ダウンサイジング
Xを開くと、政府の骨太方針の一部の文言「人社系のダウンサイジング」という部分について、論争(というより、低劣な言い合い)が行われていた。

人文社会系、いわゆる「文系」と、いわゆる「理系」を対立させるという、政府のいつものやり方自体、時代遅れで痛々しい。文系・理系という区分は、学問分野というよりも、受験制度に依存した派生概念で、いわば「立場」のようなもの。公務員と民間、総合職と一般職、あるいは(大学という小さな組織でも)教員と職員のような、互いに職務・精神・文化・利益のエコシステムが異なる。日本人はこの「立場」というものを命よりも重視するところがあり、立場を超えて発言したりするのはタブーとされるし、タブーを犯す場合はやはり、攻撃的な意図がそこにある。文系が理系を馬鹿にする、理系が文系を馬鹿にする、というようなやり取りでしか、立場を超えた交流がない。Xをひらけば、このことがよくわかると思う。
さて、この立場は社会に規定される派生物であるから、社会の成長や衰退によって、危うくなったりもするし、逆に台頭したりもする。評判が良くなったり、悪くなったり、期待されたり失望されたりもする。全て、社会に依存する。
学問分野は、逆に社会を規定する力を持っていなければならないと、私は思う。理系だ文系だ、と社会は言うけど、我々は知りたいことを最適なやり方で突き詰める、という態度。その結果、一般に文系と認知される分野の人が理系と認知される分野の人と似たアプローチを使う(あるいはその逆)があるが、それは社会がそれを求めたからではない。そうしたかったからである。
文理融合という言い方は、社会が規定する文系と理系を、またしても社会がお節介に「付き合ったらどうだ」と促す、薄気味悪い仕草だと思っている。私は言語学という研究分野に属しているが、明らかにしたい対象に応じて、科学的手法をあれこれ選択したり開発したりしているのであって、自分たちが文系か理系かを意識して研究している人はいないのではないかと思う。
要は、関心の対象(例えば人間言語)も、そのアプローチ(フィールドワークするとか、実験する、とか、大規模なコーパスを使う、とか)も、そのプロたちが定め、その結果として、研究分野が規定されていき、それを社会が実装面で、あるいは大学などにおける教養という形で、利用する。研究が役に立つ、とはこの流れで生じる知的交流を指す(それについて別記事として書いた)。
しかし冒頭の方針は、社会がガチガチに規定した、しかも受験制度に根を張る文系・理系という制度的区分、つまり立場を所与のものとして、一方から他方に人を誘導しようとする。そこに問題があると私は考えている。
研究上の関心の持ち方は学問の自由の1つ。例えば私がいる部局(人文科学系の研究ユニット)が、この方針によって、仮にデータサイエンス学部(笑)のようなものに再編されたとしよう。私の研究分野は消滅危機言語の研究で、大量データにアクセスすることがそもそもできず、地道な実地調査が必要となり、話者から得られた僅少な録音データを文字に書き起こし、研究に耐えうるデータベースに落とし込むまでに気の遠くなる時間がかかる。
しかし、(あくまで仮に)「データサイエンス」的なノリの研究にシフトしていく不要な圧力が掛かれば、おそらく私は現地調査をやめ、既存の資料の中で大量に使えそうなものを電子化してアーカイブ(笑)と称するとか、あるいは「この数年でデータサイエンス的研究をするには、今やってる言語ではなく、すでに辞書やテキストが大量にあるあの言語の方がコスパがいい」というふうに、研究の関心ごと自体を動かしていくことになる。その結果、本来であれば上質で重厚な、世界で私にしかできないその言語の記録保存が中途半端に終わり、安直でハリボテ感満載の、誰でもできる低質なものになっていくだろう。
私自身は、「現地で調査できる時間が残り少ない中、大量のデータを将来のために記録保存する方法はないものか」という、自分の研究に内在する問いに答えるため、フィールドワークという従来の手法に加え、自然言語処理などの隣接領域の工学的手法を自ら選択したりしているが(例えば以下)、それは「文系的なノリを変えなければ」と思ったからではないし、まして人に言われたからではない。私の研究において必要だったからであり、それを知っているのは私なのである。
また、視点を研究者から高校生に変えて、自分が関心を持つ分野が日本文学だったとして、これまでは国立大学文学部への進学で存分に追求できたところ、そこがいつの間にかデータサイエンス学部(笑)になっており、「日本文学をやりたいなら他県の私立に行って」となってしまったら、結局、経済的な優劣で選択肢が変わるということになる。重要なのは、今までは普通に存在していた選択肢が政府の誘導政策で削られるというところにある。
大学には(特に国立大には)税金が投入されているから、上記の誘導は政府の当然の対応だ、という人がたくさんいる(Xを見てみるといい)。しかし、税金の第一の使用目的は、憲法で保障される国民の権利を維持するためのインフラ整備である。それを「ダウンサイジング」という耳障りの良さそうな言い方で間接的に制限するのは、そもそも税金の使用目的に反する。それが許されるなら、次は「大卒のダウンサイジング」と言って、大学で学ぼうとする高校生たちを「人材不足の業界」に誘導したりすることも許される、と政府は思うだろうし、「長寿のダウンサイジング」「幸福のダウンサイジング」と、歯止めがなくなるかもしれない。
私はこう思う。もしダウンサイジングなる概念を用いるのであれば、人口減少が進む中、「社会全体のダウンサイジング」を、憲法に規定されるあらゆる国民の権利を保持したまま行うにはどうすればいいか、という問題設定を行うべきなのでは?と。国民の権利を保持したまま、という歯止めが重要である。
この難問に挑むには、社会の現時点でのテーマ(問題意識、強い関心)によって規定されないさまざまな学問分野の知見が必要だろう。その際、学問分野の存立を社会によって規定させないことが重要になってくる。例えば、これからはフィジカルAIの時代だ、と社会が騒ぐ頃には、研究としてのフィジカルAIの時代はすでに世界のどこかで始まっていて、それに追いつこうとして学問構造を今、再編しても、それが成長する頃には別の問題にテーマがシフトしている。このテーマの後追いは、いわゆるモメンタム投資に似ている。むしろ、どの知見がいつ、どの社会的難問に役立つかわからないことを前提として、どの基礎分野にも薄く広く分散投資しておく方がいいに決まっている。
社会の特定の立場の利害(権利)を対立させてリソース(税金)の奪い合いをさせ、その行方を見ながら片方に犠牲になってもらう、というのは、日本の行政の不変の手口と言ってもいい。国民はこれに怒りを持つべきで、上で述べた「ダウンサイジング」の濫用を恐れたり、誰もがダウンサイジングの対象になる可能性があるという仕組み自体を変えなければ、と心配すべきだが、Xではそのような心配の声は少なかった。むしろ、国が用意した「闘技場」の中に易々と入っていき、理系が文系を叩き、文系が理系を叩き、研究者をうっすら嫌いな普通の人が観客としてこの議論にやじを飛ばす。そして数日経てば全員忘れる、という、いつもの光景が広がる。上で太字で書いた難題を思い起こすきっかけにして、みんなで建設的に議論するという人たちを見つけることはついにできなかった。
