偉人たちは、なぜ日本に惹かれたのか

モノには、時代の空気と人の記憶が宿る。
2009年に帰国して、最初に向かった場所の一つが、岡倉天心ゆかりの五浦海岸でした。
太平洋を望む断崖に立ちながら、私は不思議な感覚になりました。
「土地」というものには、理屈では説明できない力があります。
人間は、単に景色を見ているのではありません。
その土地に積み重なった時間や、人々の気配や、共同体の記憶のようなものを、無意識に感じ取っているのだと思います。
同じ旅程の中で、私は日光の金谷ホテルにも宿泊しました。
アインシュタイン。
ヘレン・ケラー。
アイゼンハワー。
昭和天皇。
池波正太郎。
多くの人々が、このホテルに宿泊しています。

私は昔から、「偉人のゆかりの地」というものに惹かれてきました。
それは単なる観光ではありません。
その人物が何を感じ、何に心を動かされたのかを、自分の身体で追体験したいのだと思います。
アインシュタインは、奈良ホテルにも宿泊しています。
私は奈良ホテルで、彼が弾いたとされるピアノを見ました。
アインシュタインの業績を理解する能力は、私にはありません。
しかし、彼の言葉には、若い頃から強く惹かれてきました。
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの、それこそ教育だ」
この言葉を知った時、落ちこぼれの私としては、救われた気がしました。
知識の詰め込みではない。
人間の中に最後まで残るもの。
それこそが教育なのだと。
アインシュタインは、単なる科学者ではありませんでした。
彼はピアノとヴァイオリンを愛し、ユーモアを解し、情緒を持った人だったのでしょう。だからこそ、日本の共同体の空気に、何かを感じ取ったのではないかと思います。
実際、アインシュタインは鈴木バイオリンの創業者・鈴木政吉のヴァイオリンを絶賛しています。
日本人は、昔から「模倣」から文化を作ってきました。
火縄銃。
蒸気機関車。
軍艦。
洋楽器。
最初は徹底的に真似をします。
しかし、日本人は、単なるコピーで終わりません。
気候に合わせる。
暮らしに合わせる。
共同体に合わせる。
そして最後には、自分たちの文化にしてしまうのです。
鈴木政吉のヴァイオリンも、まさにそうだったのでしょう。
私は15年ほど前に、1977年製の鈴木バイオリンの12弦ギターを手に入れました。中古なのか、アンティークなのか、微妙な年代のギターです。
眺めているだけで、幸福感がこみ上げてきます。
ギターとは、単なる「モノ」ではありません。
そこには、時間が染み込んでいます。
私は最近、35年使った椅子も修理しました。
肘掛けが壊れたのです。


新品に買い替えるほうが合理的だったかもしれません。
しかし、人間は合理性だけでは生きていません。
長年使ったモノには、記憶が宿ります。
傷。
手触り。
座り癖。
それらが、自分の人生の一部になっていきます。
私は、日本人の「愛着」という感覚は、とても大事だと思っています。
土地への愛着。
モノへの愛着。
共同体への愛着。
その延長線上に、郷土愛や愛国心があるのだと思います。
戦後の日本では、「愛国心」という言葉が、どこか危険なものとして扱われてきました。
しかし、本来のパトリオティズムとは、「故郷を愛する」という感覚に近いものだと思います。
それは、軍国主義とは違います。
自分が生まれ育った土地。
文化。
共同体。
言葉。
風景。
そういうものを、大切に思う感情です。
アインシュタインも。
ヘレン・ケラーも。
ジョン・レノンも。
スティーブ・ジョブズも。
多くの外国人が、日本に特別な何かを感じてきました。
それは、日本が経済大国だったからだけではありません。
日本人の共同体の肌感覚に、何か独特のものがあったからだと思います。
ところが日本は、戦後80年、自分たちの価値を自分たちで語れなくなってしまいました。
中国は、自国の文明を堂々と語ります。
アメリカも、自国の理念を強く主張します。
しかし日本は、おどおどしながら、空気を読み、右往左往し、「自分たちは何者なのか」を語れなくなってしまいました。
その結果、誤解や不信を積み重ねてきた部分もあると思います。
もっと、日本人は、自分たちの文化や共同体について、静かに、しかし堂々と語っていいのではないでしょうか。
私は、五浦海岸や奈良ホテルや金谷ホテルを訪れながら、そんなことを考えていました。
偉人たちは、単に日本を観光したのではありません。
日本という共同体の「空気」に触れていたのだと思います。
そして、その空気を、日本人自身が一番忘れかけているのかもしれません。
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