桜田門外の変とは何か?桜田門外の変において関鉄之介が果たした役割について考察する(歴史Think No.26)
桜田烈士、変後の足跡をたどる③
筑波烈士(つくばれっし)
1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。季節外れの雪が降りしきる江戸城桜田門外において、18人の桜田烈士たちが時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげました。幕末の大事件、「桜田門外の変」です。
この桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
さて、「歴史Think No24」では、「変後の足跡をたどる➀」として変後に自訴の道を選択した佐野竹之介、斎藤監物、蓮田一五郎、黒沢忠三郎、森五六郎、大関和七郎、森山繁之介、杉山弥一郎の8人の桜田烈士の足跡をたどりました。「歴史Think No25」では、「変後の足跡をたどる②」として変後に京を目指した、岡部三十郎、広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の4人の足跡をたどりました。今回は、襲撃に直接加わった桜田烈士最後の一人として襲撃の指揮を執った関鉄之介を取り上げ、関鉄之介が桜田門外の変において果たした役割を考察することから、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士たちの生き様について迫っていきたいと思います。
1 関鉄之介とは?
関鉄之介は、1824年(文政7年)12月7日、10石3人扶持の関新兵衛昌克の長男として水戸上町馬口労町片町に生まれました。
鉄之介の生家は、本来ならば弘道館に入学できる家格ではありませんでしたが、河野東之介に漢学を学んだ鉄之介は、学問に素養ありと認められ入学が許可されました。ちなみに、茅根伊予之介と鮎沢伊太夫(高橋多一郎の実弟)は弘道館の同期であり、親友でもありました。
弘道館教授頭取だった会沢正志斎の「新論」に感動し、尊王攘夷思想こそ日本を守護するための正論であると確信しましたが、それは水戸藩のみならず、幕末という激動の時代を生きた若者の多くが心酔した思想でした。
1844年(天保15年)斉昭が隠居謹慎処分を受けると、会沢正志斎もまた弘道館教授頭取を罷免され隠居の処分を受けます。これに対し鉄之介は、住谷寅之介、鮎沢伊太夫、茅根伊予之介、野村彝之介らと連署して書面で抗議活動を行ったことにより、押込の刑に処せられ、そのため父新兵衛は監督不行届を理由に職を失うことになります。
1853年(嘉永6年)6月、浦賀に来航したペリー艦隊の視察を藩から命じられた鉄之介は現地に赴き、艦隊の様子などを記録します。
1855年(安政2年)3月に北郡奉行所の与力となりますが、その年の5月に郡奉行の職に就いたのが高橋多一郎でした。多一郎は鉄之介をしばしば屋敷に招いて、藩政や日本の将来について語り、鉄之介はその影響を大きく受けることになります。10月に奥右筆頭取に栄進した多一郎が、後任の郡奉行野村彝之介に推挙したことで、鉄之介は1856年(安政3年)2月に北郡務方に抜擢されます。郡務方とは郡奉行の補佐役で、部下の手代を使って郡の実務を統轄する職務です。
1858年(安政5年)5月、鉄之介は蝦夷地開拓に取り組むための視察という大変重要な任務を命じられます。
