長寿のトリセツ61【長生きの最先端研究①】細胞の年齢を巻き戻す「部分的リプログラミング」の研究
ホコリを掃除するか、それとも工場出荷状態に戻すか
これまで私たちは、食事や運動、睡眠といった日々の生活習慣を通じて、細胞内の環境を整え、老化のスピードに配慮する方法を見てきました。これは例えるなら、「設計図の各ページに積もったホコリを、こまめに掃除して読みやすく保つ」という、堅実なメンテナンス戦略です。
しかし、世界の研究現場が今、挑んでいるのはさらに大きな挑戦です。「何十年も使い込まれてシステムが古びた細胞を、個人のデータ(細胞の役割・個性)は残したまま、年齢の指標だけを『工場出荷時の状態』に近づける」という試みです。今回は、この分野で近年注目を集めている技術、「部分的リプログラミング(Partial Reprogramming)」について紹介します。
iPS細胞の技術を応用した「若返り」の試み
この技術の土台にあるのは、山中伸弥博士がノーベル賞を受賞した「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」の技術です。皮膚などの体細胞に4つの特定の遺伝子(山中因子:Oct4, Sox2, Klf4, c-Myc)を導入すると、細胞は様々な組織に変化できる幹細胞のような状態に初期化されます。
しかし、これを生体内でそのまま長期間行うと、細胞が本来の役割(アイデンティティ)を忘れてしまい、組織の構造が崩れたり、腫瘍(奇形腫)が形成されたりするリスクが生じます。事務作業に例えるなら、「マニュアルの1ページを修正するつもりが、共有サーバー全体を初期化してしまい、業務に必要なデータまですべて消えてしまった」ような状態です。
そこで研究者たちは、「山中因子を、ごく短期間だけ『部分的』に働かせて、すぐにオフに戻したらどうなるか」という方法を試みました。英エディンバラ大学のオロヴァ博士らの研究(Olova N, Simpson DJ, Marioni RE, Chandra T. Partial Reprogramming De-ages Cells and Improves Tissue Function.)は、この分野の基礎的な知見の一つです。この研究では、山中因子を短期間発現させることで、細胞が本来の性質を保ったまま、DNAメチル化から算出される「エピジェネティック・クロック」の値が若い方向に変化する可能性が示されています。設計図の役割データは守ったまま、経年劣化のエラーだけを部分的に修正できる可能性がある、ということです。
失われた視力が回復したマウス実験
この部分的リプログラミングの効果は、動物実験ですでに具体的な成果が報告されています。米ハーバード大学のデビッド・シンクレア教授らの研究チームによる報告(Lu Y, Brommer B, Tian X, et al. Reprogramming to Recover Youthful Epigenetic Information and Restore Vision.)は、2020年に科学誌Natureに掲載され、大きな注目を集めました。
この研究では、加齢や視神経損傷によって視力が低下したマウスに対して、3つの山中因子(Oct4, Sox2, Klf4)を用いた部分的リプログラミングを行ったところ、網膜神経節細胞の軸索が再生し、視力の回復が確認されています。「一度失われた神経の機能は元に戻らない」というこれまでの理解に一石を投じる結果であり、「若い頃のエピジェネティックな情報の一部が、細胞の中に何らかの形で残されている可能性がある」ことを示唆する成果として注目されています。
現在では、目だけでなく、心臓や肝臓、神経系など、様々な組織への応用に向けた研究が世界各地で進められています。ただし、これらの研究の多くはマウスなど動物モデルによるものであり、ヒトでの安全性・有効性はまだ確立されていません。過度な期待は禁物ですが、今後の研究の発展が注目される分野です。
未来の技術を活かすための「土台」
この部分的リプログラミングという技術が、実際に人間の治療として使えるようになる日は、そう遠くないかもしれません。しかし、ここで見落としてはならない視点があります。
いくら将来、細胞の年齢を巻き戻す技術(若返り医療)が実用化されたとしても、土台となる私たちの体そのものが、慢性炎症や不摂生によって日々傷つけられていては、そうした最先端の技術の恩恵を十分に受け取ることはできません。将来の技術の恩恵を最大限に活かすためにも、今私たちが実践できる「時間制限食(第7回・第49回)」や「適度な運動(第46回)」によって、細胞の基礎的な状態を良好に保っておくことには、引き続き意味があると考えられます。
参考文献
部分的リプログラミングによる細胞の若返りと組織機能の改善
論文名:Partial Reprogramming De-ages Cells and Improves Tissue Function.
著者:Olova N, Simpson DJ, Marioni RE, Chandra T
掲載誌:Nature Communications (2019)
内容:山中因子の短期間発現が、細胞のアイデンティティを保ったままエピジェネティック・クロックの値を若返らせる方向に働く可能性を示した研究です。
部分的リプログラミングによる若返ったエピジェネティック情報の回復と視力の再生
論文名:Reprogramming to Recover Youthful Epigenetic Information and Restore Vision.
著者:Lu Y, Brommer B, Tian X, et al.(ハーバード大学)
掲載誌:Nature (2020)
内容:視神経損傷や加齢によって視力が低下したマウスに部分的リプログラミングを行い、網膜神経節細胞の軸索再生と視力の回復を示した研究です。
