長寿のトリセツ116【認知症とどう戦うか㉒】脳の代替エネルギーになる食用油で危機を救う
「脳の3型糖尿病」と口内から忍び寄る外敵
前回は、日記記述や回想法といった「自らの物語を紡ぐ営み」が、自伝的記憶のネットワークを働かせ、認知症の行動・心理症状を和らげうる可能性を解説しました。認知症防衛シリーズの終わりが近づく中、今回は「食事・栄養・口腔」の重要領域を凝縮してお届けします。テーマは、エネルギー不足に喘ぐ脳を助ける代替燃料「ケトン体」の活用と、口の中から脳内へと侵入しうる「歯周病菌」を水際で食い止める防衛策です。
アルツハイマー病を発症した脳内では、記憶のネットワークが破壊されるかなり前の段階から、ある異常が起き始めていることが報告されています。それは、脳の主要な栄養源である「ブドウ糖」を細胞内に取り込んでエネルギーに変換する能力が低下することです。
この状態は「脳の3型糖尿病」と呼ばれることもあり、脳細胞は目の前にブドウ糖が豊富にあるにもかかわらず、それを十分に利用できずにエネルギー不足に陥っている可能性が指摘されています。このエネルギー問題を補いうる代替燃料の科学と、脳の防衛線を外側から脅かす意外な存在について解説します。
代替エネルギー「ケトン体」による脳エネルギー補給の可能性
ブドウ糖の取り込みが低下した脳細胞に対し、別のルートからエネルギーを供給できる可能性を持つのが「ケトン体(ketone bodies)」です。ケトン体は、体内の糖質が減少した際や、中鎖脂肪酸(MCT)を摂取した際に、肝臓において脂肪から合成される代替エネルギー物質です。
カナダ・シャーブルック大学のカンネイン博士らのグループは、軽度認知障害(MCI)の高齢者を対象としたランダム化比較試験「BENEFICトライアル」の結果を報告しています(Cunnane SC, et al. Brain energy rescue with ketones improves cognitive outcomes in MCI.)。ケトン産生を促すMCT乳飲料を6ヶ月間摂取したグループは、プラセボ(対照)グループに比べて、いくつかの認知機能の指標で中程度の改善効果が見られたとされています。
ただし、ケトン体の効果を評価した臨床試験の結果は一様ではありません。米国のヘンダーソン博士らが413名を対象に行った大規模な二重盲検試験(Henderson ST, et al. Study of the ketogenic agent AC-1202 in mild to moderate Alzheimer's disease: a randomized, double-blind, placebo-controlled, multicenter trial.)では、全体としては主要評価項目に有意差が見られなかった一方、アルツハイマー病のリスク遺伝子として知られるAPOE4を持たない群に限っては、認知機能の改善が確認されました。つまり、ケトン体による脳エネルギー補給には一定の可能性があるものの、「誰にでも劇的に効く」と言い切れる段階ではなく、遺伝的な背景によって効果に差が出る可能性がある、というのが現時点でのより正確な理解です。
脳のバリアを突破する「歯周病菌」の脅威
脳の内部をエネルギーで満たす一方で、私たちは口腔内の環境にも注意を払う必要があります。米国のドミニー博士らの研究チームがサイエンス・アドバンシズ誌に発表した論文(Dominy SS, Lynch C, Ermini F, et al. Porphyromonas gingivalis in Alzheimer's disease brains: evidence for disease causation and treatment with small-molecule inhibitors.)は、アルツハイマー病で亡くなった患者の脳組織から、歯周病の代表的な原因菌である「P.ジンジバリス」のDNAや、その毒性酵素「ジンジパイン」を高い確率で検出したことを報告しています。
この研究では、マウスを用いた実験で、口腔内のP.ジンジバリス感染が脳への菌の到達とアミロイドβ(Aβ1-42)の産生増加につながること、そしてジンジパインが神経細胞のタウたんぱくに悪影響を及ぼすことも示されました。ジンジパインの働きを阻害する薬剤を投与すると、脳内の菌量減少やアミロイドβ産生の抑制、神経保護効果が見られたことも報告されており、歯周病菌とアルツハイマー病の病理との関連を示す重要な知見とされています。
臨床の現場でも、この関連を裏付けるデータがあります。英国キングス・カレッジ・ロンドンのアイド博士らが、軽度から中等度のアルツハイマー病患者60名を6ヶ月間追跡した観察研究(Ide M, Harris M, Stevens A, et al. Periodontitis and cognitive decline in Alzheimer's disease.)では、歯周病を有する患者は、そうでない患者に比べて認知機能低下(ADAS-cogスコアの悪化)の速度が6倍であったことが報告されています。歯周病があることで全身の炎症状態が高まる傾向も確認されており、この炎症を介した経路が認知機能低下に関与している可能性が示唆されています。
食材の選択と毎日の歯みがきが持つ意味
肝臓でケトン体を作れているかどうか、そして口内の炎症がどのような状態かは、脳や全身の炎症レベルに影響を与える要因の一つと考えられています。慢性的な歯周病を放置し、口腔内の炎症が続くと、全身の炎症性サイトカインが上昇し、それが脳の免疫細胞(マイクログリア)の活動にも影響を及ぼしうるという仮説が、複数の研究で議論されています。食材の選択と毎日の歯磨きは、こうした炎症の火種を小さく保つための、日常でできる現実的な自己管理と言えるでしょう。