1834年(天保5年)、斉昭が幕府に対して蝦夷地開拓の請願をして以来、その事業は水戸藩にとって悲願ともいうべきものでした。函館奉行所から蝦夷地開発方御用取扱人の許しをもらった藤野喜三郎という人物が、水戸藩に対して石狩に水戸藩の会所を設けて流通の根拠地とすることを持ちかけてきたことにより、鉄之介にそのための視察という任務がまわってきたのです。喜三郎は越後国蒲原郡水原村の商人だったので、鉄之介はまず水原村に赴きます。そこで喜三郎と落ち合い、新潟から海路蝦夷地に向かう手筈になっていたからですが、5月に水原村に入ったというのに、9月になっても喜三郎が当地に表れず、蝦夷行きは実現しませんでした。喜三郎に対する疑念の思いを強くしていたさなかに、鮎沢伊太夫からの文で斉昭が井伊大老から謹慎処分を受けたという驚くべき知らせを受けた鉄之介は急ぎ江戸に戻ります。
しかし旅の疲れも癒えぬ10月には、越前藩に向けて旅立ちます。これは高橋多一郎の指示によるもので、戊午の密勅の趣旨を受けて奉勅義盟の雄藩連合の結成を目指すための遊説の旅であり、鉄之介は矢野長九郎と共に越前藩、鳥取藩、長州藩を担当し、住谷寅之介・大胡聿蔵が土佐藩、宇和島藩、薩摩藩を担当しました。しかし、翌年2月までに至る長い遊説の旅は結果的に失敗に終わります。どの藩にも水戸藩の動きに同調の意志を示す人物は少なからずいたのですが、安政の大獄直後ということもあり、幕府(井伊大老)への恐れから藩全体を動かすまでにはまだ至らなかったのです。この時の旅の記録が「西海転蓬録」として残っています。
1859年(安政6年)3月、鉄之介は水戸藩を訪れた薩摩藩の高崎猪太郎と高橋多一郎、斎藤監物らと共に会談します。高崎猪太郎は、両藩が力を合わせて井伊大老を暗殺することを訴えに来たのです。この動きを受けて、9月に鉄之介は高崎猪太郎と共に京に向かいます。目的は、井伊大老やその手足となって安政の大獄を強行した間部詮勝らを暗殺することを認めてもらう天皇の勅書をもらうことでしたが、安政の大獄により断罪された攘夷派の公家たちはすっかり怖気づいてしまっていたために、この計略は失敗に終わり、鉄之介と猪太郎は命からがら江戸に戻ってくる始末でした。
10月、安政の大獄により重臣が斬首などの苛烈な処分を受けた水戸藩では、これ以上幕府から敵視されないよう尊王攘夷激派の人間を押さえこもうと高橋多一郎に遠慮、金子孫二郎と野村彝之介に逼塞の罰を科し、水戸に帰るよう命じます。そして、多一郎らに同道して水戸に帰った鉄之介には、北郡務方の役職の罷免と蟄居の処分が言い渡されました。
12月、幕府の圧力に抗し切れず、水戸藩では戊午の密勅を朝廷に返納することを決めますが、それに反対する尊王攘夷激派の藩士や、それに同調する郷士、神官、農民たちが長岡宿に結集し、勅命書の江戸降下を阻止しようとしました。(長岡屯集)
1860年(安政7年)になってもその状況は変わらなかったため、老中安藤信睦は藩主慶篤に対し、このままでは水戸藩の改易もあり得ると恫喝し
さらに藩の家老を呼び出し、「返納に反対する者は斬り捨てよ」と命じました。藩は長岡勢討伐のために兵を差し向けると共に、高橋多一郎、金子孫二郎、鉄之介らを禁錮に処することを決定します。
その知らせを多一郎から受けた鉄之介は、この状況を打開するためには井伊大老を討つしか道はないと、2月18日、密かに水戸を脱出し江戸に向かいます。
以上が、桜田門外の変までの関鉄之介のおおまかな足跡です。
2 鉄之介はなぜ襲撃現場指揮者を任されたのか?
「歴史Think No19」を始め、本稿で一貫して述べてきたように、大老襲撃が成功した要因の一つとして、高橋多一郎、金子孫二郎という有能な指導者がいたことがあげられます。計画はこの二人が練り上げ、野村彝之介、木村権之衛門の二人がサブリーダーとしてそれを支えました。
しかし、この4人とも大老襲撃には加わる計画ではありませんでした。そこで現場を統率する役割を担う指揮者として指名されたのが関鉄之介でした。それが多一郎、孫二郎両人の意志であったことは間違いありませんが、ではどうして鉄之介が選ばれたのでしょうか?
