桜田門外の変とは何か?事件の背景と桜田烈士の思想を考察する(歴史Think No.21)
桜田烈士、当日の足取りをたどる➀
筑波烈士(つくばれっし)
1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。季節外れの雪が降りしきる江戸城桜田門外において、18人の桜田烈士たちが時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげました。幕末の大事件、「桜田門外の変」です。
この桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
さて、「歴史Think No18」では桜田門外の変が起きた背景(安政の大獄や戊午の密勅問題など)について、「No19」では変を主導した高橋多一郎と金子孫二郎という二人のリーダーについて、そして「No20」では桜田十八士の一人である斎藤監物について取り上げましたが、今回は桜田門外の変当日の烈士たちの足取りを追いながら、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士たちの心情に迫っていきたいと思います。
1 変前日、品川宿稲葉屋に集結
1860年(安政7年)3月2日、桜田烈士たちは品川宿歩行(かち)新宿の引手茶屋「稲葉屋」に集結し、その四軒隣の妓楼「相模屋」で今生訣別の宴を開きます。外壁が土蔵のような海鼠(なまこ)壁だったことから「土蔵相模」と呼ばれていた相模屋は、三田に藩邸があった薩摩藩士有村雄助が馴染みとしていた店で、そのつてによるものでした。
宴には、桜田十八士のうち増子金八と有村雄助の弟有村次左衛門以外の16人が参加。金子孫二郎は参加しませんでしたが、高橋多一郎、金子孫二郎に次ぐ指導的立場にあった木村権之衛門と野村彝之介が参加し、烈士たちを激励しました。
宴を終えた佐藤鉄三郎を含めた17人は稲葉屋に戻り、現場指揮者の関鉄之介から、襲撃時の配置などについて細かい指示が出されました。そしてその後床についたわけですが、果たして烈士たちは眠ることができたのでしょうか?
待ちに待っていたその時が到来したという高揚感と共に、数時間後には死ぬであろうという恐怖感ももちろんあったことでしょう。どれだけ酒を飲んでも、酔うことなどできなかったかもしれません。そして郷里にいる家族のことを思わぬ者は一人としていなかったことでしょう。その気になれば、夜陰に紛れて逃げ出すこともできたでしょうが、そんなことを考えた者は一人としていなかったことでしょう。そこに、現代を生きる私たちには到底たどりつくことのできない「武士道」の精神があるのです。
桜田烈士たちをそこまでつき動かしていたものは、「君辱めらるれば臣死す」の思想でした。「主君が恥を受けるようなことがあれば、主君に仕える者は命を捧げてその恥を晴らすべき」という意です。大老井伊直弼によって主君徳川斉昭は永蟄居の処分を受け、さらに水戸藩は存亡の危機に見舞われていました。自分たちは討ち死にするか、生きていたとしても死罪は免れることはないが、それでも今起つしかないという思い。要するに武士道とは、どう生きるかよりも、どういう死に様を迎えるかに重きを置かれる思想なのです。
2 雪の中、愛宕神社へ
安政7年3月3日、江戸には雪が降りました。3月3日は現在の暦では3月24日になり、降雪の可能性がないわけではありませんが、それにしてもその時期としては珍しい大雪だったようです。
吉村昭「桜田門外ノ変」では、朝、降雪を知った烈士たちに関鉄之介が「赤穂の浪士討ち入りも雪であった」と言って気持ちを高めようとする場面が描かれていますが、降雪を烈士たちが忠臣蔵にちなんでよい方に捉えようとしたことは十分想像できます。しかし実際問題、雪道を歩くのにはとても難儀したことは間違いありません。
当日の計画は、桜田門に五ツ(午前8時)までに到着するために、集合場所である愛宕神社(現在の港区愛宕1-5-3)に六ツ半(午前7時)集合となっていましたが、烈士たちが宿泊した稲葉屋(現在の北品川一丁目)から愛宕神社までは約5㎞、65~75分もの距離があったのです。
烈士たちは愛宕神社の集合時刻に合わせて、七ツ半(午前5時)過ぎには稲葉屋を出発したと考えられます。雪は三寸(9㎝)も積もっていたというのですから、その5㎞もの雪道を下駄や草履で歩くのは本当に大変であったことでしょう。早朝、しかも命を賭す大業の前に雪を踏みしめながら5㎞もの道のりを歩いていった烈士たち。雪に足をとられ、寒さも身に染みたと思いますが、襲撃の意義を記した懐中書を懐にした烈士たちは、そんな寒さも感じないほどに気持ちが昂っていたことでしょう。電車などの交通機関や車での移動に慣れきっている私たちの感覚からすれば、前日はせめて愛宕神社周辺に宿泊したらよかったのではなどと考えてしまいますが、幕府の補吏に追われ、浅草など数箇所の潜伏先を転々としていた烈士たちが一堂に会する場所は、薩摩藩の息がかかった稲葉屋しかなかったのだと思います。そしてそれ以前に、徒歩が唯一の移動手段(馬や駕籠などは身分の高い者だけ)であった烈士たちにとっては、全く意に介すことのない距離でもあったのでしょう。稲葉屋を2~3人ずつ出発した烈士たちは、札の辻(高札が立つ場所であることからこの地名になったそうです)を左に曲がり、網坂を登り、中乃橋へと歩きました。
3 桜田烈士の集合場所、愛宕神社

