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桜田門外の変とは何か?君辱めらるれば臣死すの思想に殉じた桜田烈士の生き様を考察する(歴史Think No.24)

桜田烈士、変後の足跡をたどる➀

                    筑波烈士(つくばれっし)
 
 1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。季節外れの雪が降りしきる江戸城桜田門外において、18人の桜田烈士たちが時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげました。幕末の大事件、「桜田門外の変」です。
 この桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
 さて、「歴史Think No23」では桜田烈士側唯一の誤算ー多くの犠牲を払いながらあげた井伊直弼の首級を彦根藩側に取り返されてしまったことーが生じた原因について考察しました。
 今回は、変後に自訴の道を選択した桜田烈士のその後をたどることから、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士たちの生き様について迫っていきたいと思います。

1 変後に自訴した桜田烈士
 井伊大老襲撃を計画した金子孫二郎から烈士たちに示された指示の一つに次のようなものがありました。
 「負傷者は切腹か閣老に自訴し、その他の者は京を目指す」。
 井伊大老の首級をあげた18人の桜田烈士たちは、この金子孫二郎の指示に忠実に従って行動しました。
 襲撃現場では稲田重蔵が闘死。深手を負い、これ以上歩くことも困難と悟った有村次左衛門、広岡子之次郎、山口辰之介、鯉淵要人の4人はいさぎよく自害しました。軽傷だった広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の3人は、薩摩藩と共に攘夷を決行するために京を目指し、現場にはいても戦闘には加わらなかった関鉄之介と岡部三十郎は品川の川崎屋で待機している金子孫二郎に会うために、桜田門外を後にしました。
 そして残り8人の烈士は、二手に分かれて自訴しました。
 森五六郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森山繁之介の四人が、肥後熊本藩主・細川越中守邸に自訴し、斎藤監物、蓮田一五郎、黒沢忠三郎、佐野竹之介の四人は、時の老中播磨龍野藩主・脇坂中務大輔邸に自訴しました。


肥後熊本藩・細川邸跡(現丸の内オアゾ)
播磨龍野藩・脇坂邸跡(現東京海上日動ビル)

2 佐野竹之介
 脇坂邸に自訴したものの、その日のうちに絶命した佐野竹之介については「歴史Think No23」に書いたことを再掲します。 

 佐野竹之介は死後の検視の結果、全身に刀傷を受けており、おびただしい出血であったことが分かりました。小姓として藩に仕えていた竹之介は、桜田烈士の中でも「君辱めらるれば臣死す」の思いが人一倍強かった人物ではないかと私は考えています。ピストルの合図と共に真っ先に行列に斬り込み、終始駕籠近くで彦根藩側の剣客たちと斬り合っていたからこそ、全身に刀傷を受けたのであろうと思います。襲撃現場の指揮を任され、終始その様子を観察していた関鉄之介が、変後、姉の夫に当てた書状に「佐野始め見事の働きにて、当の敵(井伊大老)は瞬息の間に倒し」と書いていることからも、現場での竹之介の働きが目立ったものであったことをうかがい知ることができます。「天下国家のため奸賊を誅伐し神罰を蒙らしめるものなり」と言って絶命した竹之介の肌着には「誠忠」の二文字が朱で大書されており、その下には和歌が認めてありました。
 桜田の花と屍はちらせども なにたゆむべき大和魂
 21歳でした。

3 斎藤監物
 「斬奸趣意書」を執筆し、変後老中に呈出する役割を担っていたため現場での戦闘には加わらない手筈となっていたにも関わらず、我慢できずに行列に斬りこんだ斎藤監物は、重傷のため自訴の5日後に絶命しました。
 詳細については、「歴史Think No20」を参照してください。

4 黒沢忠三郎
 これまで述べてきたように、桜田門外における井伊大老襲撃は、駕籠訴を装った森五六郎が彦根藩の先供に斬りつけた後、一発の銃声を合図として烈士たちが一斉に彦根藩の行列に襲いかかりました。その合図となったピストルを撃った人物については、関鉄之介説や森五六郎説などがありましたが、現在では黒沢忠三郎説が最も有力とされています。
 忠三郎は当時31歳。沈着冷静な人物だったので、襲撃現場の指揮者であった関鉄之介からそうした重要な役目を任されたと考えられます。そして、駕籠に向けて撃たれたこの銃弾が、変後、井伊直弼の腰から太腿を貫通していたことが判明するので、忠三郎本人もそこまでは想定していなかったと思われますが、結果的に襲撃を左右する銃弾となりました。
 馬廻組で大番組に編入されるなど将来を嘱望されていた忠三郎ですが、主君斉昭の雪冤運動など国事に奔走し、子供も4人いたことから、暮らしは楽ではありませんでした。江戸に出立するに当たっては、甲冑を抵当に路銀を用立てするほどでした。
 戦闘で重傷を負いながら、手当によりなんとか命は取り留めた忠三郎でしたが、同年の7月12日に九鬼邸にて病死しました。享年33歳でした。

