長寿のトリセツ110【認知症とどう戦うか⑯】意外に軽視されている認知症の引き金は脳の回路を飢えさせる「難聴」
「聞こえが悪い」は医学界が警告する最大の修正可能な認知症リスク
前回は、社会的孤立という見えざるストレスがいかに脳の皮質容積を減少させ、そして他者との絆が紡ぐ「オキシトシン」がいかに海馬を保護するか、その生理学的な真実を解説しました。今回から「五感・刺激編」へ進みます。五感のうち嗅覚については、「長寿のトリセツ」88~93で詳しく解説したので省きますが、私たちの脳は外界からの情報刺激を受け取ることでその若々しさを維持しており、そのセンサーの衰えが脳のインフラを揺るがすと言われるほど重大な課題です。
今回は、近年の国際的な医学統計において「予防可能な最大の認知症リスク」として最上位に位置づけられている「難聴(聴覚の低下)」について取り上げます。
世界的権威のある医学誌ランセットが設置した認知症予防に関する国際委員会の報告書(Livingston G, et al. Dementia prevention, intervention, and care: 2020 report of the Lancet Commission.)では、認知症の発症に関わる12の修正可能な要因の中で、中年期の難聴は全体の約8%のリスクを占め、単独で最大の危険因子とされています。耳が聞こえにくくなるという日常の変化は、単に不便であるという領域を超えて、脳の内部の構造にまで影響を及ぼしうる重要な引き金だったのです。
聴覚の途絶が招く脳の変化と「二重の負荷」
なぜ、耳からの音が聞こえにくくなるだけで、脳全体の認知機能にまで影響が及んでしまうのでしょうか。
米ジョンズ・ホプキンス大学のリン博士らが1984人の高齢者を6年間追跡した研究(Lin FR, Yaffe K, Xia J, et al. Hearing loss and cognitive decline in older adults.)では、難聴のある高齢者は、正常な聴力の高齢者に比べて、記憶力や実行機能といった認知機能の低下が有意に早く進むことが示されました。さらに同グループが行った脳画像研究(Lin FR, Ferrucci L, An Y, et al. Association of hearing impairment with brain volume changes in older adults.)では、難聴のある高齢者は聴力が正常な高齢者に比べて脳全体の体積減少(萎縮)の速度が速く、この変化は聴覚野だけでなく脳の白質を中心に幅広い領域に及んでいることが確認されています。
では、難聴はどのようなプロセスを経て脳全体に影響を及ぼすのでしょうか。米ワシントン大学のピール博士とブランダイス大学のウィングフィールド博士による総説(Peelle JE, Wingfield A. The neural consequences of age-related hearing loss.)は、この関係を説明する2つの有力な仮説を整理しています。
一つめは「認知負荷仮説」です。聞き取りにくい音を懸命に解読しようとすると、脳は本来であれば記憶や判断に使うはずの認知資源(ワーキングメモリなど)を、音の聞き取りという作業に優先的に割り振らざるを得なくなります。会話についていくだけで精一杯になり、内容を記憶したり深く考えたりする余力が奪われてしまうのです。
二つめは「感覚遮断仮説」です。耳からの情報が慢性的に不足する状態が何年も続くと、使われなくなった聴覚野の神経細胞は徐々に活動を弱め、その影響が隣接する記憶の中枢である「海馬」や、思考を司る「前頭葉」を含む周辺のネットワークにも波及していくと考えられています。入力される刺激が細ることで、脳の広大なネットワークが少しずつ再編されていってしまう、というプロセスです。
この2つの仮説は互いに排他的なものではなく、日々の「聞き取りの努力」による負荷と、長期的な「刺激不足」による再編が、同時並行で脳に負担をかけている可能性が高いと考えられています。
対策は健診、適切な補聴器、日常の傾聴
しかし、ここで現代人が直面するのが「自分に合う適切な補聴器に、そう簡単には出会えない」という高いハードルです。単に音を一律に大きくするだけの機材を耳に突っ込んでも、不快な雑音に脳の神経が疲弊し、結局は引き出しの奥に眠らせてしまうケースが後を絶ちません。聴覚の低下による脳への負荷を未然に防ぎ、神経回路の変化に正しくブレーキをかけるために、極めて現実的な3つのトリセツを提案します。
トリセツ1:40代、50代以降の「定期的な聴力チェック」を健康診断の項目に組み込む
