第30回 芋粥も餅も、米という欲望から 〜芥川とドラえもんが映す人間への眼差し〜
人間は、時として、充(みた)されるか充(みた)されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。
古来から日本人は米を作ってきた。
その米を作るという作業は生活や文化の基礎である。
米を作ることは、日常を安定させたいという欲望ためであった。
そんな日常的な米を原材料とした「芋粥」や「もち」。
それを「飽くほど食べてみたい」と願う。
これは単に空腹を満たすという問題ではない。
非日常のものを、あたかも日常のものとして、欲望のままに貪ってみたい。という、人間らしい衝動そのものである。
そしてそれは、もしかすると「自分は特別でありたい」という心の現れなのかもしれない。
だが特別である事は、そう簡単な事でない。
それ相応に努力が必要である。
今日はそんな1コマから、欲望とそれを満たす事について考えてみたい。

よし、こうなったらもち米から作ろう。
与えられたよりも、もっと、もちが食べたいと願ったのび太とドラえもん。
あまりの食べたさのあまりに、ひみつ道具「もち製造機」を取り出す。
しかし、もちを作るには「もち米」という原料が必要だった。
もち米をママに頼んでも断られた2人は、それでも諦めきれず、
「よし、こうなったらもち米からつくろう!」
そう言って、畳を田んぼに変え、田植えから始める。
己の欲望を満たすために、時間も労力もかかる苦労を背負い込む決意がこのコマにはある。その姿は、ギャグマンガらしく愚かで滑稽だ。その上で、人間らしい愛おしさがあるように思える。
さらにこのコマからは、「消費するだけの人でなく、自らが製造する人になれば良いのだ。」……という何か、違った視線も感じられる。それもまた面白いテーマだが、ここでは脇に置いておきたい。
飽和した欲望、259個のもち
欲望を満たすために田植えから始め、日照りや台風にも負けず、バッタの駆除までして、ついに大量のもちを手に入れたドラえもんとのび太。
結果として、もちを大量に作り上げることに成功する。
喜びに浸るのもつかの間。
製造できるもちの量があと259個である事が分かる。
それを2人で分けると130個と129個になってしまうのだ。
そして、そのわずか1個の差をめぐって再び争いになり、話は終わる。
冷静に考えれば少ない方の129個のもちでさえ、食べきることはどだい不可能だ。
例えば1日3個のもちを、3回食べるとしたら、129個だと14日間とちょっとかかる。さすがに飽きるだろうし、第一、つきたてのもちがそんなに長くもたない。美味しさだって損なってしまう。
けれど、苦労を重ねて手にした成果物だからこそ「譲れない」という気持ちが芽生える。
欲望を満たすための努力が、逆に新たな欲望や執着を生む瞬間でもある。
F先生の眼差しが映し出すのは、そんな「満たされてもなお満たされない人間の矛盾」だ。
「芋粥」との共鳴
この視線は、冒頭に引用した芥川龍之介先生の「芋粥」ともつながっているように思う。
人は、充たされるかどうかわからない欲望のために、一生を捧げてしまうことがある。というようなことを芥川先生は言った。
そして、その姿を愚かだと笑うことはたやすい。欲望のために走る人を、あいつは馬鹿だと嘲ってしまうのは、実は己が欲望に忠実ではないからなのかもしれない。
実際、芥川先生は先の冒頭に続けてこう書いている。
「その愚を哂(わら)ふ者は、畢竟(ひっきょう)、人生に対する路傍の人に過ぎない。」
※畢竟:結局。つまり。※路傍の人:自分には関係ない人。
芥川先生とF先生の視線は、ここで重なる。
人間の欲望について描くとき、両先生に共通するのは「愚かで、愛らしい」という眼差しだ。
その事を読者に笑えるように仕立てながらも、根底には慈しむような深いまなざしがある。
言い換えれば、人の持つ欲望とは、笑ってしまうほど不合理なのに、その不合理さこそが人間を人間たらしめている。と言えるだろう。
実際作中で、食べる前から芋粥に飽きてしまうのは、その笑ってしまう不合理さの表れでもある。
自分はどうだろうか
ここまで芥川先生やF先生の眼差しを通じて、人間の欲望とその愚かさを見てきた。
だが、そこで立ち止まって考えたいのは「自分自身はどうなのか」という問いだ。
僕は欲望に忠実だろうか。
それとも、どこかで「そんなことは愚かだ」と笑って、路傍に立ってしまってはいないだろうか。
または、欲望に忠実な人を見て、罵り嘲って心を慰めている。
なんてこともしてしまっているかも知れない。
人にとって欲望を持つことは、不合理で、滑稽で、醜く、時に愛おしい。
それでもなお、僕の生を動かすのも、その欲望にほかならない。
だからこそ、自分がいま抱えている欲望もまた、
人間であることの証なのだろう。
叶えることも出来る欲望もあれば、出来ない欲望もある。
叶わなかったことで生まれる欲望もあれば、叶えた事で新たに生まれる欲望もある。
どんなに不合理でも生きている限り、欲望が尽きる事は無い。
つまり、人は欲望からは逃げられない。
逃げられないのであれば、それとどう共存するのかでしかない。
その不合理な欲望との共存こそが僕の欲望なのかもしれない。
そしてそれは、きっと叶う事は無くて、叶うと良いなと思い続けたいという欲望なのかもしれない。
さらに言えば、それは叶う前から満足しているともいえるし、叶えてしまっても何か問題が起こるような気がする。
やはり、僕自身もまた、同じ構造の中にいる。
欲望を持ち、時に振り回され、時にそれを糧にしながら生きている。
それをどう受けとめ、どう選ぶか。
その先にしか、自分の歩む道はないように思う。
まとめ
芥川先生。
F先生。
今回はこの一コマに込められた宇宙の中を、僕も漂ってみました。
僕にはわからないことだらけです。さっぱりと言ってもいい。
やっぱり、両先生はすげぇや。
ところで、あなたはどう考えますか?
欲望に忠実に生きていますか、それとも?
僕はもう少し欲望に正直になってみようと思うんです。
たとえタタミでもち米を作るような、叶うかどうかわからないことでも、望んでみたい。
だから、もし良かったらそんな1コマについてまた、この路傍で話し合いましょうよ。
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