「共和国」と「至誠」――戦後80年の日本に問われているもの

「軽さ」しか感じられない政治
最近の皇位継承問題をめぐる国会論議を見ていて、私は強い違和感を覚えています。
もちろん、制度論として様々な立場があることは理解しています。しかし、それ以前に、いまの政治家たちの言葉から「至誠」がほとんど感じられないのです。
自分が何を守ろうとしているのか。
国家とは何か。
日本とは何か。
そうした根源的な問いに向き合っている政治家が、果たしてどれだけいるのでしょうか。
世論調査。
支持率。
SNS。
炎上回避。
そうした空気ばかりが先行し、「国家百年の計」を語る政治家が見えなくなったように思います。
橿原で見た「至誠」の政治
そのことを考えているうちに、私は戦後の橿原市の歩みを思い出しました。
橿原神宮のある橿原市。その戦後最初の市長は、激しい時代の逆風の中で、神武天皇の行列を復活させ、自ら馬に乗って市内を行進しました。天長節には学校を一斉に休みにしたとも言われています。
当時はGHQ占領下の空気がまだ色濃く残っていました。そうした中で、彼は「右翼市長」として激しく批判されました。
しかし一方で、地元市民からは圧倒的な支持を受けました。
なぜでしょうか。
それは、彼の行動に「打算」がなかったからだと思います。
損得ではなく、自分の信じるものを守ろうとした。その姿勢に、市民は「至誠」を感じ取ったのでしょう。
私は、いまの政治に最も欠けているものが、まさにこの「至誠」ではないかと思うのです。
共和国とは何か
まず最初に、「共和国」という言葉について整理しておきたいと思います。
共和国とは、国家が特定の支配者個人のものではなく、市民全体の公共のものとして運営される政治体制です。
語源はラテン語の Res publica 。
「公共のもの」という意味です。
国家は王の私物ではない。
国家は市民全体のものである。
これが共和国の基本思想です。
現在の世界を見ると、アメリカ、中国、ロシア、イラン、イスラエルなど、多くの国が共和国です。
一方、日本やイギリスは共和国ではありません。君主を持つ立憲君主制国家です。
しかし、ここで重要なのは、「共和国」と「民主主義」は必ずしも同じではないということです。
中国も形式上は共和国です。
イランも共和国です。
つまり、共和国とは単に「王がいない」という制度上の定義に過ぎません。
問題は、その国家を支える精神がどこにあるかです。
アメリカは共和国なのか、帝国なのか
最近のアメリカ政治を見ていると、私は不思議な感覚を覚えます。
かつてのドナルド・トランプは、既存秩序を破壊する異端の政治家に見えました。粗野で、衝動的で、不動産業者的な人物でした。
しかし最近の彼を見ていると、むしろ「普通のアメリカ大統領」に近づいているように見えるのです。
軍事行動。
同盟関係。
国家としてのメッセージ。
そこには個人の気まぐれというより、巨大な国家装置としてのアメリカが動いている気配があります。
つまり、どれほど異端の政治家であっても、最終的には「国家構造」の中で動かざるを得ないのです。
アメリカは共和国です。
しかし同時に、世界秩序を管理する巨大な帝国的国家でもあります。
軍事。
通貨。
金融。
技術。
情報。
それらを通じて世界に圧倒的影響力を持っています。
そして、日本はその巨大構造に深く組み込まれています。
日本は本当に主体的国家なのか
日本の安全保障は米軍に依存しています。
外交もまた、アメリカとの関係を抜きには成立しません。
戦後、日本は民主主義国家として再出発しました。
憲法。
議会制度。
選挙。
自由主義。
形式としては、確かに共和国的制度に近づきました。
しかし、制度が整うことと、国家としての主体性が確立することは別問題です。
私は10代の頃から、ずっと疑問に思ってきました。
なぜ日本は昭和の戦争を早く終わらせることができなかったのか。
広島と長崎への原爆投下。
そして敗戦。
その後、日本はアメリカ中心の戦後秩序の中に組み込まれていきました。
もちろん、その結果として日本は平和と繁栄を得ました。
しかし同時に、国家としての主体性の一部を失ったのではないかという思いが、私の中にはずっとあります。
魯迅の「阿Q精神」と戦後日本
中国の作家・魯迅は『阿Q正伝』の中で、「精神的勝利法」を描きました。現実には敗北していても、心の中だけで勝ったことにしてしまう。
いわゆる「阿Q精神」です。
私は、ときどき戦後日本にも、それに似た空気を感じることがあります。
安全保障。
歴史。
国家責任。
そうした重い問題を深く議論しないまま、経済成長の成功物語の中で生きてきた部分があったのではないでしょうか。
世界秩序が揺らぐ時代
しかし、いま世界は大きく揺れています。
アメリカとイラン。
ロシアとウクライナ。
中国と台湾。
こうした問題は、日本にとって決して遠い国の話ではありません。
台湾有事は日本有事と言われています。
エネルギー問題も、日本経済に直結しています。
つまり、戦後80年を経て、日本はいま改めて問われているのです。
私たちは、本当に主体的な国家なのか。
それとも、豊かな保護国として生きてきただけなのか。
国家を支えるもの
国家というものは、制度だけでは成り立ちません。
ローマ史の研究者たちは、国家が衰退するとき、最初に失われるのは制度ではなく、市民の精神だと言います。
つまり、
「自分たちの社会を、自分たちの責任で支える」
という覚悟です。
私は、そこに「至誠」が必要なのだと思います。
戦後直後、激しい批判を浴びながらも、自分の信じるものを貫いた地方政治家たちには、それがありました。
いまの政治家に欠けているのは、知識でも能力でもなく、その「至誠」ではないでしょうか。
戦後80年、日本社会への問い
戦後80年。
日本はいま、改めて自分自身に問い直さなければならない時代に来ているのだと思います。
国家とは何か。
日本とは何か。
そして、私たちは何を守ろうとしているのか。
その問いから、もう逃げることはできないのではないでしょうか。
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