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桜田門外の変とは何か?大老襲撃成功の要因を徹底分析する(歴史Think No.22)

桜田烈士、当日の足取りをたどる②

                    筑波烈士(つくばれっし)
 
 1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。季節外れの雪が降りしきる江戸城桜田門外において、18人の桜田烈士たちが時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげました。幕末の大事件、「桜田門外の変」です。
 この桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
 さて、「歴史Think No21」では桜田門外の変の前日に、桜田烈士が品川宿歩行(かち)新宿の稲葉屋に集結し、妓楼「相模屋」(土蔵相模)にて訣別の宴を開いたところから、翌日、季節外れの大雪の中を愛宕神社を経て、襲撃現場である桜田門外に到着するまでの烈士たちの足取りをたどりました。今回は、桜田烈士の襲撃が成功した要因について徹底分析することから、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士たちの思いに迫っていきたいと思います。

1 井伊直弼の首級をあげる
 1860年(安政7年)3月3日、五ツ(午前9時)過ぎ。譜代大名筆頭彦根藩の藩主であり、幕府大老として安政の大獄を始めとした数々の強権政治を推し進めてきた井伊直弼の行列が江戸城桜田門外にさしかかりました。
 濠沿いの道を進んできた行列の先供が道を折れて桜田門の橋に向かおうとした時、辻番所のかげに控えていた森五六郎が、訴状を差し出すような様相で行列の前まで進み出て、その対応に出た彦根藩供頭の日下部三郎右衛門に斬りつけ、その直後のピストルを合図に烈士たちが一斉に井伊大老の駕籠に襲いかかりました。
 当日ピストルを所持していたのは、関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、森五六郎、黒沢忠三郎の5人で、合図のピストルを撃ったのは関鉄之介説、森五六郎説もありましたが、現在では黒沢忠三郎説が最も有力です。(NHK「歴史探偵」でも取り上げていました)黒沢忠三郎は杵築藩松平大隅守邸側からピストルを撃ったので、日下部三郎右衛門が斬られた行列の先頭や、松平大隅守邸側に彦根藩士の注意が向けられた間隙をついて、お濠側にいた佐野竹之介が斬り込み、稲田重蔵が護る者が手薄となった井伊直弼が乗る駕籠に体当たりをするように刀を突き刺しました。
 当日、襲撃を計画した金子孫二郎の指示を受けて現場でその一部始終を見ていた水戸藩士畑弥平は、襲撃から井伊直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」と述懐していることから、戦闘はわずか数分間(恐らく10分まではかかっていない)であったと考えられます。それでは、
 ア 襲撃が成功した要因は何か?
 イ 戦闘が数分間で終わったのはなぜか?
 ウ 襲撃後の桜田烈士の行動が分散したのはなぜか?
 以上の3点について、私がこれまで目を通してきた資料(書籍・ネット上の情報等)から総合的に考察したことを述べていきたいと思います。

旧彦根藩邸側から桜田門を見る。右手の濠沿いが桜田門外の変の事件現場。

2 襲撃が成功した要因は何か?
 前号で「藩主である井伊直弼の駕籠を守る供揃えは20人以上」と書きましたが、さらに資料に当たると、供揃えは26人いたことが分かりました。藩主を警護する役目を担う現代で言う親衛隊ですから、当然ながら剣術の腕に秀で、選びぬかれた彦根藩士たちであったことは間違いありません。その26人に小者まで合わせると行列の人数は優に60人を越えていました。そこに、桜田烈士はわずか15人(関鉄之介、岡部三十郎、斎藤監物の3人は襲撃には加わらないことになっていたため)で斬りこんだのです。そうした人数面の条件だけでなく、彦根藩の精鋭に対し、烈士側は、鯉淵要人が51歳、稲田重蔵47歳、増子金八と杉山弥一郎が39歳(約を違えて斬り込んだ斎藤監物も39歳)と年配者も少なくなかったわけですから、あらゆる側面から考えても、彦根藩側に分があったことは明らかです。それでも、桜田烈士たちは井伊直弼の首級をあげました。襲撃が成功した要因は何であったのか?私は、以下の4点を挙げることができると考えます。
①決死の覚悟が生み出した桜田烈士たちのすさまじい戦闘力
 桜田烈士たちと親交があり、烈士の何人かとは姻戚関係も結んでいた茨城県土浦市にある八坂神社の禰宜を代々務める本間家の現当主本間隆雄さんはこう述べています。
 「最大の成功理由は、18烈士の決死の覚悟であった。失敗したら水戸藩は間違いなくつぶされるし、この先井伊大老を生かしておいたら日本が危うい、という危機感が、井伊家をしのぐ戦闘力を生んだ。」
 私もこの本間さんの意見に同意します。
 桜田門外の変の端緒は、少なくとも2年前、1858年(安政5年)7月に烈士たちにとっての「君」、徳川斉昭が不時登城を理由に井伊大老から謹慎を命じられた時に始まっていました。
 その詳細について、「歴史Think No18」に書いたことを再掲します。
 