水戸市常盤共有墓地にある黒沢忠三郎の墓

5 蓮田一五郎
 上記の三人に比べれば、負傷の程度は軽かったと考えられる蓮田一五郎は
京を目指すために広木松之介たちのように現場から逃走することも可能だったのではないかと私は推測しています。
 では、一五郎はなぜ自訴する道を選んだのか。それは、生死進退を同じくするという誓約を交わした斎藤監物がいたからです。戦闘で頭部を負傷した監物は、恐らく歩くのもやっとだったのではないかと思われます。一五郎はそんな監物の身体を支えながら、「斬奸趣意書」呈出という大事な役目を担っている監物と行動を共にしたと考えられます。
 水戸市の常盤共有墓地にある一五郎の墓所には墓名碑(伯爵香川敬三撰)
が建立されており、そこから蓮田一五郎の人物像を見ることができます。
 下級武士の家に生まれ、しかも一五郎が10歳の年に父親が亡くなったため、蓮田家の暮らしは大変貧しいものでした。隠居していた祖父が町方同心として再勤しましたが家計は苦しく、一五郎の母と二人の姉は裁縫の賃仕事をし、一五郎も11歳の頃より早朝から夜遅くまで内職をして、家計を支えました。それでも灯火の油を買う金にも事欠くほどでしたが、家族が就寝した後に読書に励むなど、勉学への志の高い一五郎のために、伯母や親戚が一五郎の学資を援助しました。そうした支援の下、一五郎は森山繁之介と共に青藍塾に学び、15歳の頃から金子健四郎の道場に通い、剣術の腕を磨きました。変後、細川邸預かりの身となっていた一五郎は、水戸の母と姉への訣別書と共に、幼少より支援を受けたこうした人たちへの感謝を述べた書状を残しました。
 一五郎は15歳で町方同心(軍用方小吏)として出仕し、23歳で寺社方の属吏となりますが、その時に静神社の神官斎藤監物の知己を得ることになります。一五郎の尊王攘夷思想を強固なものとしたのは、監物の啓蒙であったことは間違いありません。
 自訴した烈士たちは幕吏から厳しい吟味を受けますが、幕府にとって吟味の目的はただ一つ。「井伊大老襲撃は徳川斉昭の指示によるもの」という証言を得ることでした。吟味に当たった池田播磨守頼方は安政の大獄を主導した人物。石谷因幡守穆清(ぼせい)は井伊大老とは昵懇の仲。松平泉守乗全は斉昭のために老中を罷免されたという恨みをもっており、井伊大老暗殺は斉昭の指示によるものとはなから決めつけていたのです。そうした誘導尋問を繰り返し受けた一五郎は、それに対してこう毅然と答えました。
 「何を根拠に申されるかは知らぬが、仮に主君の内命をもって決起するならば、歴々とした面々が他におり、また、その討ち取り方にせよ別の方途もござろうて。軽輩の我らがやらねばならぬ理由もござらぬ。」
 「主君は我ら激派の行動を深く憂い、むしろ説諭に心を砕かれたほどである。よって主君の使そうなど事実無根であるばかりか、この度の一挙は、今こそ大老を討たねばますます日本は亡国の道をたどる恐れあり、とする各々の決意から発した義挙にほかならん。」
 また、一五郎は取調べの仔細を「蓮田市五郎筆記」にまとめましたが、その意図について「幕吏の横暴はいうまでもないが、老公(斉昭)への冤罪を帰そうとする気炎も幕府方にあり、自分の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らないため、幕吏による取調べの大意を書にしたためた」と記しました。さらに「斬奸趣意書」の写しをとりました。
 こうした文書類や細川邸預かりの身となっていた際、細川家家臣の要請により描いた「桜田門外の変襲撃の図」は桜田門外の変の全容を現在に伝える大変貴重な史料となっています。死を前にしてこうした資料を後世に残した一五郎の功績は大変大きなものであり、武だけでなく、文にも秀でた人物であったからこそ成し得たと言えます。
 1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年29歳。
 故郷の空をし行かばたらちめに 身のあらましをつげよかりがね