その理由は、前項の鉄之介の足跡を見れば明らかと言ってよいのではないかと思います。
鉄之介は弘道館時代より尊王攘夷思想に傾倒していましたが、その思想をさらに深化させることになったのは高橋多一郎との出会いでした。北郡奉行として、鉄之介の直接の上司となった多一郎はすぐにその資質を見抜いたのでしょう。だからこそ多一郎は、鉄之介に藩政や日本の将来について熱く語ったのだと思います。鉄之介は多一郎の推挙により北郡務方となり50石を賜ることになりますが、わずか10石3人扶持という下士の家の生まれであった鉄之介にとっては大変な栄達と言えます。
戊午の密勅の趣旨を受けて奉勅義盟の雄藩連合の結成を目指すための遊説に派遣されたのも、薩摩藩士高崎猪太郎と共に京に派遣されたのも多一郎の指示によるものであり、多一郎が鉄之介に絶大な信頼をおいていたことが分かります。鉄之介が郡奉行である多一郎の元で働いたのはわずか5ケ月程でしたが、多一郎は鉄之介の働きを見て、その行動力や部下を統率する力などを高く評価していたのだと思います。
変に至るまでの行動歴から考えれば斎藤監物も現場指揮者としての資格は十分であり、岡部三十郎も家格、年齢共に鉄之介より上ではありましたが、井伊大老暗殺を企図した当初から、現場の指揮を任せるのは鉄之介以外にないと多一郎が決めていたと私は考えます。
3 鉄之介が果たした役割とは何か?
3月1日、金子孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、有村雄助、木村権之衛門を集め、決行は3月3日。登城中の井伊直弼を桜田門外で襲撃するという最終決断を伝えると共に、次のような5つの指示を出しました。
・武鑑を携えて、行列の見物客を装う。
・4、5人を一組として連携する。
・まず先供を討ち、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つ。
・大老は討ちとるだけでなく、必ずその首級を挙げる。
・負傷者は切腹か閣老に自訴し、その他の者は京を目指す。
このように大老襲撃の作戦は高橋多一郎と金子孫二郎によって練られていましたが、その役割分担をし、烈士に周知するのが鉄之介の任務でした。
変前日、品川徒歩新宿の土蔵相模にて今生訣別の宴を催した後、宿所である稲葉屋にて鉄之介はそれを行います。検視見届役に岡部三十郎。斬奸趣意書呈出役に斎藤監物。行列の先供に斬りかかる役目を森五六郎。駕籠襲撃の合図とするピストルを撃つ役目を黒沢忠三郎。そして、右翼(お濠側)に佐野、大関、広岡、稲田、森山、海後。左翼(杵築藩松平邸側)に黒沢、山口、杉山、増子、蓮田、鯉淵、広木、有村というように、烈士たちの立ち位置までを細かく指示したのです。
岡部三十郎を検視見届役に指名したのは、三十郎が、烈士の中では井伊直弼の顔を見たことのある唯一の人物だったからです。斎藤監物を斬奸趣意書呈出役に指名したのは、井伊大老暗殺の趣旨を認めた斬奸趣意書を執筆したのが監物本人であり、藩内の神官を束ねて斉昭の雪冤運動に奔走するなど、それまでの行動が際立っていた監物以外には考えられない役目であったからとも言えます。さらに、襲撃の口火を切るかなり度胸のいる役目に森五六郎を指名したのは、剣術に長け気性も激しい五六郎の特性を知っていたからであり、黒沢忠三郎をピストルを撃つ役目に指名したのも、やはり冷静沈着な忠三郎という人物を理解した上でのことでした。
関鉄之介が大老襲撃において果たした役割として、まずは烈士それぞれの特性やそれまでの経歴などを考慮した上での適切な役割分担が機能したことを挙げることができますが、それ以上に、鉄之介の指示に対し烈士たちが異を唱えることなく受け入れた点にこそ大きな意味があったと私は考えます。
