悲しみを越えて、春の食卓へ
今「パワーか、フォースか」を読み直している。意識レベル200以下のエネルギーには、プライド、怒り、欲望、恐怖、深い悲しみ、無気力、罪悪感、恥があり、最弱というか最強の「恥」はエネルギーが20しかなく、ほぼほぼ死と同義だそうな
そして、かつて「浄化」とは汚泥に潜り抱きしめて一つになること、と記事を書いた。順番に一つになれるか見ていくことにする
まずプライドはそもそも希薄だった。今はほぼ完全に消滅している。理屈で言っても上も下も良いも悪いもない、自分の認知以外は確実に幻想である中一体何を根拠にプライドを保つというのか
プライドは自分の外側との比較のみで起こるものだが、怒りは例えば「理想の自分」との乖離を感じることでも起こりうる。つまり自分の内側との折衝が必要な場合もある。怒りの原因は動物的な本能に由来したり、ここで挙げきれるものではない。しかし抱きしめる方法として共通するのはそれと同化せず、怒りの炎に己を焼かせるがままにすることだ。所詮は幻影の炎なのだ、気づけば消えている
さらに進んで欲望は、そもそも自分は淡白なので溶かしやすかったのだろう。かつては地位と名誉、また莫大な資産を得たいと願ったときがあったが、その欲望の根底を眺めているうちに解けて消えていってしまった。私は幸せになるために生きているのであり、幸せになるためには幸せになるだけでよいのだ。外的要因は一切必要無い
次は恐怖だ。実際この世界にホモ・サピエンスという動物としてある以上、動物としての本能的な恐怖からは逃れられない。が、これはごく自然なことで、食事を摂り、排泄し、睡眠を取り…といった日常の生命維持となんら変わるところはない。やはり存在そのものの祝福が形を変えただけのものと看破することができれば、「心頭滅却火もまた涼し」という結論に達するのもまたごく自然なことだ
次は深い悲しみだが、これは後述する。その次の無気力、これはもう生まれと育ちに感謝するしかない。愛情に包まれてのびのび育ててもらったのだ。最初からこの意識レベルとは無縁であった
次に進もう。罪悪感と、最後の砦?である恥について。この二つもあまり感じたことがない。つまり、先ほどの無気力と同じで、幼い頃に外側から「罰せられた」経験がないのだ。少なくとも、思い出せない。のびのびと表現したが、もしかしたら甘やかされて育ったのレベルなのかもしれない。まあそれはともかく、自分の中に自己否定、自らを裁く、罰を与える、というような部分は見受けられない。これもまた生まれと育ちにただただ感謝している
しかし、深い悲しみ、これは全く別だ。外的要因と、かつてこれが最大の敵だったという事実、どちらもはっきりと自覚している。母が私を妊娠している最中に父が自死しているという環境が、そもそも場として作用していたのであろう
まあしかし、今日は妻が若竹煮を作ってくれたが、大変美味しかった。作るのは初めてだそうだが、自分の中の若竹煮の概念を塗り替えられた。得難い妻を迎えられたものだ、私は果報者だ。かつての悲しみは、継続する愛と感謝に満たされた日常の前に溶けつつある
つまりまだ線引きを感じ、一つにはなりきれていないが、時間の問題だろうということだ。先ほど「自分を罰したいという思いはない」とは書いたが、かつて悲しみに支配されていた頃は悲しむために自分を罰しようとしていたところがあったのは否めない。溶けつつある今となっては分析も詮無きことではあるが
そして、妻もまたアトピーに敗北し続けたことで深い悲しみを負った人間であったことは間違いがない。我々が出会いお互い癒しあったことに、やはり共通の何かがあったことは否めないだろう。この辺は塞翁が馬というところだ
結局なんだか惚気話になってしまった。めでたいというよりは、おめでたい。今が春である以上に、私の頭の中はお花畑だ
