桜田門外の変とは何か?水戸藩存亡の危機を救った桜田烈士の生き様を考察する(歴史Think No.25)
桜田烈士、変後の足跡をたどる②
筑波烈士(つくばれっし)
1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。季節外れの雪が降りしきる江戸城桜田門外において、18人の桜田烈士たちが時の大老井伊直弼を襲撃し、その首級をあげました。幕末の大事件、「桜田門外の変」です。
この桜田門外の変から、わずか7年7か月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えることになりますが、この桜田門外の変が明治維新に向けた明確な起点となったという評価は歴史的に確立しているところです。
さて、「歴史Think No24」では、「変後の足跡をたどる➀」として変後に自訴の道を選択した佐野竹之介、斎藤監物、蓮田一五郎、黒沢忠三郎、森五六郎、大関和七郎、森山繁之介、杉山弥一郎の8人の桜田烈士の足跡をたどりました。今回は、変後京を目指した、岡部三十郎、広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の4人の足跡をたどることから、「君辱めらるれば臣死す」の思想に殉じた桜田烈士たちの生き様について迫っていきたいと思います。(※ 関鉄之介は次回取り上げます。)
1 変後の桜田烈士たちの動向
井伊大老襲撃を計画した金子孫二郎から烈士たちに示された指示の一つに次のようなものがありました。
「負傷者は切腹か閣老に自訴し、その他の者は京を目指す」。
井伊大老の首級をあげた18人の桜田烈士たちは、この金子孫二郎の指示に忠実に従って行動しました。
襲撃現場では稲田重蔵が闘死。深手を負い、これ以上歩くことも困難と悟った有村次左衛門、広岡子之次郎、山口辰之介、鯉淵要人の4人はいさぎよく自害し、前号で取り上げた8人が自訴することを選びました。
そして、軽傷だった広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の3人は、京を目指すために現場を離れました。さらに、現場にはいても戦闘には加わらなかった関鉄之介と岡部三十郎は品川の川崎屋で待機している金子孫二郎に会うために、桜田門外を後にしました。
2 岡部三十郎
書院番頭岡部五郎右衛門の次男として生まれた三十郎は、江戸在勤が長かった父の元で成長したことから、江戸の町々に精通していました。そこで、金子孫二郎の手足となって襲撃準備に奔走し、杉山弥一郎らと共に同志の潜行場所の確保などに当たりました。
また、彦根藩邸を中心に探索活動を行い、烈士の中では井伊直弼の顔を見たことのある唯一の人物でした。そのため、襲撃に際しては、現場指揮者の関鉄之介から検視見届役を任されました。
変後は、関鉄之介、野村彝之介、木村権之衛門と共に大坂に行きますが、
高橋多一郎が進めていた薩摩藩と共に尊王攘夷を決行する計画が頓挫したことを知り、水戸藩に戻り潜伏しますが、その後再び江戸に潜伏していたところ、1861年(文久元年)2月、吉原にて幕吏に捕縛されました。
1861年(文久元年)7月26日、伝馬町獄舎にて、他の同志と共に斬首されました。享年44歳。墓は、水戸市の光台寺にあります。

3 広木松之介
広木松之介は、寺社方として勤めていた時に大関和七郎を知り、桜田烈士に名を連ねることになりました。
変後、松之介は北陸方面から京を目指しますが、加賀国より先は警戒が厳しく入京が困難であったため、一旦密かに水戸に戻りました。その際、父から「武士の出陣はその日こそ命日というもの。性根あらば何処なりと行き、同志と共にせよ」と言われました。
数日後、松之介は再び京を目指して出立しますが、やはり幕府の詮議が厳しく、能登国や越後国を転々とする中、越後国新潟で水戸藩郷士・後藤哲之介と出会います。後藤哲之介は松之介に旅費を渡し、逃亡を手助けします。
1861年(文久元年)12月に、幕吏に捕縛された哲之介は、所持品から広木の印が見つかった上に自ら広木松之介だと名乗ったため、江戸に送られ、伝馬町獄舎につながれました。獄舎において絶食した哲之介は、1862年(文久2年)9月13日に絶命しました。享年32歳。
僧形に身をかえた松之介はその後、鎌倉の上行寺に寄食しましたが、桜田門外の変からちょうど2年後にあたる1862年(文久2年)3月3日、上行寺にて切腹して果てました。享年25歳。
上行寺には、「贈正五位広木松之助(ママ)之墓」と記された石碑が建てられています。

尚、「歴史Think No23」にも書きましたが、広木松之介が井伊直弼の首を水戸に持ち帰ったという伝承が残っており、松之介の墓がある水戸市の妙雲寺には「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」という慰霊碑が建立されています。

