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桜田門外の変とは何か?事変を計画主導した高橋多一郎と金子孫二郎とはいかなる人物か(歴史Think No.19)

「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士

                    筑波烈士(つくばれっし)
 「君辱めらるれば臣死す」。これは中国戦国時代の故事にある言葉であり、「主君が恥を受けるようなことがあれば、主君に仕える者は命を捧げてその恥を晴らすべき」という意です。
 1860年(安政7年)3月3日、江戸城桜田門外において時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげた桜田烈士たちをその行動につき動かしたのは、まさしくこの思想でした。
 桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
 変当日、浪士たちの集合場所となった愛宕山・愛宕神社には現在「櫻田烈士愛宕山遺跡碑」が建てられており、その石碑の裏には桜田烈士として変に参加した下記の18人の名前が刻まれています。
 関鉄之介 斎藤監物 岡部三十郎 森五六郎 佐野竹之介 大関和七郎
 広岡子之次郎 稲田重蔵 森山繁之介 海後磋磯之介 黒澤忠三郎
 山口辰之介 杉山弥一郎 増子金八 蓮田一五郎 鯉淵要人 広木松之介
 有村次左衛門
 有村だけが薩摩藩士で、他の17人は水戸藩の人間(藩士と神官)です。
当日の襲撃に参加したのはこの18人ですが、その計画段階から含めるとさらに多くの人物が変には関わっています。
 そこで今回は、歴史上の大転換となった幕末の大事件、桜田門外の変を計画主導した高橋多一郎と金子孫二郎の二人をとりあげます。