先日、愛宕神社に行ってきました。
愛宕神社は、戦勝や防火に連なる愛宕権現を祀っており、京都の愛宕神社が総本社です。東京都区部の天然の山としては一番の高さ(25.7m)があり、江戸を護る信仰の地とされてきました。現在は、周囲に高層ビルが立ち並んでいるためかないませんが、江戸時代は東京湾まで眺めることのできる絶好の展望スポットだったそうです。
事前にネット上で愛宕神社の写真を見て、鳥居をくぐっての石段男坂はかなり勾配がきついことは分かっていましたが、実際に目の前にすると、それは予想をはるかに超える勾配でした。訪れた日は人出も少なかったので、恐る恐るゆっくりと上り下りしましたが、人出が多い時などはさぞ危険を感じるだろうなと思いました。ましてや桜田烈士たちは雪の積もったこの男坂を下駄や草履履きで上り下りしたのですから、大事を前に滑落でもしたらと大いに肝を冷やしたのではないかと想像しました。

事前にやはりネット上で検索したところ、「櫻田烈士愛宕山遺跡碑」は男坂を上り、神社の鳥居をくぐってすぐ右手の場所に建っていたのですが、行ってみるとそこにはありませんでした。「あれ?」と思い、神社の関係者と思われる方に尋ねると、境内も奥のほうのお地蔵様の隣にありました。何らかの理由により、遺跡碑は移設されたようです。遺跡碑の裏面には、桜田十八士の名前が刻まれており、改めてこの愛宕神社に会した烈士たちの心情に思いをはせました。


男坂を下りた私は、一路、桜田門を目指して歩きました。当時は大名屋敷や武家屋敷が建ち並んでいたという桜田通りには、財務省や外務省、農林水産省などの官公庁の大きな建物があり、その地が当時も現代も日本の政治の中心地であることを感じました。

4 いざ、桜田門へ

愛宕神社から江戸城桜田門までは1.8㎞、約25分ほどで到着しました。私にとっては、ちょうどよいくらいの運動になりましたが、当日の烈士たちはそれまでにすでに約5㎞もの雪道を歩いてきていたのですから、疲れもあったことと思いますが、いよいよ襲撃現場に到着したことで、そんな疲れなど感じることがないほどに烈士たちの気持ちは高まっていたことと思います。
当時、桜田門の正面には豊後杵築藩松平大隅守の屋敷がありましたが、現在は警視庁の建物が建っています。警視庁前の横断歩道を渡って、いよいよ桜田門に到着しました。門の前は、インバウンドを始めとした観光客でいっぱいでした。桜田門は歴史的建造物として価値があるのはもちろんですが、観光客の足が途絶えることがないのは、それ以上に、歴史の大転換となる大事件が起きた場所であるからなのだろうと改めて思いました。

