「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」 継承編第59話「鴻鵠」
その朝、会社の前に一台の黒い車が止まった。
車から降りてきた男は、健太を見るなり笑った。
「おめでとうございます。」
健太は一瞬、意味が分からなかった。
「何がですか?」
「御社の新規事業、業界ではかなり話題になっていますよ。」
男は名刺を差し出した。
そこには、大手企業の役員の肩書があった。
「ぜひ、一度お話をさせていただきたい。」
数か月前まで、誰にも相手にされなかった会社。
それが今では、大手企業の方から声をかけてくる。
健太は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その日の午後。
社内では祝賀会が開かれた。
社員たちの笑顔。
拍手。
シャンパンの音。
「社長!」
「やりましたね!」
「ここまで来ましたよ!」
健太も笑った。
嬉しかった。
心の底から嬉しかった。
――俺たちは、やった。
会社は生き残った。
社員も守った。
新しい事業も軌道に乗った。
自分が掲げた志を、証明した。
その夜。
健太は一人で会社に残った。
誰もいないオフィス。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
机の上には、一冊の古い本が置かれていた。
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」
健太は、その言葉を見つめた。
燕雀。
小さな鳥。
鴻鵠。
大きな鳥。
昔の自分なら、こう考えていた。
――鴻鵠になりたい。
――大きな人間になりたい。
――成功したい。
――誰からも認められたい。
でも、今は違った。
健太は本を閉じた。
「鴻鵠って……何なんだろうな。」
その時だった。
電話が鳴った。
龍也だった。
「健太君。」
「はい。」
「今日は随分、賑やかだったそうだな。」
健太は笑った。
「聞いてたんですか?」
「風の便りだ。」
二人で笑った。
少しの沈黙。
やがて龍也が言った。
「健太君。」
「はい。」
「今、幸せか?」
その質問に、健太はすぐに答えられなかった。
「……はい。」
「本当に?」
健太は窓の外を見た。
夜の街。
たくさんの明かり。
その一つひとつに、人の生活がある。
家族がいる。
夢がある。
不安もある。
そして、自分の会社にも、たくさんの人間がいる。
健太は静かに言った。
「幸せです。でも……。何か足りない気がします。」
龍也は黙っていた。
「会社を大きくしたいと思っていました。
成功したいと思っていました。
認められたいと思っていました。
それが全部、叶い始めた。
なのに、どうしてなんでしょう?
もっと大きなものを求めている気がするんです。」
龍也が笑った。
「それでいい。」
「え?」
「それが、君の次の問いだ。」
電話の向こうから、静かな声が続く。
「健太君。鴻鵠は、燕雀より偉い鳥なのか?」
健太は黙った。
「……違います。」
「そうだ。大きいから偉いわけじゃない。
高く飛ぶから偉いわけでもない。」
「じゃあ、何が違うんでしょう。」
龍也は少し間を置いた。
「飛ぶ方向だよ。」
健太の胸に、その言葉が落ちた。
「燕雀は、自分の世界を飛ぶ。
鴻鵠は、自分のためだけではない世界を飛ぶ。
大きさじゃない。志の向きだ。」
健太は、目を閉じた。
その瞬間、これまでのすべてがつながった。
小欲。
自分のため。
中欲。
仲間のため。
大欲。
自分を超えた未来のため。
そして、師を超えること。
知り、行うこと。
人を育て、次の人間へ火を渡すこと。
――全部、つながっていた。
「龍也さん。」
「ん?」
「やっと分かった気がします。」
「何が?」
「鴻鵠になるって、自分が大きくなることじゃない。
自分より大きなものを背負える人間になることなんですね。」
電話の向こうが静かになった。
やがて、龍也の声が聞こえた。
「……そうだ。」
その声は、少し震えていた。
「それを、君が自分の言葉で言えたなら。
もう、私は何も教える必要はない。」
健太は目を閉じた。
涙が一筋、頬を伝った。
「ありがとうございました。」
龍也は何も答えなかった。
電話が切れた。
健太はしばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、窓を開けた。
夜風が入ってくる。
空には、雲一つない。
その彼方に、一羽の鳥が飛んでいた。
健太は、その姿を見つめた。
「俺も……飛ぶよ。」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
その時、机の上の古い本が風でめくれた。
一枚のページが開いた。
そこには、かつて田山敏雄が残した言葉があった。
「人は、自分のためだけに生きる時、小さくなる。」
「誰かのために生きようとした時、人生は大きくなる。」
健太は、その言葉に手を触れた。
そして静かに笑った。
田山敏雄から龍也へ。
龍也から健太へ。
そして健太から、拓海へ。
火は、確かに渡っている。
だが、まだ終わりではない。
むしろ――
ここから始まるのだ。
翌朝。
健太は社員全員を集めた。
「皆さんに、一つ伝えたいことがあります。」
社員たちは静かに健太を見つめた。
「私たちは、成功しました。
でも、成功したことを目的にはしません。
この会社を、もっと大きくすることだけを目指すこともしません。
私たちが目指すのは――」
健太は、一呼吸置いた。
「この会社に関わった人間が、一人でも多く、自分の人生を誇れる会社です。」
誰も口を開かなかった。
「そのために、私たちは成長します。
学びます。
失敗します。
そして、また立ち上がります。
自分のために働くことから始まっていい。
仲間のために働くようになってもいい。
そしていつか、自分たちの次の世代のために働ける会社にしたい。
それが、私の志です。」
静寂。
やがて、一人の社員が立ち上がった。
拍手が起こった。
一人。
二人。
そして、会議室いっぱいに広がっていく。
健太は深く頭を下げた。
拍手の中で、彼は思った。
自分は、鴻鵠になったのだろうか。
いや。まだ分からない。
でも、それでいい。
鴻鵠とは、到達する場所ではない。
何度でも、自分より大きな空を目指して飛び続ける生き方なのだから。
その日、健太は、初めて空を見上げなかった。
空を――
自分の前にあるものとして見つめた。
そして、一歩を踏み出した。
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これは成功物語ではない。
一人の経営者が、
自らの弱さ、虚栄心、恐怖と向き合いながら、
志に人生を捧げるまでの物語である。
―― タヤマ学校 人間成長小説
『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』
次回予告 最終話「志の火」
すべてが終わったと思った時、龍也のもとに一本の電話が入る。
「龍也さん……。」
電話の主は、健太だった。
しかし、その声は今までとは違っていた。
「一人、紹介したい人がいます。」
そこに現れたのは、まだ何者でもない一人の若者。
かつての健太自身を思わせる青年だった。
龍也は、その青年を見つめる。
そして――
自分が田山校長から受け取った、あの言葉を思い出す。
「次の人間を育てなさい。」
物語は、最初の場所へ戻ってくる。
闇夜の中にいた一人の男が、
志を知り、
師に出会い、
自分の足で歩き、
そして今――
次の誰かに、火を渡す。
最終話。「志の火」
すべての伏線が、ここで一つになる。