 勅許(天皇の承認)を得ることなく日米修好通商条約の調印に踏み切った直弼を詰問するために斉昭は藩主である慶篤、尾張藩主徳川慶勝、松平慶永を伴って登城しますが、これが直弼に斉昭排除の口実を与えることになってしまいます。その日は御三家が登城する日ではなかったため、この不時登城を理由として、後日斉昭に急度慎(きっとつつしみ)の処分が言い渡され、水戸藩の江戸駒込邸に幽居の身となります。また、慶篤とその前日に登城していた一橋慶喜には登城禁止、慶勝・慶永には隠居謹慎という重い処分が下されました。
 私は、大老井伊直弼は政治家としては優れた面もあったが、とにかく強権的で寛容の精神に欠如していたことが落命することにつながったと考えます。もっと端的に言えば、「やり過ぎた」ということです。当然のことながら、井伊家が譜代大名筆頭とは言え、御三家である水戸藩は家格はずっと上です。斉昭は、藩祖家康の血筋を引く御三家水戸藩の藩主だった人間です。不時登城が規則違反であったとしても、それは日本国の行く末を憂いての行動であったことを思えば、家格も背後の事情も全く考慮されることのない前例を見ないあまりにも重い処分でした。そしてそうした姿勢は、歴史上類を見ない大弾圧であった安政の大獄にも如実に表れています。とにかく、自分の意に沿わない者は排除するという(現代でも大国の指導者に見られますが)のが直弼の政治手法だったのです。(※以上「歴史Think No18」より)

 御三家水戸藩の前藩主であり、幕府においても海防参与、幕政参与という要職についていた斉昭に対するあまりにも重い処分。安政の大獄における水戸藩士をはじめとした尊王攘夷志士に対する歴史上類を見ない苛烈な処分。戊午の密勅返納問題をめぐる水戸藩に対する恫喝。
 「奸物井伊直弼を討ちとらなければ、水戸藩だけでなく、この国が危うくなる」。烈士たちはそうした思いを2年もの間、身体の中にみなぎらせていたのですから、それはあたかも地底深くで熱を帯びて膨張したマグマが、ついに噴火口をこじ開けたような爆発力をもって、井伊大老に襲いかかったといえます。君が辱められた無念の思い、井伊大老に対する抑えきれぬ怒り、そうしたものが、本間さんが指摘する「井伊家をしのぐ戦闘力」を生み出したのです。
 変の約半年前、1859年(安政6年)8月27日、幕府の上使が小石川の水戸藩邸に遣わされました。不時登城を理由として前年7月より駒込の藩邸で蟄居の身となっていた斉昭に対し、さらに重い処分が言い渡されることが予想され藩邸は緊迫した状況になりました。その際、門前で上使が藩邸に入るのを阻止しようとした10数人の藩士たちがおり、その中に桜田烈士の佐野竹之介と海後磋磯之介がいました。幕府から遣わされた上使の訪問を阻止しようとするなど、当然その場で斬り捨てられても文句を言えない行為でした。佐野竹之介を始めとした藩士たちは、この時点で既に君のために命を投げうつ覚悟を固めていたのです。
 予想通り、上使は斉昭の水戸への永蟄居を申し渡しました。そして同日、井伊大老は恐るべき断罪を実行しました。家老・安島帯刀、奥右筆頭取茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門、その息子幸吉への処刑が断行されたのです。安島帯刀は、切腹という判決であったにも関わらず、斬首されました。結果として死に至るという点で同じでも、「武士としての名誉を保ったまま死を賜る」切腹と、完全な処刑である斬首では全くその意味が違います。そして、武士の場合、判決から刑の執行までは半年おくのが通例であるにも関わらず、井伊大老の強い意向によって、即日、処刑が断行されたのです。さらに、遠島という判決の意見具申があった志士に対して、直弼は己のみの判断で死罪に改めるなどの独断専行が見られたといいます。こうした事実から考察するに、どれだけ客観的に見ようとしても、「水戸藩憎し」、「斉昭憎し」の恐るべき感情的なやり方であったと判断せざるを得ません。
 繰り返します。井伊直弼はやり過ぎたのです。その時、多くの水戸藩士(及び尊王攘夷の志士たち)は今すぐにでも江戸城におしかけて井伊直弼の首をとりたいと思ったことでしょう。そうした井伊直弼に対する積年の憤怒の思いが、桜田烈士たちに爆発的なエネルギーを発揮させた。それが、襲撃が成功した一番の理由であることは間違いありません。

