桜田門外の変とは何か?その歴史的意義について考察する(歴史Think No.27)
筑波烈士(つくばれっし)
1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句。江戸城桜田門外において時の大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」は、「明治維新に向けた明確な起点となった」という意味で、まさに歴史を大きく動かした大事件であったということができます。「明治維新に向けた起点」とはつまり、幕府を倒す(討幕)大きなうねりを引き起こしたということですが、しかし、桜田烈士は討幕を目的として井伊大老を暗殺したわけではありませんでした。
桜田烈士は、自分たちの行動の趣旨を「斬奸趣意書」に認め、変後に幕府老中脇坂中務大輔屋敷に届けました。斎藤監物が執筆したその斬奸趣意書には、朝廷の勅許を得ることなく日米修好通商条約を調印したのは、攘夷を望む孝明天皇の意志に違背したと非難し、安政の大獄における処罰の対象が公家にまで及んだことを激しく攻撃し、その罪状を列挙し、天に代わって奸臣井伊大老を討ち果たしたと襲撃の目的を記していますが、一方で公辺(幕府)に敵対する意志は一切ないということも書かれてありました。
言うまでもなく水戸藩は御三家の一つであり、その藩主は江戸定府にて将軍を支える立場にありました。そんな水戸藩に生まれ、敬幕の志をもつよう教えられてきた藩士たちに「幕府を倒す」などという思想は微塵もありませんでした。事変を主導した高橋多一郎、金子孫二郎を始め、襲撃に参加した烈士たちは尊王攘夷という、幕末の日本を席巻した思想のもとに決起したのであり、目的はあくまで国の行く末を危うくしている井伊大老を誅殺し、幕府の政道を正すことにありました。そしてそれと共に、これまで繰り返し述べてきたように、烈士の行動の根底には「君辱めらるれば臣死す」の思想がありました。
しかし、「歴史のアイロニー」とも言うべきことに、桜田烈士の行動はその意図を離れて、討幕に向けた大きなうねりを引き起こすことになり、事変の7年7ケ月後に264年続いた徳川幕府は終焉を迎えます。
そこで今回は、なぜ桜田門外の変が討幕につながっていったのかを考えることで、その歴史的意義について考察したいと思います。
1 幕府の権威の失墜
1858年(安政5年)、高橋多一郎は戊午の密勅の趣旨の実行は水戸藩のみの力では不可能と判断し、「奏勅義盟」の雄藩連合の結成を目指して、関鉄之介と矢野長九郎を越前藩、鳥取藩、長州藩に、住谷寅之介と大胡聿蔵を土佐藩、宇和島藩、薩摩藩に決起を促すためにそれぞれ派遣しました。しかし、個人的には井伊大老暗殺や攘夷決行に賛同する者はいましたが、結局どの藩も立ち上がることはありませんでした。
それは、ペリー来航以来の政治の混乱で翳りが見えていたとはいえ、まだまだ幕府の権威に対する怖れがあったからです。徳川の世が長く続くことが当たり前と受けとめられていた当時の時代状況を考えれば、幕府に歯向かうなどということはタブーであったと言っても過言ではなかったと思います。そして、井伊大老が幕府の権威を取り戻すために水戸藩を始め、全国の尊王攘夷急進派を壊滅させるために断行した歴史上類を見ない大弾圧、安政の大獄はそうした幕府に対する怖れを増幅させました。


井伊大老の高圧的な強権政治に批判的な藩や志士は少なくありませんでしたが、直弼にとって目の上のたん瘤だった徳川斉昭を水戸に永蟄居させ、公家にまで処罰の対象を広げるなど、朝廷をも怖れぬ井伊大老の「幕府に逆らう者は容赦しない」という強硬な姿勢を前に、もはや誰も意見すらできない状況になっていたのです。
