トルファンのあの子達【20世紀の終わりに旅をするなら#22】
1987年 初夏 トルファン
私の帽子をかっさらって次々かぶってはポーズをとる40年近く前のウイグル人男子達。
道で会うと集団でぎゃーぎゃー言いながら追い剥ぎをするギャング。
そしてこの笑顔。

いい加減返してもらおうとしても全然ダメだったが
最後に通りかかったおじさんに引っぱたかれて
泣きながら返したのにはちょっと同情
服のままカレーズ(用水路)に飛び込むウイグル人女子達。
話していたら遂にこっちまで水に引きずりこまれて全身ズブ濡れだ。
こうなればどこまでも付き合う。
子どもに混じって大人まで水中で遊ぶのを見て、西洋人ツーリストが面白がってカシャカシャ写真を撮りまくっていた。
だから私自身の写真は、もしかしたら世界のどこかのアルバムに収まっているのかもしれない。


水は冷たい

これは小川でもドブでもないカレーズに違いない
無邪気だった彼らだってすでにアラフィフのはずだ。
無事であれば。
ウザくて強引で、このような帽子強盗や水路突き落とし暴行みたいな真似をするけど、ものすごく人懐っこくて子どもらしくて可愛いかった。
トルファンというゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の間の盆地にある、オアシスの街に着いたら、中国領土とされているけど全然違う民族圏であることが一目瞭然だった。
トルファンはウイグル人の街だ。
真似の難しい巻き舌で話されるウイグル語。
漢字と違って左から書かれるアラビア文字

捨てるのはあっち⇨
市内の主な公共交通機関は乗合いロバ車。
金髪青い目からモンゴロイド的までのグラデーションのどこかに位置する風貌。
上海で「チェンジルマネ?」と巻舌で外貨兌換券の両替を持ちかけてきた違う顔立ちの青年は、ウイグル人だったとわかる。
イスラム教寺院他のエキゾチックな装飾。
モスリムなので、装飾を施したウイグル帽、または男性はハンチングが多く、女性はスカーフをかぶっていた。
丈の長い老人の上着に、女性達のカラフルかすりワンピース。

このかすりやカレーズやウイグルらしいものに
昨年ウズベキスタンで出会った
⇩はその記事
金曜は正装した男達が寺院に詰めかけるので、その後バザールは中東イメージの激シブじいさんであふれる。
血の気の多い男達は口論して腰のナイフを抜いたりもする。
細い アーモンドクラッシュポッキーみたいな並木の街路樹(あれが北海道によくあるポプラとは!後でわかりびっくり 太さが全然違う)
とびきり臭い羊肉の料理
一人っ子政策の漢族地区では子どもは少なくいつも距離があったが、ウイグル人(子ども3人までとされているが当時規制は有名無実)は子どもだらけ。学校に行ってるのか二部制なのかわからないが、いつも街にたくさんいる。そして遊んでいたずらして怒られている。
そういうのが楽しくて面白くて、ただただ喜んでいた。
名産の葡萄やハミウリの時期にはちょっと早くて、まだアプリコットとスイカくらいだった。でも、その後ウルムチ、クチャ、カシュガルと週を経るごとにどんどん甘くおいしくなっていった。

トルファンの葡萄に形も味もそっくり
砂嵐に遭った。
多分2kmほど離れた蘇公塔に歩いて向かう時。
家と家の間隔がちょっと開き出した途中の道で、風で地吹雪みたいにそこらじゅうの砂が舞い上がり、視界が黄色くなった。視界より息ができないのが苦しい。吸い込むと砂が入ってくるのだ。
細いポプラの陰にに身を寄せて、服の中に顔を埋める。外に出ていた人々はすぐに家に入り、自転車のおじさんも呼びかけながら通りすがりの家に避難していく。怖くて一緒にまぜてもらい、壁の中で何とか収まるまで待った。
息のできない怖さを思い出す。
外に出ていた街路樹として植えられた細いポプラの意味がわかった。防砂林として必要なのだ。砂漠でも生える樹木として必要なのだ。
外にいた女の人が、砂嵐が来るとサッと頭のスカーフを顔に下ろして、ブルカのようにすっぽり頭部を覆った。
イスラム教のおきては、砂漠地帯の風土に合ったものだ。
薄手の布は、布越しに前が見え、かつ砂を遮ることができる。
チャドルやブルカなどはモスリム女性抑圧みたいに言われることもあるけど、風土的な実用性があるのだ。
体験してわかることがある。
砂嵐の記憶だけ残って、蘇公塔の記憶はほぼない。
10キロほど離れた交河古城には、日本人カメラマンとロバ車で出かけた。
有名なそこもよく覚えていないし、写真もない。
しかしその日本人から「ウイグル人に見えた」と言われたことは記憶にある。
これがウイグル人に間違えられ初めだ。
その後、やたら元気のいい香港人女子4人にスカウトされ、火焔山や千仏洞や高昌古城なんかを1日一緒に回った。
値段交渉任せたら、その後伝説となる程値切ってくれた。
トゥクトゥク大のボロ軽トラの後ろに乗って、砂漠というか土漠を走る。



オアシスがいかに素晴らしいかわかる
その頃どこでも精力的に本土を旅行しまくっていた香港人グループと、会話以上に行動を共にした初めだ。
トルファン賓館のドミトリーの足下には、ウイグル特産の絨毯が敷かれていた。
私は軽い風邪の後、体質で咳が続いていた。
T君や他の日本人もあまりに乾燥しているせいか、喉に違和感があると言う。
ある日T君が夜洗面器に水を汲んできて床に撒いたら、絨毯の毛並から蒸散して湿度が上がり楽になった。朝にはすっかり乾いて砂漠地帯の乾燥はすごいということになり、寝る前の恒例になった。
何日かして段々部屋が臭くなってきた。なぜだろう?どこからだろう?
トルファンを発つ前夜、臭いの源を探して絨毯をめくったら、黒ずんでいた。カビていたのだ。
何も告げず発ってしまってごめんなさい。あれは本当にごめんなさい。
私はこの後、トルファンからウルムチ、クチャ、アクス、カシュガル、コルラを回った。
91年にはパキスタンから入ったカシュガルで発症したA型肝炎で寝込んだ後、ヤルカンド、ホータンを回ってチベットに入ったので、トルファンを訪れたのは87年のこの時だけだ。

以後まだまだ続く
鉄道はコルラまでで チベットにはもちろんない
ただ楽しかった 荒々しくも魅力的だったウイグルの街や人々が、どんどん変わった、というより作り変わっているというのを聞く。公けには発展したとされる。
しかしあの頃ちょっとかすっただけの外国人も皆こう口にした。
「ここはどう見ても中国じゃない」
その印象は正しい。違う民族、違う論理、違う文化の人々のいる国は多く、どこも問題やいさかいは絶えないけれど、これだけ違うものを矯正しよう(正しいという字はふさわしくないが)とすれば相当の歪みが出る。
宗教や文化の真髄を抜いて、無害な表面を塗り替え観光用に整え、旅人のカメラには残ったとしても、これらエピソード記憶の方が刻まれるように残る。

あまりにかわいいのでのせちゃう
日干しレンガの壁の前の子

トルファンの記憶で一番大きいのは子ども達だ。
あの子達がどういう風に成長したのか、無事でいるか、思いを馳せる。