井伊大老を討つという同じ思いで集結した烈士たちでしたが、それまでの烈士同士の関わりには当然のことながら濃淡があり、江戸に潜伏して初めて顔を合わせたという者同士もいました。そうした状況の中で大事を果たすためには、統率のとれた組織的な行動が欠かせません。そうしたことも考えて多一郎と孫二郎は鉄之介に現場の指揮者という役割を任せたのだと考えます。それは、尊王攘夷激派の指導者である高橋多一郎の下で鉄之介が重要な働きをしてきたことは烈士たちの知るところであり、すでに鉄之介が烈士たちの間では一目置かれる存在であったったということです。
斎藤監物が約を違えて襲撃に加わってしまうというアクシデントはありましたが、井伊大老の首級をあげるという目的を果たすことができたことには
作戦面においても精神面においても鉄之介が果たした役割には大きなものがあったと言ってよいと考えます。
明治時代まで生き延びた海後磋磯之介が次のような証言を残しています。
「関は此時まで傘を持て前後の進退掛引を司り居りあっぱれ指揮者と見受けたり」。あくまで行列見物に居合わせただけの風を装い戦闘を観察していた鉄之介を有能な指導者と評価しています。こうした認識を、烈士たちの誰もが有していたのだと考えます。
4 変後の鉄之介の足どり
井伊大老の首級をあげるのを見届けた鉄之介は、3月5日には野村彝之介、木村権之衛門、岡部三十郎と共に、高橋多一郎と合流するために京を目指します。しかし多一郎が長男庄左衛門と共に大坂で自刃し、金子孫二郎も捕縛されたことを知った四人は大変な衝撃を受けます。井伊大老の暗殺に併せて薩摩藩兵が京に入り朝廷を守護するという計画は、薩摩藩が動かなかったことから頓挫していたのです。
そこから、鉄之介の長い逃亡生活が始まります。
浪華、丸亀、播州赤穂、姫路、岡山、広島、赤間関、小倉、熊本、水俣と歩き、薩摩藩の同志を頼ろうと国境まで行きますが、関所が封鎖されていたため薩摩藩に入ることはかないませんでした。
鉄之介の人生は、まさに「生涯歩き続けた武士」と表現しても決して言い過ぎではない人生であったと思います。馬、駕籠、船以外には交通手段がなく、どこに行くにも歩くのが当然という時代であったとは言うものの、現代を生きる私たちには考えられないほど鉄之介はよく歩きました。
薩摩藩への潜行を諦めた鉄之介は、7月には密かに水戸藩に戻り、大子袋田村の桜岡源次衛門に匿われます。鉄之介は北郡奉行所の与力を勤めていた時代に、こんにゃく会所の開設に尽力し、源次衛門をその世話掛として敷地内に会所を設けるなどして以来懇意にしていました。また、尊王攘夷思想に共鳴していた源次衛門は、井伊大老襲撃のための資金をも提供していました。桜岡家には、200両の金をおさめて送り届けたという大きな真鍮製のやかんが残されています。自分が身を潜める土地はそこしかない、と鉄之介は考えたのだと思います。

桜岡源次衛門は袋田村の豪農桜岡家の婿養子で、わずか29歳の折に、当時の郡奉行藤田東湖から庄屋に抜擢されるほどの人物で、大子郷校掛や近隣村々の兼帯庄屋、山横目を務め、1864年(元治元年)には郷士格となりました。
鉄之介は、翌年1861年(文久元年)8月までの約1年その地に身を潜めましたが、桜岡家だけでなく源次衛門の縁故や知己の多くの人物の庇護を受けました。やかんに隠した200両の資金を江戸まで届けた小生瀬村組頭の肥後五左衛門。同じく小生瀬村庄屋の大藤勇之介。遠路大坂まで逃亡資金を持参した源次衛門の甥の石井重衛門。金澤惣七郎。高柴村庄屋の益子喜衛門。同じく高柴村組頭の柏五郎兵衛。上高倉村組頭の小池健之介等々。鉄之介が1年もの間捕縛されることなく潜行できたのは、北郡奉行所時代に鉄之介自身が築いた人間的なつながりがあったからであることは言うまでもありませんが、それと共に農民を大切にした斉昭を尊崇し、尊王攘夷思想に共鳴する地元民が多い土地柄であったということも言えると思います。
現在、桜岡家の跡地にはホテルが建っていますが、そのすぐ近くに鉄之介の歌碑が建てられています。碑文は伯爵田中光顕によるものです。
