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斉昭の恩義に報いた桜田烈士・斎藤監物(歴史Think No.20)

「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士ー藩内神官を束ね雪冤運動に奔走した斎藤監物

                    筑波烈士(つくばれっし)
 「君辱めらるれば臣死す」。これは中国戦国時代の故事にある言葉であり、「主君が恥を受けるようなことがあれば、主君に仕える者は命を捧げてその恥を晴らすべき」という意です。
 1860年(安政7年)3月3日、江戸城桜田門外において時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげた桜田烈士たちをその行動につき動かしたのは、まさしくこの思想でした。
 桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
 井伊大老襲撃に参加した18人の桜田烈士の中には、3人の神官が含まれていました。斎藤監物、海後磋磯之介、鯉淵要人の三人です。それを知った時、正直私は違和感を禁じ得ませんでした。神に仕え祭祀を司る姿と刀を手に斬り合う姿はあまりにもかけ離れたものに思えたからです。だからこそ私は、さらに桜田門外の変について調べてみたいと思いました。藩主斉昭に仕えた水戸藩士だけでなく、神に仕える神官さえも大老襲撃という行動につき動かしたものとは何であったのか、と。
 そこで今回は、水戸藩内神官のリーダー的立場にあった斎藤監物をとりあげます。

1 斎藤監物とは(斎藤監物の墓地に建つ説明板より抜粋)
 名は一徳、号は文里、監物は通称である。代々静長官と称した静神社神官の家に生まれ、成沢村(水戸市)の庄屋加倉井砂山の日新塾に学び、神官としての教育は、父元親から受けた。
 その後、藤田東湖のもとで学問に励み、特に書をよくし、師東湖にそっくりの字を書き、代書をつとめたと伝えられている。剣は神道無念流。
 天保14年(1843)に水戸東照宮の神官となり、さらに弘道館内鹿島神社の神官も兼ねた。
 天保15年(1844)5月、藩主斉昭が幕府から隠居謹慎の処分を受けた際は、周辺の神官たちを率いて雪冤運動に奔走した。
 安政5年(1858)、大老井伊直弼は日米修好通商条約に無勅調印。これに抗議した斉昭や吉田松陰ら多くを処罰・処刑した安政の大獄が起こった。憤激した水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名らが、安政7年(1860)3月3日朝桜田門外に於いて井伊大老を襲撃、この時監物は、神官同士の三嶋神社(那珂市本米崎)の海後磋磯之介と鹿島神社(城里町古内)の鯉渕要人らと襲撃に加わった。いわゆる桜田門外の変である。監物は重傷を負いながらも斬奸趣意書を老中脇坂安宅邸に届け、その夕刻には肥後藩細川越中守邸に預けられたが、傷が悪化し3月8日遂に死去した。39歳。

 監物が日新塾に入門したのは13歳の時ですが、加倉井砂山は、天下国家を論じ尽忠報国の精神に篤い監物のような熱血漢を片田舎においていては了見を狭くして大事を誤る恐れがあると考え、3年後には水戸城下の藤田東湖の私塾に入れました。忠義心に篤い監物らしいエピソードです。

静溜池から静神社を拝す

2 静神社とは(静神社境内に建つ説明板より抜粋)
 静神社は、鹿島神宮、香取神宮とともに古くは東国の三守護神とされ、また常陸一の宮の鹿島神宮に次いで二の宮といわれた古い神社である。
 祭神の建葉槌命(たてはづちのみこと)は日本で初めて織物を織った神と言われる。水戸二代藩主徳川光圀(義公)は、特に静神社を崇敬し社殿を改築し奉納させたが、天保12年(1841年)火災で焼失し、神明造の社殿は水戸九代藩主徳川斉昭(烈公)によって再建されたものである。
 宝物には奈良時代の後期の作といわれ、「静神宮印」と刻まれた銅印がある。なおこの地方は昔「静織(しどり)の里」と呼ばれ、初めて織物(綾織)を織ったと伝えられている。

 この説明にあるように、斎藤監物の生まれた静神社とは、常陸の国において鹿島神宮に次ぐ格式を誇る神社でした。そして、焼失してしまった社殿を再建したのが徳川斉昭だったのです。

静神社の社殿

3 斉昭と斎藤監物の関わり
   斉昭はそれまでの藩主とは違って、自らの意志で積極的に藩政改革に取り組みましたが、その一つに神道興隆の政策がありました。
 徳川家康の第十一子頼房を藩祖とする御三家水戸藩の地には家康を祀る神社として東照宮があり、毎年家康の忌日4月17日には「権現さま」のお祭りということで、水戸の城下は最大の賑わいを見せました。
    神仏習合の時代だったので、祭儀は神職と僧侶双方で取り仕切りましたが、実際は僧侶のほうが力が強かったので、神職はその風下に置かれた状態でした。斉昭はこの東照宮の改革に着手し、天保14年(1843年)7月東照宮を完全な神社として祀るため、江戸上野の寛永寺の支配に属していた関係寺院を一切やめさせ、代わりに神官として任命したのが静神社の長官だった斎藤監物だったのです。
 斉昭は、火災で焼失した静神社の社殿を再建したばかりでなく、水戸東照宮の神官に斎藤監物を任命したのです。こうした斉昭の恩顧に対して、監物が深く恩義を感じたことは想像に難くありません。天保15年(1844年)に突然斉昭が隠居謹慎を命じられた際は、水戸藩領内の神官・神職をかき集め、幕府に処分解除を求める雪冤運動を展開しました。そのため監物は禁錮刑を受け、解除されたのは嘉永2年(1849年)でした。
 しかし監物はそうした処分に怯むことなく、安政5年(1858年)に井伊大老より斉昭が再び謹慎の処分を受けた際も、藩内の神官を束ね、その先頭に立って雪冤運動に取り組みました。また、長岡屯集の際には神職有志134名の代表としてその指揮をとるなど、監物は一貫して斉昭の恩義に報いるため奮闘したのです。監物は神官という立場でしたが、武士にも劣ることのない「義に篤い人物」だったのです。