1 高橋多一郎
 幕末の歴史的大事件、桜田門外の変の特色の一つに、変に参加した浪士たちは皆身分の低い者たちだったということがあります。郡吏、小姓、町方同心、手代、属吏などで、いわゆる下士にあたります。「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じようとした侍や神官たちですから、忠義心に篤いまさに烈士揃いであったことは疑いようはありませんが、このような重大事を成し遂げるためには、やはり信望があり緻密で洞察力のある指導者(リーダー)の存在は欠かせません。桜田門外の変は、まさにそうした資質を備えた高橋多一郎と金子孫二郎という二人の優れたリーダーがいたからこそ成功したと言って間違いないでしょう。
 高橋多一郎は、1814年(文化11年)、水戸藩士高橋諸住の長男として生まれ、藤田幽谷の門弟である国友善菴や藤田東湖に学ぶことで、尊王攘夷の思想を身に付けていきます。1839年(天保10年)に家督を継いだ多一郎は床机廻組となり、後に奥右筆となりますが、1844年(天保15年)に斉昭が幕府より隠居謹慎処分を受けるとその雪冤運動に奔走します。しかし、そうした中で多一郎は藩の門閥派から蟄居処分を言い渡されてしまいます。藩主であった斉昭の雪冤運動に身を捧げているというのに、身内である藩から蟄居という重い処分を受ける。ここに幕末最大の悲劇とも言われる「天狗党の乱」にもつながる水戸藩の悲劇があります。つまり、それまでの藩主とは違って積極的に藩政改革に取り組む斉昭の失脚をやむなしと考えるどころか、むしろ喜んでいた人間が水戸藩内にいたということです。この水戸藩における、斉昭を支持する改革派(天狗派)と改革を良しとしない門閥派(諸生党)の対立については、また別の機会に取り上げたいと考えています。
 1849年(嘉永2年)、斉昭の蟄居処分が解かれ、藩政への復帰が認められると共に、多一郎も蟄居を解かれ、1855年(安政2年)には北郡奉行に抜擢されます。この後に取り上げる金子孫二郎も、当時西郡奉行に就いていました。
 郡奉行とは、生産地帯である農村の支配に当たり、直接農民を治める役職であり、農政改革を藩政改革の目標としていた斉昭にとっては、非常に重きを置くポストでした。領民の大部分を占める農民に信頼されるか反発されるかは、この郡奉行の人物と支配の態度に拠るところが大きかったからです。
故に、この郡奉行を任されたということからも、いかに二人が斉昭にその能力を買われていたかが分かります。ちなみに、斉昭の藩主就任直後には藤田東湖と会沢正志斎までが郡奉行を務めていたというのですから、この畑違いの人事を押し通すところにも、とにかく自分が信頼できる人間を郡奉行としたいという斉昭の思惑が見えるというものです。
 多一郎は北郡奉行から奥右筆頭取と、まさしく斉昭の側近として昇進していきます。奥右筆とは、政策文書の作成・管理を担う役職であり、現在でいえば秘書のような立場です。その重要な役職のトップに就き、水戸藩のために尽力していた中で起きたのが、前号(No.18)に書いた井伊直弼による斉昭に対する苛烈な処分でした。多一郎は再び斉昭の雪冤運動を始めると共に幕府(直弼)への対抗措置にも取り組みます。孝明天皇(朝廷)から下された戊午の密勅を京都から江戸まで届けたのは京都留守居役鵜飼吉左衛門の息子である幸吉(安政の大獄により獄門)ですが、その写しを水戸に届けたのは誰あろう多一郎です。ちなみに、江戸の小石川藩邸で保管されていた密勅も、優柔不断な慶篤が幕府に言い含められて手放してしまうことを恐れた斉昭の指示によって、密かに水戸に運ばれることになります。
 戊午の密勅返納をめぐる水戸藩の混乱については前号で触れましたが、この時に斉昭を支持する尊王攘夷派(改革派)が、返納絶対阻止の激派と返納やむなしの鎮派に分裂します。そして、返納絶対阻止を訴える高橋多一郎と金子孫二郎は激派のリーダーとなっていき、ここから桜田門外の変へとつながっていくことになります。
    高橋多一郎、金子孫二郎、野村彝之介たちは、戊午の密勅の趣旨の実行は水戸藩のみの力では不可能と考え、「奏勅義盟」の雄藩連合の結成を目指します。そこで、関鉄之介(襲撃現場指揮者)と矢野長九郎を越前藩、鳥取藩、長州藩に、住谷寅之介と大胡聿蔵を土佐藩、宇和島藩に派遣し決起を促しますが、結局どの藩も立ち上がろうとはしませんでした。