そんな状況を打ち破ったのが、わずか18人の脱藩浪士たちでした。指導者である高橋多一郎は奥右筆頭取、金子孫二郎は郡奉行という重職を務めたものの、襲撃に参加した18人は皆身分の低い者たちでした。そうした軽輩たちが、白昼堂々、しかも江戸城の真ん前で幕府の最高権力者を襲撃し、首級を挙げたのですから、幕府の権威は地に落ちたも同然でした。そして、事変の報を聞いた全国の尊王攘夷の志士たちを「徳川幕府、恐れるに足らず」と奮い立たせることになったのです。
安政の大獄により斬首となった吉田松陰は「草莽崛起」を唱えました。身分の低い者が国のために立ち上がり、国を変えるという思想ですが、その思想が決して机上の空論でないことを桜田烈士がその行動によって証明したのです。松陰の教えを受けた桂小五郎や高杉晋作たちが後に討幕運動を進めていくことになりますが、彼らが桜田門外の変に衝撃を受け、大いに触発されたことは想像に難くありません。

とにかく、桜田門外の変が尊王攘夷思想を信奉しながらも安政の大獄によって息を潜めていた志士たちに「正義は勝った」と再び立ち上がらせる契機となり、後の討幕運動のエネルギーへとつながるのです。
2 尊王攘夷運動の高揚
前述したように、尊王攘夷思想は幕末の多くの志士に信奉されていました。天皇(朝廷)を尊崇する「尊王」はともかく、夷狄(外国勢力)を撃攘する「攘夷」などという思想は現実離れしているという批判は、今だから口にできることであり、幕府の長期にわたる鎖国政策のために国際情勢など全く知り得ていなかった当時の日本人の多くは、無謀な思想などとは考えていなかったのです。
この尊王攘夷思想は、水戸学の中から生まれました。
水戸藩の立場は、天皇を頂点とする神国日本の唯一無二性を護持したいということにあります。そのためには西洋人を国に入れてはいけない。なぜなら、西洋諸国の国教でありイデオロギー的核心であるキリスト教のこの世を超越してそれ以外の神を認めない概念が、この世を超越せずに万世一系で現前し続ける現人神としての天皇概念と絶対的に矛盾すると考えていたからです。ひとたびキリスト教が侵入し、布教が進んでしまえば、神国日本の唯一無二性を疑う日本の民が増えて国体は護持されない。こうした思想に基づいて、幕末における尊王攘夷思想の象徴的存在であった斉昭は、早くから海防の重要性を訴え続けていたのです。
そして1840年に起きたアヘン戦争の結末が、尊王攘夷派の武士や学者などの危機感をさらに高めることになりました。中国(清)のように武力によって侵略され、植民地として日本が食い物にされることを大いに危惧したのです。
攘夷を望んでいた孝明天皇が、アメリカ側が求める日米修好通商条約調印の勅許などだすはずがありません。そこで井伊大老は勅許を得られないまま調印に踏み切り、それに異を唱えた斉昭を永蟄居にし、戊午の密勅問題が起きるや、井伊大老の政治姿勢に異を唱えた水戸藩を始めとした全国の尊王攘夷派の多くの志士と公家を徹底的に弾圧したのです。
御三家である水戸藩にも、そして朝廷に仕える公家たちにも容赦なく苛烈な弾圧を加えた安政の大獄は尊王攘夷派の志士たちを震えあがらせ、運動は壊滅したかと思われた、そうした状況下において桜田門外の変は起きたのです。尊王攘夷を信奉する者たちにとって、まさに起死回生の事件であり、尊王攘夷運動は京を中心に再び高揚します。
江戸時代は藩士であろうが、身分が低い者や高い役職にない者が政治的に発言し、行動することなど不可能でした。藩では藩主の言うことが絶対であり、国では幕府の言うことが絶対の時代でした。そうした中で、「攘夷によって自分たちにもこの国を変えることができるのではないか」という思いが全国の若き志士たちを立ち上がらせることになったのです。
井伊大老暗殺に成功したとはいえ、高橋多一郎、金子孫二郎という二人の指導者を失ったのは水戸藩にとって大きな打撃でしたが、この桜田門外の変によってさらに全国の尊王攘夷派志士の信望と期待を集めることになり、全国から多くの志士が水戸藩を頼ってやってくるようになりました。そうした志士の中には、後の天狗党の乱に参加した者もいます。