水戸市常盤共有墓地に建つ蓮田一五郎の墓名碑(撰文は伯爵・香川敬三)

6 森五六郎
    五六郎は、幼少時より近在の子供たちを集めては隊伍を組み、その長となって山野を駆けまわるといった野生児で、「大坊」というあだ名をつけられていました。
 戊午の密勅返納を阻止するために、吉成恒次郎らと長岡宿に屯集した際には、説得に訪れた側用人・戸田銀二郎(戸田忠敞の子息)と真っ向から対峙するなど大変気性が激しい面を買われて、襲撃に当たっては、駕籠訴を装って行列の先供に斬りかかるという非常に重要な役割を関鉄之介から任されました。五六郎は、その指示通り行列の前に現れた五六郎を制止しようとした彦根藩士・日下部三郎右衛門を抜き打ちに斬りつけました。そして、行列が乱れたところに黒沢忠三郎による合図のピストルが鳴り響き、烈士たちが一斉に行列に襲いかかったのです。
 変後、幕吏から取調べを受けた際には、「自分は天下の大罪人を討った天下の大忠臣に候」と声を大にして叫び、「天下のために討ち取ったのに相違はない」と声高らかに答えたといいます。
 そんな五六郎も、水戸を出立するに当たっては、家族にそれとなく暇乞いしたいという思いがありながら、会って決心が鈍ってはと、夜中に自宅の周りをしばらく歩きました。その際に、次の歌を詠みました。
 君のため我が里出でて武蔵野の 紫にほふ花と散るらん
 1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年24歳。
 尚、第一次東禅寺事件に参加した森半蔵は五六郎の兄です。

水戸市常盤共有墓地にある森五六郎の墓。兄半蔵も隣に眠る。

7 大関和七郎
 大関和七郎は黒沢忠三郎の実の弟であり、変後自害した広岡子之次郎は甥(実姉の子)になります。子之次郎の実の兄である林忠左衛門は変直前に藩内の抗争で負傷を負ったため参加が叶いませんでしたが、忠左衛門まで参加していたら、黒沢家の血筋からは4人も参加していたことになります。まさに尊王攘夷の志篤い家柄であったということが分かります。
 馬廻組から、後に忠三郎と同じ大番組に編入された和七郎は、1858年(安政5年)斉昭が蟄居処分を受けるやいなや忠三郎と共に江戸に上り、雪冤運動に奔走しますが、それを理由に30日の蟄居を言い渡されます。しかし翌年の長岡屯集にも参加し、井伊大老襲撃へとつながっていきます。
 変後、兄忠三郎は脇坂邸に自訴しますが、すぐに和七郎が自訴した細川邸に移されます。しかしお互いに預かりの身として、言葉を交わすこともできませんでした。その後烈士たちは別々の屋敷に移されることになりますが、その際に細川邸では酒肴を用意して烈士たちにふるまいました。そして、今生の別れになるであろう黒沢忠三郎、大関和七郎兄弟を内々に引き合わせる場を設けました。「武士の情け」とはまさしく、こういうことを言うのだと思います。烈士たちは、武士として丁重に扱ってくれた細川家に対する感謝の言葉を残しています。
 1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年26歳。

水戸市常盤共有墓地にある大関和七郎の墓

8 森山繁之介
 森山繁之介は20歳の頃、藩の矢倉方となり、矢倉奉行だった高橋多一郎の知己を得ます。その後、多一郎は奥右筆頭取となり直接の上司ではなくなりますが、繁之介は多一郎の家に出入りし、大きくその影響を受けました。蓮田一五郎にとって斎藤監物との出会いが桜田烈士への道すじになったように、繁之介にとっては高橋多一郎との出会いがその道すじとなりました。
 変後の幕吏による取調べにおいては、事の顛末を述べるのにいささかも滞ることなく、「誰が指導者かは知らない」の一点張りで、弁舌さわやかであったと伝えられています。
 1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年27歳。