 そうしたさ中の1859年(安政6年)3月、やはり大老討つべしという機運が高まっていた薩摩藩の高崎猪太郎が水戸藩に決起を促すために水戸にやってきます。この時高崎は、多一郎も訪問しています。こうして、薩摩藩と手を結んで直弼排除を進めることとなり、同年9月には関鉄之介と高崎猪太郎の二人を、井伊大老の罪状書を呈出するために京に派遣しますが、安政の大獄により朝廷の状況は一変していました。尊王攘夷を支持し、一橋派寄りであった多くの公家が追放や謹慎処分を受けることで、直弼の強権ぶりに誰もが恐れをなしてしまっていたのです。関鉄之介と高崎猪太郎も幕府に捕縛される寸前のところを危うく逃れて、江戸に戻ってくるような始末でした。
 朝廷の命よって戊午の密勅を返納させることを画策した幕府は、朝廷に働きかけてその沙汰書を得、1859年(安政6年)12月16日、藩主慶篤に対し直弼が勅諚返納の朝廷の命を口頭で伝え、3日以内に幕府に返納するよう命じました。これにより憤激した水戸藩士や領民などによる長岡屯集が起こり、年が明けても返納できない状況が続くと、さらに幕府は1860年(安政7年)1月15日、慶篤に対し、25日を返納の期限とし、遅延すれば水戸藩の改易もあり得ると脅迫するまでに至ります。
 もはや一刻の猶予もないと判断した多一郎は、薩摩藩に宛てた密書を、郡奉行を務めた同志木村権之衛門に薩摩藩邸に届けさせます。その密書には次のようなことが書かれてありました。
・幕府が勅諚を取り上げた場合、水戸藩有志は直ちに決起し、井伊大老を討    つと共に、ハリスのいるアメリカ商館に放火し、征伐する。
・この挙に呼応して、薩摩藩では朝廷守護のため兵を京に出動するよう手配する。
・薩摩藩兵を京で水戸藩士畑弥平が、大坂で内藤文四郎が出迎える。
・行動の開始前、50名の潜居場所を薩摩藩邸近くに確保し、また藩邸内にそれらを指揮する2、3名を潜居させてほしい。
 多一郎は密勅の実行、つまり攘夷決行をあきらめたわけではなく、江戸で井伊大老を暗殺すると同時に、薩摩藩兵が京に入り、天皇をお守りすると共に攘夷の旗を挙げるという壮大な計画を立てたのです。この計画は、江戸藩邸勤めの有村雄助や田中直之進らの周旋によって進められていきます。こうして多一郎が京における薩摩藩兵挙兵との調整・指揮を、金子孫二郎が江戸における直弼襲撃計画の指揮を担うことになります。
 幕府の圧力に抗しきれず、もはや多一郎ら尊王攘夷激派を拘束することでしか解決することができないと考えた水戸藩庁は、多一郎を召喚しようとします。その動きを察した太一郎は、嫡男の庄左衛門、部下の黒沢覚三、大貫多介、庄司吉五郎らを伴い、密かに水戸を出立し、中山道で京に入りました。しかし、薩摩藩からの連絡はありませんでした。
 薩摩藩では、一橋派の中心人物でもあった藩主島津斉彬が、1858年(安政5年)7月に、将軍継嗣に慶福が指名されたことに抗議するために
5000の兵を引き連れて上洛しようとした直前に急逝するという悲運にみまわれていました。藩主を継いだのは茂久ですが、実質的には茂久の実父である島津久光が実権を握っていました。薩摩藩でも、大久保利通らの精忠組が中心となって水戸藩とともに決起する計画になっていましたが、久光が直弼暗殺を黙認しつつも、薩摩藩の直接関与を抑える方策をとり、藩主茂久の直書で、志士の精忠を称賛すると共に、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという対応で藩内を鎮静化させたため、薩摩藩が兵を挙げるという計画は頓挫していたのです。しかしもちろん、多一郎がそれを知ることはありませんでした。
 高橋親子は大坂で薩摩からの連絡を待っていましたが、3月24日、幕吏に追われて四天王寺境内へ逃げこみ、寺役人小山欣司兵衛宅の一室を借り、切腹して果てました。多一郎47歳、庄左衛門19歳でした。計画は頓挫しましたが、自刃する前に江戸において直弼を討ちとったという報を耳にしていたことは幸いだったと思います。お墓は、水戸市の常盤共有墓地にありますが、自刃した四天王寺にも建てられています。
 辞世「鳥か啼くあつま武男か真心は鹿島の里のあなたとぞ知れ」