河鹿鳴く 山川みすのうきふしに あわれははるの夜半にもしる
春のある夜半、ふと目覚めると近くの谷川の瀬音に交じり、河鹿の鳴き声が聞こえてきた。潜伏中の身であるが、その音に得も言われぬ情緒を覚え、しみじみと聞き入り、春にもあわれを感じた。


1861年(文久元年)8月、藩の追っ手が迫ってきたことを察した鉄之助は水戸藩領を脱出し、天領の伊香を経て10月には越後国に逃れます。どこに逃亡するか思案した際に、かつて訪れた水原村のことが頭に浮かんだに違いありません。
鉄之介は藤野喜三郎を訪ねますが、留守であったために、以前訪問した際に旧知の関係になっていた下関村の佐藤又次右衛門宅を訪問し、その足で湯沢温泉に向かいました。しかし、10月24日逗留していた田谷旅館において追ってきた水戸藩の捕吏に捕縛され、水戸の赤沼獄に移送されました。
新潟県岩船郡関川村には、「関鉄之介潜匿記念の碑」が建立されています。
1862年(文久2年)4月に江戸小伝馬町獄舎に移送された鉄之介は、5月11日に斬首されました。享年39歳。
幼い長男誠一郎を思って詠んだ歌が残されていました。
故郷の花を見捨てて迷う身も 都の春を思ふばかりぞ


5 愛妾 滝本いの
江戸に出る機会の多かった鉄之介は、日本橋北槙町にいのという愛妾を住まわせていました。いのは、吉原の谷本楼で瀧本という名で遊女をしていた女性です。
水戸を脱出し江戸に入った鉄之介にとっては、潜行場所でもありました。
変後、いのは幕府に捕縛され、鉄之介の行方を厳しく追及されますが、何も知らされていなかったいのが答えられるはずがありません。石抱きなどの激しい拷問を受けたいのは、小伝馬町獄舎にて獄死します。享年23歳。
2年後、小伝馬町獄舎に移送されてきた鉄之介は、そこで初めていのの死を知ることになります。
桜田烈士たちの遺墳が遺る小塚原回向院には、いのの墓と立派な顕彰碑が建てられています。


6 鉄之介の功績
吉村昭氏は、文庫版「桜田門外ノ変」のあとがきにおいてこう記しています。
小説の主人公を襲撃現場の指揮をとった関鉄之介にしたのは、鉄之介に多くの日記が遺されていることを氏(吉田常吉氏※筆者註)に教えていただいたからだが、その事件のすべてに直接ふれているかれを視点に据えたのは正しかった、と今でも思っている。
鉄之介は大変几帳面な人物だったようで、前述した「西海転蓬録」だけでなく、日記や旅の記録を数多く残しています。変後の袋田村を拠点とした潜行の記録「庚申転蓬目録」は6冊中5冊が残されているそうです。
桜田門外の変は、日本史の学習で必ず学ぶ歴史的大事件ですが、ほとんどの日本人は、当時の大老であった井伊直弼が暗殺された事件程度の知識しかありません。歴史好きを自認している茨城県人の私自身でさえ、高橋多一郎や関鉄之介の名前さえ知りませんでした。
そうした状況の中で、桜田門外の変に至るまでの経緯や変に関わった人物などを広く日本人に教えてくれたのが吉村昭氏の小説「桜田門外ノ変」でした。そのことを思えば、氏が小説を執筆するための貴重な資料とした日記等を遺した鉄之介の功績は、襲撃現場の指揮者であったこととはまた別の意味で大きなものと言って間違いありません。いつの日か変の大義をこの国の人々に広く知らしめたいと願っていたであろう鉄之介も、さぞ草葉の陰で喜んでいることと思います。
繰り返しになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しています。それを成し遂げたのが、関鉄之介を始めとした桜田烈士たちでした。
私は、桜田門外の変は学術的にももっともっと注目され、研究されてもよい歴史的事件だと考えており、自身への反省の念も込めて、今後も桜田門外の変について研究を続けていきたいと考えています。
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