪い返すのだ」
「どういうことだ」
問い返すと、いつもと同じ冷たい横目で睨み返してきた。が、さすがに疲れの影が濃かった。あれから一睡もしていないはずだ。
「斬り合いになるとすれば、日本人相手だ。明国人はできるだけ傷つけるな。そしてこの機会に、大内の使節を一人残らず倒し、奴らの遣明船を全て燃やして沈めるのだ」
やはり、とんでもないことを考えている。入鹿は思わず武者震いをした。
「日本の使者同士が、国の外で戦うっていうのか」
「もはやそれしか、我らが認められる道はない。首尾よく運べば、大内を奸賊として上奏するよう、太監の頼恩に約束させてある。そのための下拵えだ」
「素卿、あんたってやつは」
「侄女儿!」
その時、ふいに明国の言葉で呼びかけられた。
振り向くと、薄汚れた青い袍に巾をかぶった小男が、怯えたような目つきでこちらを見据えていた。
いや、こちらではない。素卿の方だけを、まっすぐに見つめていた。口元には、媚びるような微笑を貼りつけている。鯰髭で前歯が欠けていた。
「大爷」
素卿はぽつりとつぶやいた。
それから、訥々と漢語でのやりとりが続いた。相手の小男は、たっぷり情緒を込めて話そうとしているが、答える素卿の口調にはまるで起伏が感じられない。かえって冷たく、心を抑えているようにも聞こえる。
「滚蛋!」
ところが、いきなり素卿が叫んだ。
すると小男の背後から、別の二人の男が前へ進み出てきた。
先に立つ者は黒い官服で、左右に長い布の垂れた幞頭をかぶっている。細く吊り上がった目に、温和ぶった笑みを湛えているが、隠しきれない冷徹さを漂わせていた。
後ろの若者はよく日に焼け、街中に不釣り合いな柳葉刀を腰から提げている。入鹿自身と同い年くらいで、似たようなにおいを感じた。野育ちのにおい、とでも言うのか。
面立ちも左右から引っぱり上げられたようで、顎に沿って虎髭を生やし、どことなく猫じみている。爛々と目を光らせ、不敵な面差しでこちらの全員を睨め回していた。
官吏らしい男の方が、やはり明国の言葉で何かを口にすると、素卿がそれに甲高く応じ、今度はすぐさま激しい言い合いになった。
「おい爺さん、こっちの言葉がわかるんだろう」
入鹿はたまりかね、永春の方を振り返った。
「こいつらは、一体何をこんなに喚き合ってるんだ」
「ううむ」
老人は顎を引いてうなっている。
「かなりきつい江南の方言じゃから、全部はわからんが、……とんでもない話じゃぞ」
「だから、それを教えてくれって言ってるんだよ」
思わずつかみかかりそうになった手を、どうにか抑えた。
「ひとまず言えるのは、あそこにいるオドオドした小男が、素卿殿の伯父だということじゃな」
「伯父?」
再び見ると、その男は激しい言葉の応酬に入っていけず、すっかり隅へ追いやられてしまっている。
「ぬしゃら、みんな、倭人じゃっろ」
ふいに黒い官服の男が、素卿の背後にいるこちらへ向かって声をかけてきた。
「日本の言葉だ」
入鹿はひどく驚かされた。
「おいの名は、朱子純。こう見えても昨年度の進士たい。今は南京刑部員外郎を務めちょる」
「シンシって何だ?」
「またそれか。お前は、赤ん坊か。官吏を選ぶ科挙の合格者のことだ。針の穴をくぐるほどの難関だ。お前なんぞが百回生まれ変わっても、通るんは到底無理な話じゃの」
教えてくれるのは親切だが、いちいち毒を吐かなければ気が済まない孫太郎だ。
「こっちは、兪志輔。福建のもんじゃが、妙に気が合っての。ゆくゆくは武挙の及第を目指しちょる」
異様にたっぷりとした袖を揺らし、後ろを指し示してみせた。何のつもりか、若者の方は肩の肉を揺らして笑っている。
「おいは蘇州の生まれじゃが、浙江は川を下って海へ出ればすぐそこたい。江南の平穏のためには、唇亡歯寒、の間柄じゃっど」
「ずいぶん言葉が達者だが、妙な訛りがあるな」
「ナマリ?」