そして、水戸藩と提携して尊王攘夷運動を進めようという機運が高まりました。その中に、あまり知られていませんが「成破の盟約」(丙辰丸の盟約)と呼ばれるものがあります。桜田門外の変から4ケ月後、長州藩の桂小五郎と水戸藩郷士西丸帯刀の間で交わされた盟約であり、内容は次のようなものです。
水戸藩は、桜田門外の変に続く挙を起こす(破)。長州藩は、幕府に対し献言を行う(成)。つまり、水戸藩は尊王攘夷の障害となる奸臣を誅殺し、長州藩は力ある人物によって幕府の政治を改めていくという約束です。変前には、高橋多一郎が雄藩連合の結成を呼びかけても動こうとしなかった長州藩にこうした動きが見られるようになったことにも、桜田門外の変が全国の藩や志士たちに与えた影響の大きさを知ることができます。その後、藩論を攘夷に統一した長州藩は、攘夷派の公家と結びつき、京において水戸藩に代わり尊王攘夷運動の中核をなす藩となり、運動は大いに高揚しました。
ちなみに、この「成破の盟約」は長州藩重臣の賛同を得られずに有名無実化しますが、西丸帯刀らは1862年(文久2年)1月、坂下門外の変を起こし、井伊大老の手足となって水戸藩を弾圧し、当時は公武合体政策として
孝明天皇の妹・和宮降嫁を進めていた老中・安藤信正を襲撃します。襲撃したのは水戸の人間だけではありませんでしたが、水戸藩による「破」の行動は続くことになります。

しかし、大きな高揚を見せた尊王攘夷運動でしたが、長州藩は1863年の下関事件により、薩摩藩も同年の薩英戦争によって外国の軍事力が容易に対抗することのできないほど強大なものであることを思い知らされます。現在の状況では攘夷など実現不可能であることを認識した両藩は、近代化を進めて外国勢力に対抗しうる強い国家をつくらなければいけない。そのためには幕府を倒して、天皇を中心とした新たな政治体制を構築しなければならないと、尊王攘夷から「尊王討幕」へと大きく舵を切ることになるのです。
3 朝廷の政治的発言力が高まる
安政の大獄では、水戸藩とつながりが深かった攘夷派の公家が何人も処罰されました。まさか自分たちまで処罰の対象になるとは思ってもいなかった公家たちは井伊大老の強権的な政治手法にすっかり怯え震えあがり、口を閉ざしました。桜田門外の変の半年前、1859年(安政6年)9月に、関鉄之介と薩摩藩の高崎猪太郎は、井伊大老暗殺の大義名分を得るために大老の罪状書を持参して京に入りましたが、攘夷派だった公家はすっかり怯えきっていて、二人に対してけんもほろろの態度をとりました。
戊午の密勅を水戸藩に降下するなど、独断で政治を進めようとする井伊大老に対抗する姿勢を見せていた孝明天皇や公家たちは、弾圧の恐怖から沈黙を強いられたのです。そのまま井伊大老による政が続いていたならば、朝廷は完全に政治の蚊帳の外に置かれていたことでしょう。しかしその状況も、
桜田門外の変(井伊大老の死)によって変わりました。
前項で書いたように、尊王攘夷運動が再び盛り上がりを見せ、攘夷を藩論とした長州藩と結びつくことにより、攘夷派公家の発言力が高まりました。
1863年(文久3年)3月に上京し参内した将軍家茂は攘夷の決行を迫られ、その具体策などないままに、攘夷決行の期限を答えてしまいます。勅許を得ることなく日米修好通商条約を調印した幕府が、今度は朝廷に対し攘夷の決行を約束するという、全く矛盾した対応をとらざるを得なかったこの一件からしても、朝廷の政治的発言力が高まり、幕府の権威がいかに失墜していたかは明白です。桜田門外の変以降、朝廷と幕府の立場は逆転したのです。
4 雄藩の台頭と薩長同盟