小塚原回向院にある森山繁之介の遺墳。墓は、水戸市の祇園寺にある。

9 杉山弥一郎
 これまで追ってきたように、水戸出身の桜田烈士17人は、リーダーである高橋多一郎、金子孫二郎の部下であったり、神官斎藤監物とつながりがあったことから大老襲撃に参加することになりました。そうした観点から言えば、杉山弥一郎が桜田烈士に名を連ねるきっかけは、他の烈士たちとは多少趣が異なっています。
 鉄砲師杉山弥十郎の子として生まれた弥一郎は、鉄砲師としての道を歩んでいました。1859年(安政6年)、江戸で蟄居の身となっている斉昭の身を案じた弥一郎は、その警護に当たることを藩に願い出ましたが、鉄砲師という勤めの特殊性から許可されませんでした。それでも弥一郎は諦めず、江戸に出て自主的に斉昭周辺の警護に当たっていたところ、金子孫二郎の目にとまり、同志に加えられたのです。
 それからの弥一郎の働きは、襲撃の前準備として特筆すべきものでした。町人に扮して情報収集に当たると共に、神田・浅草・本所に潜行場所を確保し、夜になると浅草観音周辺に出かけ、江戸に入った同志の宿舎案内をしたのです。その際、桜の花を描いた提灯をぶらさげて目印とし、同志とは「カン」に対し、「ノン」と返答する合言葉を使っていました。
 1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年38歳。
 後に、長男秀太郎は天狗党に参加し、わずか18歳で斬首されました。

水戸市常盤共有墓地にある杉山弥一郎の墓

10 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた烈士たち
 桜田烈士が井伊大老を襲撃し、その首級をあげた理由は、君(斉昭)が井伊大老から辱しめを受け、戊午の密勅返納問題を巡り水戸藩には改易の恐れもあったからですが、歴史的事実として斉昭がその指示を出したわけではありません。蓮田一五郎が幕吏に答えたように、逆に斉昭は尊王攘夷激派を諭し、抑えようともしていたのです。
 しかし、当時幕府の家老や重臣は井伊直弼に近い人物ばかりだったので、
斉昭が首謀者に違いないという先入観で吟味を進めていました。下手をすると強引にそうした裁きがなされていたかもしれませんが、自訴した烈士たちがそれに徹底抗戦したことで、そこまでは至らずに済んだのです。
 桜田門外の変から5ケ月後の8月15日、水戸で永蟄居の身となっていた
斉昭は亡くなりますが、その死を秘したまま、8月26日に永蟄居が免じられました。斉昭の名誉は回復されたのです。
 その報が烈士たちの耳に届いたかどうかは分かりませんが、届いたと私は信じたいと思います。烈士たちは、主君の名誉を回復できたことで、感涙にむせび泣いたに違いありません。

桜田烈士たちが斬首された伝馬町獄舎跡。

 次の記事も併せてお読みください。
 歴史Think  No.18
 桜田門外の変とは何か?幕末の大事件はどうして起きたのか
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
  ※桜田門外の変に至るまでの経緯、原因について解説しています。

 歴史Think  No.19
 桜田門外の変とは何か?事変を計画主導した高橋多一郎と金子孫二郎とはいかなる人物か
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士
  ※桜田門外の変を計画した二人のリーダー、高橋多一郎と金子孫二郎について取り上げました。

 歴史Think  No.20
 斉昭の恩義に報いた桜田烈士・斎藤監物
 「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士ー藩内神官を束ね雪冤運動に奔走した斎藤監物
  ※水戸藩内神官のリーダー的存在であり、斬奸趣意書を執筆した斎藤監物について取り上げました。

 歴史Think  No.21
 桜田門外の変とは何か?事件の背景と桜田烈士たちの思想を考察する
  桜田烈士、当日の足取りをたどる➀
  ※桜田門外の変前日、品川宿の「稲葉屋」に集結してから、翌日愛宕神社を経て、事件現場である桜田門外までに至る桜田烈士の足取りを追います。

 歴史Think  No.22
 桜田門外の変とは何か?大老襲撃成功の要因を徹底分析する
  桜田烈士、当日の足取りをたどる②
  ※彦根藩側に分があったにも関わらず、桜田烈士が井伊大老の首級をあげることができた要因について、徹底分析します。

 歴史Think  No.23
 桜田門外の変とは何か?桜田烈士側唯一の誤算を徹底分析する
  桜田烈士、当日の足取りをたどる③
  ※桜田烈士は井伊大老の首級をあげたものの、彦根藩に奪い返されてしまいます。その桜田烈士側にとって唯一の誤算の原因について、徹底分析します。