相手は繰り返した。その言葉を知らなかったのか、心外に受け取ったのかはわからない。
「おいは、博多から来よった商人を捕らえて、倭語を教えさせたもんでの。こんなもんは、ほんの手すさびたい」
「なぜ、商人を捕まえなければいかん」
今度は明らかに、意外そうな面差しを浮かべた。
「海禁」
と、一言言い放った。
「そいを破ろうとしちょうんが、倭寇の生き残りと結びつきよった、漢人の流逋どもじゃ。おいの目には、ちいと先の未来がありありと見えちょる。密貿易の甘い汁に誘い出されて、群がってくる羽虫のごたる連中が、大明国ちゅう大樹の幹を食い荒らそうとするんがの」
目つきをさらに鋭くし、眉根に皺を集めていた。
「宋素卿。いや、ぬしが寧波府鄞県の歌妓、朱縞の成れの果てじゃっちうことは、とうに知れちょる。ここにおるぬしの伯父、朱澄の証言と、先ほどの受け答えではっきりしたの」
入鹿は思わず、素卿の方を見やった。心の波を抑え込むように、拳をぎゅっと握りしめていた。
「だったらどうだと言うのだ。私の過去など、何だって構うまい。それよりも倭寇や流逋と関わっているなど、一体何の証拠がある」
朱子純という男は、大き過ぎるほどの袖袋から丸めた革鞭を取り出し、しならせながら伸ばすと、ぴしゃりと路地を打ち据えてみせた。もうもうと土埃が舞い上がる。周囲の通行人が驚き、ばらばらと飛び退いていった。
「倭人を三人も引き連れて、おのれの故郷を練り歩いときながら、白々しいこったい! 密貿易で金銭を蓄えたんなら、大人しく海の外で富裕の暮らしを楽しんどきゃあよいもんを、それを全て太監へ横流しし、破格の扱いを受けるために費やすとはのう」
心からの嫌悪を込めた調子で、前歯を剥きだしていた。
「しかしの、華夏の士大夫は死に絶えたわけじゃなか。宦官の支配をよしとする者ばかりじゃあなかと。清流は濁った川面の下で、滔々と流れ続けちょる。ぬしと懇意じゃった太監の大物、逆瑾は既に誅され、凌遅刑に処されたばい。命を賭けてでも国を救おうという者が、ここに一人もいないわけじゃなか」
「可笑。お前たちは、扁額を保ってその文字を損なうようなものだ」
「その言葉、海禁に反する意あり、と捉えて間違いなかとか」
互いの間が、ひび割れる寸前の氷のように張りつめた。
ところが、素卿はいきなり吹き出し、腰にしなを作りながら、手のひらを前後に振ってみせた。
「いやだねえ、考え過ぎだってば、進士様。思わず笑っちまったよ。どうか、その鞭をしまっとくれ。私はただこの故郷で、日本人の刀術や花火の興行を打とうとして戻ってきただけさ」
今までに見たことがないほど、女らしい物腰になっている。入鹿はぎょっとする思いだった。
「仰るとおり、私には所詮、芸事しか能がなくてね。近ごろはもっぱら興行を取り仕切る方さ。こいつが刀術の名人役、こいつは花火師だ。こっちの爺いは、漢語ができるんで進行役さ」
しかし、相手はにこりともしなかった。むしろ、傲然と見下し果てたような顔つきになっている。
「嫌疑は、それだけじゃあなか。ぬしゃあ、倭の京兆大夫、細川高国に取り入る時、畏れ多くも憲宗皇帝陛下の末裔じゃと詐称したらしいの。それもただ、朱、という姓がたまたま同じじゃった、というだけで。ぬしゃあ劉玄徳か、ハッハ!」
そこで初めて、背後の若者と顔を見合わせて笑った。陸に上げられた魚が溺れているような笑顔だった。
「ぬしで帝室の末裔なら、このおいはどうなる。いや、この国にいる朱姓のもんのことごとくは、一体どうなるんじゃ! ぬしはまた中華へ戻ってくるようになって、おのれの嘘がいたたまれなくなり、宋素卿なんちゅう偽名に名乗り変えたんじゃ。文明の冥い倭人どもならそれでだまくらかせても、おいら華人にとっては、下手くそな笑い話にもならんたい」
再び鞭を振り回し、ヒュンと空を切り裂いた。