井伊大老暗殺の謀は、井伊直弼が大老に就任してすぐに日米修好通商条約の無勅許調印を断行し、紀州藩の徳川慶福を次期将軍に決した時点ですでに始まっていました。一橋派の中心人物であった薩摩藩主島津斉彬の側近であった西郷隆盛を始めとする薩摩藩の精忠組の面々と、高橋多一郎を指導者とする水戸藩の尊王攘夷激派の有志間で謀議されていたのです。
計画では、井伊大老を暗殺すると共に、薩摩藩兵が京に入り、朝廷を守護することになっていましたが、結局薩摩藩は動かず、計画は頓挫します。大坂で待機していた高橋多一郎と嫡子庄左衛門は、幕府の捕吏に追われ、四天王寺において自刃しました。
いよいよ井伊大老暗殺が実行されるという報を聞いた大久保利通などの精忠組の藩士は、いよいよ水戸藩と共に尊王攘夷の烽火をあげる時がきたと藩庁に出兵稟議書を提出し、挙兵を主張しましたが、島津久光によって押さえこまれたのです。それはもちろん、薩摩藩に難が及ぶことを恐れたからであり、金子孫二郎と共に京を目指していた有村雄介を四日市で捕縛しただけでなく、同志である金子孫二郎と佐藤鉄三郎を幕吏に引き渡すという挙にも及びました。薩摩藩に帰国させられた有村雄介は、幕府の追及を恐れた藩により切腹を命じられます。
藩主茂久の後見役として藩政を牛耳っていた久光も、この時点では幕府の権威を怖れる気持ちが強かったのでしょうが、この久光が後に幕政改革に着手します。桜田門外の変の2年後、1862年(文久2年)、幕府の許可を得ることなく1000人もの藩兵を率いて京に入った久光は、勅使の大原重徳と共に江戸に向かい、幕府に対して幕政改革に関する朝旨を伝えました。
その内容は、将軍家茂の上洛や一橋慶喜と松平慶永を将軍の補佐に就けるというものでした。この一件は「成破の盟約」の「成」の部分を、長州藩に代わって薩摩藩が実現したとも言えるのではないかと思いますが、こうして薩摩藩は、幕末の政治の中枢へと躍り出ることになります。
一方、水戸藩に代わって京における尊王攘夷運動の中心となっていた長州藩は、8月18日の政変、それに続く禁門の変、長州征伐と艱難辛苦を舐め続けていましたが、高杉晋作を始めとした松下村塾で吉田松陰の教えを受けた若き志士たちが各所で活躍していました。
そしてこの薩摩藩と長州藩が、1866年(慶応2年)に手を結び薩長同盟を締結したことが、大政奉還へとつながるのです。薩長に続くのが土佐藩ですが、薩長同盟の立役者である坂本龍馬は、実は1858年に「奏勅義盟」の雄藩連合の結成を目指して土佐を訪れた住谷寅之介、大胡聿蔵と会談しています。土佐藩で役職に就いていたわけでもない龍馬がすでにその時点で水戸藩からも注目される人物と目されていたことは驚きですが、しかしまだ龍馬には藩を動かすまでの力はありませんでした。
数年後、桜田門外の変の報を聞いた龍馬は、「あの時の連中がやったのか」と、大いに触発されたに違いありません。討幕の中心となった薩摩藩と長州藩、そして土佐藩。そうした藩の中枢として運動を推進していたのは、桜田門外の変に触発され、「自分たちにも何かができる」という気概を抱いた若き志士たちだったのです。
以上、4つの点から、どうして桜田門外の変が討幕につながっていったのかについて考察してきました。まとめると、井伊大老が暗殺されたことで幕府の権威が大きく失墜し、尊王攘夷運動が高揚すると共に幕府に対する批判が強まっていった。そして、攘夷論が現実と遠く遊離していることを知った薩摩藩と長州藩が、外国勢力に対抗しうる国を作るためには幕府を倒すしかないと薩長同盟を締結したことが幕府崩壊につながった、ということです。
そうした運動の大きな推進力となっていたのは、尊王攘夷を信奉していた若き志士たちであり、そうした全国の志士たちに「自分たちにも何かができる」、「自分たちにも世の中を変えることができる」という思いを喚起させたところに、桜田門外の変の歴史的意義があるのだと私は考えます。

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