桜田門側から見る。変当時は、大名屋敷が建ち並んでいた。

② 有能なリーダーが存在したこと
 尊王攘夷派の水戸藩士のほとんどが井伊直弼を討ち果たしたいと考えたでしょうが、単独や2~3人の少人数で時の大老を襲撃しても成功の見込みなどあるはずがありません。そして、事前に計画が露見したり、それを理由に捕縛されてしまっては計画は頓挫してしまいます。
 井伊直弼に対する藩士の怒りを個で突出させることなく、集団として集約し、それを組織化し、表面化することなく計画を推進していくためには、有能なリーダーが必要不可欠であり、尊王攘夷激派の首領であった高橋多一郎と金子孫二郎がその役割を担いました。
 今後、さらに詳しく調べていきたい課題でもありますが、薩摩藩の有村次左衛門を除く桜田烈士の多くの人物が、かつて高橋多一郎または金子孫二郎の部下として仕えたなどのつながりがあります。言い方を変えれば、リーダーが高橋多一郎と金子孫二郎だったからこそ、二人を信頼している藩士たちや神官が集結したと言えます。様々な事情から、江戸に潜入できた同志は当初の予想を大きく下回る20名ほどになってしまったとはいうものの、それだけの同志が最後まで残ったのもまた、リーダーの信望があったがゆえであると思います。
 襲撃が成功した要因の2点目は、高橋多一郎と金子孫二郎という有能なリーダーの存在です。
 ※詳しくは、二人を取り上げた「歴史Think No19」を閲覧してください。
③ 井伊直弼及び彦根藩側にあった油断
 井伊直弼は、当然のことながら自分が水戸浪士から命を狙われていることは承知していました。変の前日にも彦根藩邸には、「水戸脱藩浪士が襲撃を企てている」と警戒を喚起する書状が届いていたそうです。
 しかし、それでも井伊直弼及び彦根藩には「まさか、江戸市中にて、しかも登城中に襲われることはあるまい」という油断があったのだと私は考えます。井伊直弼及び幕府老中たちは、繰り返し、戊午の密勅の返納を水戸藩に要求していましたが、それに対し水戸藩の家老たちは、「今しばしのご猶予を」と平身低頭の姿勢で対応していました。さらに、1860年(安政7年)1月15日、定例登城した水戸藩主徳川慶篤に対し老中安藤信睦は、1月25日までに返納しなければ水戸藩の改易もあり得るとまで言い放ちました。こうしたことが何を物語っているのか。井伊直弼及び老中たちは、御三家水戸藩を見くびっていたのです。慶篤は斉昭の長子ながら、斉昭の性格を引き継いでいない優柔不断な性格だったと言われています。そうした慶篤や家老たちの態度から、井伊直弼は「御三家だろうが水戸藩など恐れるに足らず」という思いを高めていったことでしょう。だからこそ、「水戸脱藩浪士が命を狙っている」という情報を度々耳にしても、「脱藩浪士ごときの小者に何ができるものか」と完全に見くびっていた。それが、襲撃が成功した要因の3点目であると考えます。
 通説では、直弼は水戸脱藩浪士の襲撃を恐れて護衛の人数を増やすようでは失政の誹りに動揺したとの批判を招くと考え、あえてしなかったということになっていますが、その判断の根底には水戸藩を見くびり、軽視する姿勢があったのです。表現を変えれば、直弼は、己に向けられている水戸藩士や領民の憎悪について、過小評価していたということです。
 当日、彦根藩士たちは雪のために刀の柄に袋をかけていました。そのために、桜田烈士たちの襲撃に対してすぐに防御態勢をとることができなかったことは知られていますが、もし登城中に襲撃されるかもしれないという危機感をもっていたとしたら、雪が降っていたとしても柄に袋をかけるようなことはしなかったと考えます。
 さらに、井伊直弼はその時点で自分の跡継ぎを決めていませんでした。幕府の慣行により、跡継ぎが決まる前に藩主が亡くなった場合は改易というのが通例となっていたので、直弼が死んだことで彦根藩は改易の憂き目にあっていても文句は言えない状況でした。老中らの機転というよりか、忖度によって改易は免れましたが、水戸脱藩浪士に襲われるかもしれないと承知していても跡継ぎを決めようとしなかったところからも、「脱藩浪士ごときに何ができる」という油断、見くびりがあったことは間違いありません。
 しかし、身分の低い、その「脱藩浪士ごとき」が凄まじい戦闘力を発揮して井伊直弼の首級をあげることになったのです。