「漢奸! こそこそ動き回って、一体何を企んどる。まあよかと、全部この鞭で吐かせてくれるわい。刑部員外郎として、私貿易、贈賄、天朝に対する不敬の罪で、ぬしらを拘禁する」
朱子純は、革鞭の先をこちらへ突きつけてきた。
すると周囲を取り巻く往来の流れを横切り、赤い丸兜をかぶった兵たちがばらばらと集まってきた。鋲を打った革の上衣を揃って着込み、口金に赤い房をつけた鉾を携えている。
「入鹿、しんがりを務めろ。みな、脇目も振らずに港まで走れ」
素卿の声が終わるか終わらないかのうちに、様々なことが同時に起こった。
まず、声の主自身が真っ先に駆け出していた。永春、孫太郎もそれに続いていく。
同時に、こちらへ躍りかかってくる閃きがあった。入鹿は腰の刀を抜いて咄嗟にそれを受け止めた。
金のぶつかり合う音が響き、目の前で火花が散った。腰を落として後ろ足で踏ん張り、すさまじい圧力をかけてくる相手を押し返した。
例の若い男の柳葉刀だ。
「東洋鬼子」
目の前の脂っぽく光る目が、獣じみた笑みを湛えていた。山蒜のような息のにおいがかかってくる。幅の広い刀身をじりじりと押し込み、力の応酬を楽しんでいるかのようだ。
入鹿はふっと腕の力を抜き、後ろ足を振り上げて、相手の股間を思いきり蹴り上げた。
「哎哟!」
膝から崩れ落ち、柄を握ったままの手で前のめりに体を支えた。
「力比べに夢中になって、脚を広げ過ぎなんだ」
踵を返すと、仲間たちは群がる人垣を突き飛ばしながら遠ざかっていた。その背中を見失わないよう、すぐさま追いかけていった。
三江口の船着き場へ駆け込み、港に係留されている戎克船へ飛び乗った。
火長、舵工、頭碇、水手らに素卿が鋭く声をかけて回ると、二本の帆柱に瞬く間に帆が張られ、四爪錨が上げられ、船は悠々と岸を離れていった。
折からの順風を受け、船は滑るように甬江を下り、河口から外海へ出てゆく。
目の前にはごろりとした金塘島と、いくつかの小島が浮かんでいる。穏やかな波が、きらきらと冬の日を揉んでいた。
振り返ると、武装した兵を載せた小型の官船が三隻、こちらへ追いすがってくるのが望まれた。
「どうする」
甲板の上に立ち尽くしながら、入鹿は素卿に尋ねた。
「案ずるな。応天府の官吏なら、浙江の兵を勝手に動かせるわけではない。やつの戦力は、あれで手一杯だろう。太監も必ず、あいつの動きを止めにかかる。双嶼の海峡へ誘い込むぞ」
入鹿はうなずき、鞘に収め直した刀の兜金を撫で回した。
島々の間を抜け、鋭く尖った穿山の岬を回っていった。
六横島と仏渡島の間の水道へ差しかかる。するとこちらを出迎えるように、夥しい数の小船が、豆袋をひっくり返したように洋上へ広がってきた。
素卿が高々と掲げた袖が、風を受けてばさばさと翻る。それに応じるように、小船の群れは海峡いっぱいに広がり、どうやら追跡者を迎え撃つ陣形を組み始めた。
戎克船が波間を切り、小船のただ中へ入ってゆくと、そこに乗り込んでいる数え切れないほどの男たちが、笑いながら声をかけてきた。
「頭々儿!」
「你回来了!」
入鹿と似たような顔つきで、肌の生白い者、髪の赤っぽい男なども交じっている。素卿も揚々とした口調で、いちいち応じてやっていた。
自分たちの船もそこで回頭し、官船と対峙する態勢を取った。反転して包囲を狭めつつ、ゆっくりと前へ進んでいく。
たった三隻の官船は、あれよあれよと海峡へ誘い込まれ、小船の群れに取り囲まれていった。そこでようやく、慌てて舵を切ろうとしている。が、互いに船足が揃わず、危うく腹同士をぶつけそうになっていた。
「押し包みまするか」
永春が痰の絡んだ声で尋ねた。
「いや、退路は空けておけ。あの程度の戦力であれば、どの道やつらには双嶼へ手など出せない。博多弁の進士殿には、尻尾を巻いて南京へ逃げ帰っていただければ充分だ」
「ちょっとぐらいは脅しつけておかないと、いくらでも頭に乗ってくる。オレにやらしてくださいよ」