難聴は多くの場合、高音域からゆっくりと進行するため、本人が自覚しにくいという特徴を持っています。「最近、テレビの音が大きいと言われる」「居酒屋などの騒がしい場所で会話が聞き取りにくい」と感じたら、それは脳への刺激減少が始まっているサインかもしれません。健康診断の項目に聴力検査を取り入れるなど、定期的に客観的な数値を測定する自己管理体制を確立してください。
トリセツ2:補聴器の導入は、脳に音を慣らす「リハビリ期間」と捉えて専門医と組む
難聴だからと焦って市販の通信販売などの「集音器」に飛びつくのは避けてください。一気に大きすぎる音を脳に入れると、休眠していた聴覚ネットワークがパニックを起こし、拒絶反応から使用を諦めてしまう原因になります。確実な防衛策は、日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会などが認定する「補聴器相談医」や「認定補聴器技能者」のいる専門店へ赴き、現在のあなたの脳の聞き取り能力に合わせた緻密なフィッティングを行うことです。補聴器の導入とは、一発で解決する機材の購入ではなく、「数ヶ月かけて小さな音から段階的に脳へ音を馴染ませていく、脳の認知リハビリテーション」であると認識し、時間をかけて聴力を取り戻していく姿勢が不可欠です。
トリセツ3:日常の動線に「能動的なリスニング(傾聴)」の機会を作る
単に周囲の雑音をダラダラと聞き流すのではなく、脳の聴覚ネットワークを意識的に駆動させる時間を持ちましょう。例えば、「オーディオブックで本を聴く」「ラジオの音声に耳を傾ける」「静かな環境で楽器の音色を聞き分ける」といった行動は、耳から入った情報を脳の前頭葉で深く処理するため、神経回路の接続を強固に保つための優れたトレーニングとなります。
認知症との戦いにおける五感の管理とは、衰えを単なる加齢現象として諦めることではありません。「外界からの刺激という光を脳の深部へ送り続け、神経のインフラを飢えさせない環境を自らの選択で維持する」という、自らの頭脳の自主的な働きを死守するための、極めて合理的で知的な防衛策なのです。
次回は睡眠・環境編の応用として、都会の「騒音ストレス」が脳に与える影響と、静寂が脳細胞を新生させる不思議に迫ります。
参考文献
中年期の難聴と認知症予防に関する国際委員会報告
論文名:Dementia Prevention, Intervention, and Care: 2020 Report of the Lancet Commission.
著者:Livingston G, Huntley J, Sommerlad A, et al.
掲載誌:The Lancet (2020)
内容:世界中の疫学データをメタ解析し、認知症発症リスクに関わる12の修正可能な要因を特定。中年期の難聴が人口寄与割合8%で単独最大のリスク因子であることを示した報告書です。
難聴と認知機能低下の速度に関する追跡研究
論文名:Hearing Loss and Cognitive Decline in Older Adults.
著者:Lin FR, Yaffe K, Xia J, et al.
掲載誌:JAMA Internal Medicine (2013)
内容:1984人の高齢者を6年間追跡し、難聴のある高齢者は聴力正常な高齢者に比べて記憶・実行機能の低下が有意に早く進むことを示した研究です。
難聴と脳容積変化の関係に関する脳画像研究
論文名:Association of Hearing Impairment with Brain Volume Changes in Older Adults.
著者:Lin FR, Ferrucci L, An Y, et al.
掲載誌:Neuroimage (2014)
内容:難聴のある高齢者は脳全体の体積減少速度が速く、その変化は主に白質を中心に脳の幅広い領域に及ぶことを示した研究です。
加齢性難聴が脳に及ぼす影響に関する総説(認知負荷仮説・感覚遮断仮説)
論文名:The Neural Consequences of Age-Related Hearing Loss.
著者:Peelle JE, Wingfield A
掲載誌:Trends in Neurosciences (2016)
内容:加齢性難聴が認知機能に影響を及ぼす仕組みについて、聞き取りの努力が認知資源を消費するとする「認知負荷仮説」と、慢性的な感覚入力の不足が脳の再編を招くとする「感覚遮断仮説」の両面から整理した総説です。
【長寿のトリセツからお知らせ】「寿命」を追いかけていたら「人間とは何か」という問いに行き着いた
この問いを小説という形にしてみました。
執筆は梶岡隆。
6月15日より、『細胞は二十年きみを悼む』全16話を毎日1話ずつ公開しています。第1話公開後はこちらからお読みいただけます。
#細胞は二十年きみを悼む
