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人は、なぜ「住む場所」に人格をつくられるのか

世間では、お金やモノを多く所有するほど、人は幸福になれると信じられているようです。

けれども、私は長いあいだ、それとは少し違うものを追いかけてきました。

それは、「心の自由」です。

時として、それは「反抗」と呼ばれるかもしれません。組織に縛られないこと。家やモノに執着しないこと。世間が当たり前だと思っている生き方を、少し斜めから眺めてみること。

私は、心が家や所有物の奴隷になるのが嫌だったのです。

高校生の頃に読んだ、鴨長明の『方丈記』の影響が大きかったのかも知れません。

三界は只心ひとつなり

鴨長明『方丈記』

この世で最も大切なのは、心が安らかであるかどうか。

鴨長明は、そう言っているように私には思えました。

私は愚直にも、高校の先生の言葉より、八百年前の隠者の言葉を信じて生きてきました。そして、高齢者になった今でも、その考えはほとんど変わっていません。

ストイックな鴨長明は、やはり格好いい。

今風に言えば、実にエモいのです。

奈良・西ノ京――寺のある風景

福岡へ移るまでは、奈良の母の実家で暮らしていました。

西ノ京。

薬師寺と唐招提寺のある町です。

昭和34年、薬師寺境内にて。自転車の練習です。
当時の薬師寺は、地域の子どもたちの遊び場でもありました。

幼い私は、その意味を何も分かっていませんでした。しかし、振り返ってみれば、千年以上も前から残る建物が身近にある環境は、人間の時間感覚をどこかで形づくるのだと思います。

人間の一生は短い。

しかし、文明や文化は長い。

そんな感覚を、知らず知らずのうちに身につけていたような気がします。

福岡の団地――共同体のなかで育つ

幼稚園から中学3年生の一学期までの約十年間は、福岡の公団住宅で過ごしました。

当時の団地には、独特の空気がありました。

子どもたちは外で遊び、大人たちは互いの顔を知っていました。

もちろん窮屈なところもありました。しかし、同時に、「自分一人で生きているわけではない」という感覚もありました。台風接近時、団地の住民は一丸となって川の堤防で土嚢積みにかりだされました。

私の共同体感覚の原点は、あの団地にあるかも知れません。

一方で、橿原という土地も、私のなかで特別な存在でした。

実際に住んだことはありません。

しかし、本籍地であり、祖父が生まれた土地であることを、物心ついた頃から意識していました。

人間には、「今住んでいる場所」だけではなく、「自分はどこから来たのか」という想像上の故郷も必要なのかもしれません。

大阪・小阪――司馬遼太郎の近く

福岡から移り住んだのは、大阪・小阪でした。

偶然にも、司馬遼太郎さんの家の近くです。

当時の私は、その意味を十分には理解していませんでした。

しかし後になって、『街道をゆく』や数々の対談集を読み返すたびに、人は土地と歴史から自由ではいられないのだと思うようになりました。

その土地には、その土地の記憶がある。

そして、その記憶が、住む人間を少しずつ変えていくのです。

鳴門――海と友人が教えてくれたこと

社会人になり、三年間暮らしたのが徳島県鳴門市でした。

ここで私は釣りを覚えました。
そして、生涯の友人を得ました。

人間は、何を学んだかより、誰と出会ったかで変わる。

私はそう思っています。

人格というものは、知識だけで形成されるのではありません。
むしろ、人との邂逅によって少しずつ形づくられていく。

鳴門は、それを教えてくれた土地でした。

六本木と芝浦――東京という巨大な磁場

鳴門から、六本木へ。

1980年代前半の六本木にオフィスがありました。
そして、住まいは芝浦の十四平方メートルのワンルームでした。
20代で独身、六本木から麻布十番を通り、居酒屋をはしごしながら三田通りを歩いて帰宅しました。

狭い部屋でした。
しかし、不思議と窮屈ではありませんでした。

家は寝る場所であり、自分を縛るものではない。
私は、若い頃からどこかでそう考えていたのでしょう。

その後、北京へ渡り、当時の駐在員はホテル住まいでした。

家を持たなくても、人間はちゃんと生きていける。
そんな感覚を、さらに強くした時期でした。

深川――池波正太郎の世界に住む

結婚して住んだのが深川二丁目でした。

富岡八幡宮の裏です。

私は長年、池波正太郎を読んできました。
その池波正太郎の描く世界のなかに、自分が暮らしている。

何とも不思議な感覚でした。
土地は、文学ともつながっています。

人は、自分が読んできた本の風景のなかに住むことで、少し違う人格になっていくのかもしれません。

多摩川を渡る、そして逃げ出す

子どもが生まれ、多摩川を渡ったところに新築マンションを買いました。
ところが、私は半年でうんざりしてしまいました。

住宅ローン。
長い通勤時間。
「こうあるべき」という中産階級的な人生設計。

何かが違う。
そう思ったのです。

家を買い、ローンを払い、長い通勤に耐える。それが幸せなのだと、どこかで決められているような息苦しさがありました。

そして私は、ニューヨークへ逃げ出しました。

十年後、そのマンションは売却しました。随分と損をしました。

家を持つことが幸福なのではない。
そのことを、私は身をもって学びました。

ニューヨーク――価値は一つではない

ハーツデールでは、家族三人でワンルームのアパートに住みました。

その後、アーモンクで一軒家を買いました。

さらに上海への単身赴任。
家族は日本へ戻り、高校生の長男はASIJ(American School In Japan)へ編入しました。

アーモンクの家も売却しました。

そして再びニューヨークへ。
今度は、ホワイトプレインズのアパート。

マンハッタンのコープ購入。
その後の売却。

振り返れば、私は家を持っては手放し、また別の土地へ移ることを繰り返してきました。

そのなかで学んだ最大のことは、価値は一つではないということでした。

アーモンクには、さまざまな人がいました。
それぞれが、それぞれの人生を生きていました。

日本のように、「みんな同じ」である必要はない。
この価値の多元性は、私の人格に大きな影響を与えました。

武蔵野と橿原

現在の中古住宅を購入し、2009年の夏に帰国しました。

最後の住宅ローンです。

この家は、私にとって大きな財産になりました。
しかし、それは資産価値の話ではありません。

ここは武蔵野のエリアです。

吉祥寺があり、三鷹があり、太宰治の気配が残っています。
人間の弱さも、寄り道も、余白も許してくれる土地です。

私は、この土地に救われてきました。

そして時折、橿原のことを考えます。

自分が生まれ育った場所ではない。それでも、本籍地であり、祖父の故郷であり、日本という国家の始まりを想起させる土地です。

不思議なものです。

団地は共同体を教え、鳴門では自然を学び、アーモンクは価値の多元性を教え、武蔵野は人間の余白を教え、橿原は国家というものを考えさせてくれました。

結局、人は「どこで生まれたか」以上に、「どこで暮らしたか」によって変わっていくのだと思います。

そして、その土地で出会った人々との邂逅によって、少しずつ人格を形づくっていく。アイデンティティとなるわけです。

私にとって住む場所とは、不動産ではありません。
それは、心の履歴書です。

人は、住んだ土地の記憶を抱えながら生きている。

だからこそ、「住む場所」は、いつの間にか私たちの人格そのものになっていくのではないでしょうか。

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