見ると孫太郎は、いつの間にか竹筒の束をがさがさと肩に担いでいる。素卿はそれを見て微笑し、
「どうせやるなら、派手にやれ」
とうなずいた。
孫太郎はいかにも満悦げに、ヘヘッと下卑た笑いを浮かべた。
先に銅筒のついた竹を、甲板へ下ろして並べ始めた。そうして燧石を火打金へぶつけ、消し炭に火をつけると、時間差をおいて銅筒の中へ差し入れていった。
「おい山猿、俺が撃ち終わったら、敵船へ飛び移ってひと暴れしてこい」
「お前が命令するな、島猿」
言い返しながらも、柄巻を握って組紐をよく手になじませた。刀の鯉口を切っておく。
静かに進んでいった舳先が、相手の船の鼻先にぶつかって止まった。すると孫太郎は、甲板に置いていた竹筒を素早く拾い上げ、しならせながら左右へ振り立てた。
やがてすさまじい爆音が響き、焼けた石や鉄片、鏃が敵船へ向かって飛んでいった。官製の丸兜をかぶった兵たちが、驚きのあまり為す術なく逃げ惑っている。
続けざまに二発、三発と火薬が破裂し、炎のつぶてが敵船を襲った。一本目を反対側へ置くと、さらに次の一本を持ち上げ、同じように振り立てる。再び爆音と火の雨が敵船へ降り注いだ。
「棒啊!」
「太棒了!」
味方からは、爆発の度に歓声と掛け声が上がっている。これは確かに他人には真似のできない、孫太郎だけの技だろう。
三本目の火槍を振り上げるころには、相手の帆桁や船べりにも炎が燃え移っていた。
「そろそろ行けっ、山猿」
「指図するなと言っただろう」
こいつに負けてたまるか、という思いが、入鹿の内側でふつふつと沸き立っていた。
腰の刀を抜き放つと、舳先に駆け上がり、さっと相手の船へ飛び移った。また別の驚きに目を剥く明国の兵を、飛び降りざま袈裟懸けに斬り捨てた。
それを見ても相手は逃げ回るばかりで、まるで手向かってこない。背中を向けた敵兵を二、三斬り捨てたが、まるで草を食う獣を追い散らしているかのようだ。
「確かに、人の数が多いだけでまるで弱っちい」
入鹿はむしろ、あきれるような思いだった。
ところが、ようやく回頭しかけている別の敵船から、こちらへ飛び移ってくる人影があった。
黒豹のような身ごなし、胸当てばかりの軽装に不釣り合いな柳葉刀。先ほど斬り合っていた、兪志輔とかいう若者だ。
「殺掉!」
「お前だけは少しばかり、ものが違うか」
目にも止まらぬ速さで、こちらの胸元まで駆け寄ってきた。今度は下から逆手に斬り上げてくる。剣風を感じるほどの力だ。
入鹿も咄嗟に両手で斬り下げ、それを受け止めた。勢いで額がぶつかり、頭が痺れる。不敵に笑う両目が竈門のように燃えていた。
互いに飛びすさり、大上段に構え直すと、ただひたすら激しく打ち合った。狂い啼く海鳥の声のような金音が、海峡に響き渡る。
こちらの突きを相手が斬り払い、敵の斬撃をこちらが受け流す。そんな命がけのやり取りが続いた。
ふいに、相手が柳葉刀をぶら下げたまま、無防備に突っ込んできた。また脚が開いている。入鹿は思わず、それを迎え撃つべく足の甲で蹴り上げた。
が、いきなり立ち止まって両膝が閉じられた。さらに目の前で腰を落として旋回したかと思うと、反対にこちらの軸足が払われていた。
「ああっ」
天地を失い、入鹿は手の中の柄さえ取り落としていた。
柳葉刀が薙ぎ払われた。
死ぬ、と思った刹那、入鹿は踵だけでかろうじて後ろへ跳んでいた。そちらにあるのは、海だけだ。受け止めてくれるものは何もない。
「入鹿」
逆さまに落ちてゆきながら、自分の名前を呼ぶ素卿の声が聞こえた気がした。
頭のてっぺんから、波頭の下へ呑み込まれてゆく。そのまま光さえ届かない深さまで沈んでいった。
これでは、もう一度浮かび上がっていくのは難しいだろう。
妙に冷静にそう考えた時、入鹿の心はぴったりと闇に閉ざされた。
~第五章へ続く
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