水戸市の常盤共有墓地に建つ高橋多一郎、庄左衛門親子の墓名碑

2 金子孫二郎
 金子孫二郎は1804年(文化元年)、川瀬教徳(のりなり)の次男として生まれ、金子能久の養子となりました。
 まず、孫二郎の実父である川瀬教徳について少しご説明します。
 斉昭にとって股肱の臣であった藤田東湖は、斉昭が藩主に就任した10日後に、大業を成就させるためには優れた人材を登用することが肝要であり、まずは会沢正志斎と経済有用の事業に長じた川瀬教徳の二人を腹心とされるがよいと意見具申をしています。このことからも、教徳が高く評価されていた人物であったということが分かります。
 前項において、農政改革を重視していた斉昭にとって郡奉行という役職は非常に重きを置いていたポストであったことを述べましたが、川瀬教徳もまた郡奉行を務め、後には勘定奉行まで昇進しました。そして、水戸藩を襲った天保の大飢饉の際には、米の大量買い付けに成功し、藩の危機を救いました。その教徳が病臥に伏すと、斉昭から「あと10年は生きていてくれないと困る。決して死んではならない」という見舞状が届くほど信頼されていた人物でした。
 この川瀬教徳の血を引いた孫二郎もまた、父と同じ道を歩み郡奉行を務めます。西郡奉行時代には各地に郷校を設け、武技・医術の振興を図り、斉昭が進めた反射炉築造工事ではその陣頭に立つなど、斉昭の藩政改革を支えました。ちなみに、小美玉市野田の鹿島神社には、孫二郎の郡奉行としての業績を讃える開墾記念碑が建てられています。
 郡奉行として勤めに励んでいた孫二郎が、その後斉昭が謹慎処分を受けるとその雪冤運動に奔走して禁錮刑となり、斉昭の復帰後に再び郡奉行に就くというような歩みは高橋多一郎と全く同じで、安政の大獄、戊午の密勅返納問題を経て、尊王攘夷激派のリーダーとなった孫二郎は桜田門外の変へと向かっていくことになります。
 多一郎が水戸を脱出し、水戸藩庁に捕縛されている同志も出ているという報に接した孫二郎は、1860年(安政7年)2月18日、密かに水戸を出立します。その際、11歳になる四男の芳四郎が一緒に行きたいとせがんだため、泣く泣く押し倒して家を出たという逸話が残っています。
 「斉昭公の冤罪を晴らすため慶篤公に周旋尽力したき志願」のため脱藩するという趣旨の書状を自宅に残した孫二郎は、嫡男の勇二郎、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、飯村誠介と共に監視の厳重な水戸街道を避け、北に転じ那珂川を渡って田谷村の田尻新介宅で休息。小場村の安藤幾平宅に潜伏した後、2月20日未明、稲田と佐藤のみを従えて、笠間、稲田村、関本村、結城、古河、草加、王子を経て、25日夕に江戸神田の旅宿に着き、翌日三田の薩摩屋敷に入りました。
 3月1日、孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、有村雄助、木村権之衛門を集め、挙行は3月3日。登城中の直弼を桜田門外で襲撃するという最終決断を伝えると共に、次のような5つの指示を出しました。
・武鑑を携えて、行列の見物客を装う。
・4、5人を一組として連携する。
・まず先供を討ち、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つ。
・大老は討ちとるだけでなく、必ずその首級を挙げる。
・負傷者は切腹か閣老に自訴し、その他の者は京を目指す。
 そして孫二郎は、関鉄之介に対し当日の現場の指揮をとるように命じます。翌3月2日の夕刻、品川宿の相模屋にて決別の酒宴が催され、その場にて木村権之衛門を通して五丁の短銃が渡されました。短銃は鉄之介の他、斎藤、稲田、森、黒澤忠三郎の4人が所持することになり、黒澤が放つ短銃を合図として、大老の駕籠を両翼から一斉に襲撃するということなどが取り決められました。
 3月3日、品川鮫洲の川崎屋で待機していた孫二郎のもとに、佐藤鉄三郎が襲撃が首尾よくいったことを報告しました。その報告を受けた時の孫二郎の胸中は想像に難くありません。まさしく、「君」斉昭の恥辱を晴らすことができたという思いで感無量であったことと思います。
 孫二郎は当初の計画通り、京で高橋多一郎と合流するために、佐藤鉄三郎を伴い、有村雄助と三人ですぐに江戸を出立します。まさにここまでは多一郎と孫二郎の計画通りでした。しかし、薩摩藩は立ち上がらなかったのです。
 京へ上る途上の3月9日、伊勢・四日市の旅籠で三人は薩摩藩により捕縛され、孫二郎と鉄三郎は伏見奉行所に引き渡されて、3月24日に江戸に護送されます。1861年(文久元年)7月26日、孫二郎は伝馬町獄舎にて他の同志と共に斬首されます。享年58歳。墓は水戸市の常盤共有墓地にあります。追放刑となった鉄三郎は、翌年許され、大正時代まで生きました。
 また、有村雄助は薩摩に送られますが、1860年(万延元年)3月24日、幕府の追っ手が迫ったため、藩から切腹を命じられました。享年26歳。
 以上述べてきたように、歴史を転換させた幕末の大事件桜田門外の変は、高橋多一郎と金子孫二郎という二人のリーダーの存在なくしては成しえなかったものです。二人は斉昭から受けた恩義を忘れず、斉昭が受けた恥辱を自らの命を賭して晴らしました。まさしく二人は、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じたのです。そうした意味で、直接襲撃に参加した浪士たちだけでなく、高橋多一郎、金子孫二郎、佐藤鉄三郎、有村雄助らもまた桜田烈士にその名が列せられてしかるべきであると考えます。

水戸市の常盤共有墓地に建つ金子孫二郎の墓名碑

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  ー藩内神官を束ね雪冤運動に奔走した斎藤監物
  ※戦闘には加わらないという事前の取り決めを違えてまで斬り込んでいった斎藤監物についてとりあげています。