4 増子金八
増子金八は増子甚八の次男として生まれましたが、東茨城郡石塚村(現城里町)里正大畠又三郎の娘婿となり、大畠誠三郎と改名しました。増子金八の名前で通していたのは、累が大畠家に及ばないようにとの配慮であったと言われています。実兄の三郎太夫の妻が高橋多一郎の妹だったことから、多一郎の意を受けて、同志に先行して江戸に入りました。
商人体をした金八は、杉山弥一郎と共に日本橋井筒屋に投宿し、神田・浅草・本所などに潜行場所を確保すると共に、夜になると浅草観音周辺に出かけ、江戸に入ってくる同志の宿舎案内をするなどの働きをしました。
変当日、井伊大老の首級をあげて引き上げていく際には、しんがりの役目を果たしました。軽傷だった金八はそのまま京を目指しますが、途中の警戒が厳しいことから断念し、下野から那珂川を下って石塚村に向かいました。
しかし藩内においても捕吏の目が光っていたことから、金八は他国に潜伏しようと考えますが、その前に妻子と兄の顔を一目見たいと考え、水戸の兄の家を訪ねてから、密かに石塚村に入りました。妻の手引きで村の稲荷神社に身を潜めた後、平潟村の廻船問屋や那珂郡本米崎村(現那珂市)の親戚宅などに潜伏している間に、明治維新を迎えました。
石塚村に帰った金八は村の青年たちに漢籍を教え、狩猟と読書で余生を送りました。変のことは人に語らないという取り決めがあったこともあり、変のことは何も人に語ろうとせず、1881年(明治14年)10月14日、60歳で病死しました。
墓は、城里町石塚の稲荷神社近くの河岸段丘縁の森にあります。墓石には本名の大畠誠三郎と妻理遠の名前が刻まれています。
5 海後磋磯之介
海後磋磯之介は、那珂郡本米崎村(現那珂市)三嶋神社の神官の子として生まれ、弘道館に学ぶと共に、水戸神勢館で砲術を学びました。佐野竹之介と親しく交わり、高橋多一郎や斎藤監物の影響で尊王攘夷思想に傾倒していきます。
変後、磋磯之介は京を目指しますが、各地での詮議が厳しかったことから水戸に戻ります。実兄が小田野村(現常陸大宮市)の吉田八幡神社の神官高野家の養子となって神職を継いでいたので、その兄を頼って神社内や裏山に潜伏しました。その後捕吏の手が迫ってきたため水戸藩を離れ、京を目指して越後に向かいますが、詮議が厳しくかないませんでした。
1863年(文久3年)、藩政が回復すると郷里に戻り、菊池剛蔵と改名し、1864年(元治元年)の天狗党の乱においては、海野剛蔵の変名で
武田耕雲斎に従って那珂湊の戦いなどに参戦しますが、幕府軍に捕らえられ、下総国関宿藩お預けとなりました。しかし、そこを脱走します。
明治維新を迎えた磋磯之介は茨城県庁や警視庁に勤務し、退職後は神官に戻りました。桜田烈士最後の生き残りであった磋磯之介は、1903年(明治36年)、76歳で亡くなりました。
磋磯之介も金八同様、変のことは人に語らないという取り決めを守り、生前は口を閉ざしていましたが、襲撃の様子を伝える磋磯之介の遺稿「春雪偉談」を1933年(昭和8年)に遺族が刊行しました。他にも「潜居中覚書」があります。
磋磯之介が潜行した小田野の高野家には、「海後磋磯之介潜居趾」の石碑が建っています。

6 桜田烈士の生き様
今回取り上げた4人の桜田烈士中、岡部三十郎以外の3人は結果的に京にたどり着くことはできませんでしたが、金子孫二郎からの指示を誠実に守ろうとしていたことは確かです。
現代人の感覚だと「多くの同志が死んだ中で、軽傷で生き残ったのは幸い」と考えがちですが、生き残った彼らにあったのは「死んだ同志に申し訳ない」という思いではなかったかと思います。その思いが、彼らの足を京に向かわせたのです。岡部三十郎のみ京にたどり着くことができたのは、関鉄之介ら同志と一緒でしかも資金があったからでしょう。
海後磋磯之介が天狗党の乱に参戦したことからも、変後も尊王攘夷の志を変わらず抱き続けていたことが分かります。ちなみに、金子孫二郎からの指示で、当日の襲撃の様子を現場で観察していた畑弥平も天狗党に参加しています。
広木松之介が切腹したのは、高橋多一郎、金子孫二郎をはじめとしたほとんどの同志が死んだことを知り、もはや攘夷決行は困難であることを悟ったからですが、生きながらえることをよしとはせずに自害したのも、同志と共にという思いを抱いていたからに違いありません。
変後の3月11日に、烈士たちが預かりの身となっていた細川邸に自訴してきた人物がいました。同志だった宮田瀬兵衛です。瀬兵衛は伝馬町獄舎にて4月23日に獄死します。何らかの事情で襲撃に参加できなかった同志は他にも何人もいたので、瀬兵衛も口を閉ざして騒ぎが収まるのを待つことはいくらでもできました。しかし瀬兵衛は、同志と共に死ぬことを選んだのです。

また、同志ではないのに、広木松之介の身代わりとなって死んだ後藤哲之介にも、武士として生きることを全うしようとした桜田烈士の生き様を見ることができます。

戊午の密勅返納問題を巡り、改易もあり得ると幕府から恫喝されていた水戸藩でしたが、桜田門外の変から5ケ月後の8月26日、その死を秘したまま、斉昭の永蟄居が免じられました。斉昭の名誉は回復されたのです。
襲撃に参加した十八士だけでなく、高橋多一郎と金子孫二郎というリーダー。そして、宮田瀬兵衛、後藤哲之介など、変に関わった全ての桜田烈士たちが水戸藩を存亡の危機から救ったのです。
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