4 斬奸趣意書
 桜田門外において井伊大老を襲撃した18人のメンバーの中で、直接戦闘には加わらないという手筈だったメンバーが3人いました。現場指揮者の関鉄之介と検視見届役の岡部三十郎、そして斎藤監物の3人です。監物は井伊直弼を討ちとった後、その大義を記した斬奸趣意書を幕府老中に呈出する役目を担っていたのです。
 斬奸趣意書を執筆したのが斎藤監物でした。1で書いたように、監物は師藤田東湖の代筆を務めるほど書に長けていました。監物の筆による書状や文書が現存していますが、見事な筆跡です。まさに、うってつけの役であったと言ってよいでしょう。
 安政7年(1860年)3月1日、リーダーである金子孫二郎は関鉄之介を始めとした数名の同志に対し、2日後の3月3日に大老襲撃を決行することを告げました(歴史Think No.19を参照してください)が、その際監物に対し、変後京への同行を依頼しました。それに対し監物は、金子孫二郎からの依頼であっても迷うことなくこう答えて辞退しました。
「恐れながら私は、江戸潜入のみぎり蓮田一五郎、鯉淵要人の両名と生死進退を同じゅうする誓約を交わしておりますれば。」
 全ての烈士がそうであったと思いますが、監物もまた死を覚悟していたのです。
 安政7年(1860年)3月3日、季節外れの雪景色となった桜田門の前で烈士たちはその時を待ちました。関鉄之介は商人風の格好をするなど、烈士たちの服装は様々でしたが、斬奸趣意書を幕府老中に呈出する役になっていた監物は、礼儀を重んじ紋付羽織袴姿をしていたため大変目を引いたそうです。
 五つ半頃(午前9時頃)、桜田門の前まで進んできた彦根藩の行列の先供に森五六郎が斬りつけ、その直後のピストルを合図に烈士たちが一斉に井伊大老の駕籠に襲いかかりました。現場で襲撃の一部始終を見ていた水戸藩士・畑弥平が、襲撃から直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」であったと証言しているので、わずか数分の出来事であったと思われますが、その数分を我慢して待つことのできなかった人物がいました。そう、斎藤監物です。
 監物は、戦闘には加わらないという取り決めを違え、刀を抜いて斬りこんでしまったのです。彦根藩士と斬り合い、傷つき血をながす同志の姿を見ていて、監物はそれをただ見ていることに堪えられなくなったのでしょう。組織的な動きが求められるこのような軍事的な行動において、監物のとった行動は決して褒められるものではありませんが、しかし私はそこにも、義に篤い烈士・斎藤監物の姿が表出されていると考えます。
 監物は重傷を負いながらも、老中脇坂安宅邸に斬奸趣意書を呈出しますが、この傷がもとで変の5日後に命を落とします。身柄は肥後藩細川家に預けられましたが、深手のために起き上がることもできませんでした。その床の中で、細川家の公用人の求めに応じ、監物は次の歌を詠みました。
 君がためつもるおもひも天つ日に とけてうれしき今朝の淡雪

 君、斉昭の恩義に報いることができた喜びが歌に込められており、胸を打ちます。この歌は、細川邸の厚意により、監物の義父である山国兵部を通して、監物の妻お昌に届けられました。水戸藩で主に軍事畑を歩んできた兵部は、後に天狗党の乱に参加することになりますが、天狗党が兵を挙げた当初は、実弟の田丸稲之衛門が大将だったことから、藩からは鎮撫使の役目を仰せつかりました。しかし、藩主慶篤の名代として水戸にやってきた宍戸藩主・松平頼徳が諸生派の抵抗に遭って、水戸城に入れないという異常事態を知るに至り、大発勢に加わり天狗党と行動を共にすることになるのです。その際兵部の脳裏には、忠義のために死んでいった義理の息子・監物の姿があったことは想像に難くありません。

5 斎藤監物の墓を参拝する
 斎藤監物の墓を参拝したいという思い抑え難く、先日那珂市まで行ってきました。
 静神社と道路を隔てて静溜池があり、その南側の林の中に静神社宮司斎藤家累代の墓があり、その中に監物の墓もありました。墓に手を合わせながら考えました。
 監物をそこまでつき動かしたものとは何であったのであろうか。
 火災で焼失した静神社の社殿を再建し、水戸東照宮の神官として自分を引き立ててくれた斉昭に対して、監物が深い恩義を感じていたことは間違いありません。しかしそれだけではなく、監物をそこまでつき動かしたものは、やはり「君辱めらるれば臣死す」の信念であったと考えます。水戸藩で生まれ育った監物にとって、藩主であった斉昭はやはり君なのです。斉昭の雪冤運動に多くの町人や農民が立ち上がったことからもそれは分かります。
 井伊大老のために辱められた主君の汚名を今そそがずして、いつ主君の恩に報いる時があろうか。
 その一心で斬奸趣意書を書き上げ、取り決めを違えてまで行列に斬りこんでいった監物の姿に思いをはせました。
 斎藤監物。享年39歳。まさに、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士でした。

斎藤監物の墓
静神社宮司斎藤家累代の墓所 鳥居をくぐって左手に監物の墓が建つ。


小塚原回向院にある監物の遺墳もお参りしてきました。

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