愛宕神社を出発した烈士たちは、五ツ(午前8時)前には桜田門外に立ちました。岡部三十郎などの事前の探索により、大老井伊直弼が桜田門を潜るのは五ツ半(午前9時)頃であることが分かっていたからです。諸大名が登城する日は、その大名行列を見物する人たちで大変なにぎわいを見せる桜田門外の濠端も、当日はさすがに大雪のため烈士たち以外には見物客はいなかったそうですが、烈士たちはそのような大名行列の見物客を装うことで、大小を差していたとしても不自然さを感じさせることはなかったのです。
前日の打ち合わせ通り、お濠側には佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎、稲田重蔵、森山繁之介、海後磋磯之介。杵築藩松平大隅守邸側に黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、蓮田一五郎、鯉淵要人、広木松之介、有村次左衛門。行列の先供に斬りかかる役目を担っていた森五六郎は桜田門に通じる短い橋の辻番所のかげに控え、襲撃後に斬奸趣意書を幕府老中に呈出する役になっていた紋付羽織袴姿の斎藤監物は傘をさして門の近くに立っていました。
大老井伊直弼が居住する彦根藩上屋敷は桜田門から約500mの濠沿いにありました。かつては憲政記念館が建っていた場所ですが、現在は国立公文書館の建設が進められており、その庭園の片隅に説明板がひっそりと建っていました。わずかな勾配ではありますが、土地が桜田門よりもやや高くなっているので、桜田門からも屋敷がよく見えたのではないかと思います。

尾張藩の大名行列が烈士たちの前を通り過ぎた後、その彦根藩上屋敷の門が開きます。いよいよ、大老井伊直弼の行列が屋敷から出てきたのです。吉村昭「桜田門外ノ変」からその場面を抜粋します。
鉄之介は、不意に小刻みなふるえが体に起ったことに狼狽した。それは、所々に立つ同志たちの顔が例外なく血の色を失い、武鑑や傘がかすかにゆれているのを眼にしたからであった。舌で唇をしきりになめる者。すでに刀の柄をにぎっている者もいる。大事を前に、かれらは極度な緊張に襲われている。
藩主である井伊直弼の駕籠を守る供揃えは20人以上おり、当然ながら剣術の腕に秀で、選びぬかれた彦根藩士たちであり、そして小者まで合わせると行列の人数は優に60人を越えていました。そこに、わずか15人(関鉄之介、岡部三十郎、斎藤監物の3人は襲撃には加わらないことになっていたため)で斬りこもうとしているのです。無論死は覚悟の上とはいえ、「失敗は許されない」という思いと、「いよいよ、主君の無念を晴らす時がきた」という思いに、烈士たちの緊張は頂点に達し、武者震いが収まらなかったことでしょう。
濠沿いの道を進んできた行列の先供が道を折れて桜田門の橋に向かおうとした時、辻番所のかげに控えていた森五六郎が、訴状を差し出すような様相で行列の前まで進み出ます。その対応に出た彦根藩の先供に森五六郎が斬りつけ、その直後のピストルを合図に烈士たちが一斉に井伊大老の駕籠に襲いかかりました。
1860年(安政7年)3月3日、五ツ(午前9時)過ぎ。歴史が大きく動こうとしていました。
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歴史Think No.18
桜田門外の変とは何か?幕末の大事件はどうして起きたのか
「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
※桜田門外の変に至るまでの経緯、原因について解説しています。
歴史Think No.19
桜田門外の変とは何か?事変を計画主導した高橋多一郎と金子孫二郎とはいかなる人物か
「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
※桜田門外の変を計画した二人のリーダー、高橋多一郎と金子孫二郎について取り上げました。
歴史Think No.20
斉昭の恩義に報いた桜田烈士・斎藤監物
「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士ー藩内神官を束ね雪冤運動に奔走した斎藤監物
※水戸藩内神官のリーダー的存在であり、斬奸趣意書を執筆した斎藤監物について取り上げました。