桜田門前にある説明板。「桜田門外の変」についても記述がある。


④ 効を奏した奇襲攻撃
 ③と関連しますが、井伊直弼及び彦根藩士側に「登城中に襲撃されるかもしれない」という危機意識が薄かったことを思えば、桜田烈士たちの襲撃はまさしく「奇襲」でした。供侍以外の小者たちが、慌てふためき、雲の子を散らすように逃げ出したというのも頷けます。そして、どんなに腕のたつ剣客でも当初は防御一方(逃亡も含む)になったことは予想できます。
 そのように行列が混乱し、駕籠の周囲の警護が手薄になったことが、井伊直弼の首級をあげることにつながりました。襲撃の合図として黒沢忠三郎が撃ったピストルの弾丸は井伊直弼の太腿から腰を貫通していたということですが、その直後に稲田重蔵が駕籠に刀を突き刺したわけですから、襲撃開始早々に直弼は瀕死の重傷を負ったと思われます。
 奇襲攻撃が功を奏した。これが、襲撃が成功した要因の4点目です。
 
3 戦闘がわずか数分間で終わったのはなぜか?
 結論から言うと、桜田烈士側が「井伊直弼の首級をあげたから」です。
 桜田烈士たちの目的は、井伊直弼の首級をあげることのみであり、その目的を達成した以上、それ以上桜田門外に止まり、彦根藩士たちと斬り合う必要はなかったから引き上げたのです。そして、彦根藩士たちが主君の首を持ち去られることを阻止しようと激しく抵抗しなかったことも、戦闘がわずか数分間で終わった大きな理由です。
 武家社会において、たとえ主君が敵方に殺害されたとしても、その首を持ち去られたどうかでは天と地ほどの差がありました。討ち取った敵将の首を持ち去るのは、「間違いなく敵将を討ち取った」ことを証明するためですから、首さえ敵方に持ち去られなければ、「主君は生きている」などといくらでも取り繕うことが可能だったのです。
 その意味で言えば、まだ闘うことができた彦根藩士たちは、全力で直弼の首を奪い返すのが家来としての務めでした。そして実際にそれを実行した家臣もいました。重傷を負い昏倒していた供目付助役・小笠原秀之丞は、桜田烈士たちの勝鬨の声で蘇生し、刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き上げていこうとしている有村次左衛門の後を追い、米沢藩邸前付近(現在の日比谷公園前)で次左衛門の後頭部を斬りつけたのです。この一撃で、次左衛門は致命傷を負いました。その後、彦根藩邸に救助されるもその日のうちに絶命した小河原は、「自分の他に数名でも自分と同じような決死の士がいれば、決して主君の首を奪われることはなかった」と無念の言葉を残したそうです。
 井伊直弼を護衛していた彦根藩士は現場での即死4人、その日の内に死亡4人。重傷8人、軽傷5人、無傷5人という記録があります。この記録から考察するに、軽傷と無傷の10人の藩士には主君・井伊直弼の首を奪い返す務めがありました。しかし、それはなされなかった。その理由は何か?
 繰り返しになりますが、それがこれまで述べてきた「戦闘力の差」であると言うことができると思います。小者たちは雲の子を散らすように逃げてしまっても、さすがに直弼の護衛に当たっていた彦根藩士たちは、直弼の首級をあげられた時も現場付近にはいたと考えられます。しかし、桜田烈士たちの気魄に圧倒され、主君の首を奪い返そうとする気力を失ってしまったのではないでしょうか。
 こうして、井伊直弼の首級をあげた桜田烈士たちは、桜田門外から引き上げていきますが、烈士のほとんどは重傷を負っており、刀を杖に、雪上に血の跡をつけながらの引き上げとなりました。

安政7年3月3日。大老井伊直弼はこの門をくぐることはなかった。


 「3 襲撃後の桜田烈士の行動が分散したのはなぜか?」については次号
「歴史Think No23」にて私の考察を述べたいと思います。

 次の記事も併せてお読みください。
 歴史Think  No.18
 桜田門外の変とは何か?幕末の大事件はどうして起きたのか
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
  ※桜田門外の変に至るまでの経緯、原因について解説しています。

 歴史Think  No.19
 桜田門外の変とは何か?事変を計画主導した高橋多一郎と金子孫二郎とはいかなる人物か
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
  ※桜田門外の変を計画した二人のリーダー、高橋多一郎と金子孫二郎について取り上げました。

 歴史Think  No.20
 斉昭の恩義に報いた桜田烈士・斎藤監物
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士ー藩内神官を束ね雪冤運動に奔走した斎藤監物
  ※水戸藩内神官のリーダー的存在であり、斬奸趣意書を執筆した斎藤監物について取り上げました。

 歴史Think  No.21
 桜田門外の変とは何か?事件の背景と桜田烈士たちの思想を考察する
  桜田烈士、当日の足取りをたどる➀
  ※桜田門外の変前日、品川宿の「稲葉屋」に集結してから、翌日愛宕神社を経て、事件現場である桜田門外までに至る桜田烈士の足取りを追います。