では、脳のエネルギー不足を補い、口腔からの脅威を水際で防ぐための3つのトリセツを提案します。
トリセツ1:朝の温かい飲み物に「中鎖脂肪酸(MCT)オイル」を少量加える
MCT(中鎖脂肪酸)オイルは、一般的な油に比べて速くケトン体へと分解され、脳のエネルギー源になりうると考えられています。無味無臭の液体ですから、朝のコーヒーやスープに小さじ1杯(約5ml)ほど混ぜて摂取してみてください(MCTオイルは一般的な油脂と異なり、胆汁酸による乳化を必要とせず、直接門脈を通って肝臓で代謝される仕組みです。この吸収スピードの速さがメリットですが、小腸内の浸透圧を急激に高めてしまう側面があり、一過性の下痢や腹痛、胸焼けを引き起こすリスクがあります。過剰摂取は胃腸への刺激となるため、少量から始めてください)。
トリセツ2:毎晩の歯磨きに「デンタルフロスや歯間ブラシ」を必ず導入する
歯周病菌は、通常の歯ブラシが届かない「歯と歯の間」や「歯周ポケット」の酸素が届かない場所を好んで増殖します。今日から、毎晩の歯磨きの後にデンタルフロス、あるいは歯間ブラシを通す作業を動線に組み込んでください。毛細血管へ侵入しうる歯周病菌の絶対数を減らすことは、費用対効果の高い防衛策の一つです。
トリセツ3:3ヶ月に1回、歯科医院での「プロフェッショナル・クリーニング」を予約する
自覚症状がなくても、歯茎の奥に蓄積した「歯石」は、歯周病菌のシェルター(バイオフィルム)となって口内に居座り続けます。これは日常の歯磨きだけでは除去できません。信頼できる歯科医院を定期的に受診し、専門器具による洗浄(PMTC)を受ける時間管理を確立してください。口腔の健康状態をプロの手で管理することは、将来の脳の健康を支えるための一つの先行投資となります。
認知症との戦いにおける「食事」と「口腔」の管理とは、単に健康的な食事を心がけたり、虫歯を防いだりすることではありません。「ブドウ糖の利用が滞りがちな脳に代替燃料の選択肢を用意し、口内から侵入しうる脅威を水際で管理する」という、体内と体外の境界線を意識した防衛策なのです。
次回は、いよいよ【認知症とどう戦うか】の最終回です。これまで解説してきた運動、睡眠、精神管理、五感、人との繋がり、食事のすべての防衛線を1枚のロードマップに統合し、認知症を恐れないための「長寿の最終トリセツ」をお届けします。
参考文献
軽度認知障害に対するケトン体(MCT)補給のランダム化比較試験
論文名:Brain Energy Rescue with Ketones Improves Cognitive Outcomes in MCI.
著者:Cunnane SC, et al.(シャーブルック大学)
掲載誌:Alzheimer's & Dementia (2022)
内容:軽度認知障害の高齢者を対象に、ケトン産生を促すMCT乳飲料を6ヶ月間摂取させたランダム化比較試験(BENEFICトライアル)。プラセボ群に比べ、複数の認知機能指標で中程度の改善効果が確認されました。
中鎖脂肪酸(AC-1202)の大規模臨床試験
論文名:Study of the Ketogenic Agent AC-1202 in Mild to Moderate Alzheimer's Disease: A Randomized, Double-Blind, Placebo-Controlled, Multicenter Trial.
著者:Henderson ST, et al.
掲載誌:Nutrition & Metabolism (London) (2009)
内容:413名を対象とした大規模試験。全体としては主要評価項目に有意差が見られなかったものの、APOE4遺伝子を持たない群では認知機能の改善が確認されました。
歯周病菌(P.ジンジバリス)の脳内侵入によるアルツハイマー病病理の誘発機序
論文名:Porphyromonas Gingivalis in Alzheimer's Disease Brains: Evidence for Disease Causation and Treatment with Small-Molecule Inhibitors.
著者:Dominy SS, Lynch C, Ermini F, et al.
掲載誌:Science Advances (2019)
内容:アルツハイマー病患者の脳から歯周病菌P.ジンジバリスのDNAと毒性酵素ジンジパインを検出。マウス実験で、この菌の脳内感染がアミロイドβ産生を促し、ジンジパイン阻害薬が神経保護効果を示すことを明らかにした研究です。
歯周病とアルツハイマー病患者の認知機能低下速度に関する観察研究
論文名:Periodontitis and Cognitive Decline in Alzheimer's Disease.
著者:Ide M, Harris M, Stevens A, et al.
掲載誌:PLOS ONE (2016)
内容:軽度〜中等度のアルツハイマー病患者60名を6ヶ月間追跡し、歯周病のある患者は、ない患者に比べて認知機能低下の速度が6倍であったことを示した観察研究です。
【長寿のトリセツからお知らせ】「寿命」を追いかけていたら「人間とは何か」という問いに行き着いた
この問いを小説という形にしてみました。
執筆は梶岡隆。
6月15日より、『細胞は二十年きみを悼む』全16話を毎日1話ずつ公開しています。第1話公開後はこちらからお読みいただけます。
#細胞は二十年きみを悼む
