上海〜トルファン ぐったり途中下車の旅🇨🇳【20世紀の終わりに旅をするなら#21】
1987年5月 中国 上海〜洛陽〜嘉峪関〜トルファン
御宣託により授けられた 上海〜烏魯木斉(ウルムチ)の硬坐(ハードシート) の切符を、今度こそ失くさないよう身につけて、昼頃混み合う上海駅から火車(列車)に乗り込んだ。
始発駅なので、ちゃんと切符分の座席はあるはずだが、相変わらず狂乱のハードコアおしくらまんじゅうと、激しい口論と聞き分けがつかない声量と意気込みで、座席の取り合いが始まる。
日本なら鉄道警察出動レベルだが、これが常態なのだろう。誰もが当然のように自分の目的を遂行している。
特大木箱とか、においの強い乾物をそのまま紐で括ったものとか、生きた鶏とか、およそ客車の手荷物とは思えない物を持ち込んで網棚に載せようとするので、かなりの混乱だ。
偶然同じ列車の切符を手にして、道連れになったT君と共に、何とか4人ボックスに空席を見つけて、棚にバックパックをねじ込んだ。
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しかし一通りすったもんだしたらその荒れた場は平穏になり、長旅の道連れモードでお茶を勧め合ったりし始める。あんなにバトルだったのが嘘のようだ。
観光旅行はまだ誰でもできる時代ではなく、当時の人民の皆さんは、それぞれ工作(仕事)の何やらとか、故郷の何やらの名目での移動だ。
寝台が取れる人はそれなりのコネがありそうだが、硬坐の乗客はお一人様が多い。
大荷物は頼まれたり土産だったり仕入れだったりするのだろう。自らの身の回りの荷物は驚く程少ない。
薄いタオルと歯ブラシ🪥と茶器のみの人がほとんどだった。誰も着替えたりはしないのだ。
タオルを網棚にかけたりして、これから長時間に向けて皆準備を整えると、どこか変な日本人若者二人に興味を向け始める。
とにかくお茶を勧められる。85年の経験から汽車旅には絶対必要だと上海で買ったホーローカップは「これは小さくて不好(良くない)」と指摘される。
実際方便面(袋麺)を作るには小さかった。

金魚がついてかわいかったのに
その頃中国では、行くたびに携帯用お茶容器のトレンドが変わり、使いやすくなっていたのだった。多くの人民が移動の時に持っていたのはこんな感じ
85年 巨大蓋付きホーローカップ
87年 インスタントコーヒーの瓶みたいなのが登場(蓋がプラでお湯は漏れる)
90年 デカいジャム瓶みたいなのが登場(スクリュー金属蓋で漏れが少ない)
91年 ほぼデカジャム瓶になる
93〜95年 鉱泉水(ミネラルウォーター)や保温マグも登場(まだ質は低いが)
きっとその後今の保温容器に移行したのだろう。
こんなにお茶好きなのに、保温タイプの台頭が遅めなのは、お湯だけはどこでも必ずもらうことができたからだ。
もちろん列車のデッキにも石炭の湯沸器があり、乗務員も特大やかんを持って時々注ぎに来てくれる。茶漉しやポットいらずで皆茶葉をそのまま入れてそれをよけて飲んでたから、カップと茶葉さえあれば良かったからだ。
(飲用のお湯は絶対あるけど、シャワーはなかなか浴びさせてもらえないが)
そして筆談が始まる。
じゃないかとは思っていたが、途中下車しても、8日以内にウルムチに着けばいいらしいと教わる。
お尻がもげたり廃人になってもいいとまで思ったものの、ならないに越したことはない。
直通で3泊4日。どこで途中下車しよう?
地図と地球の歩き方を見てT君と検討する。
その頃の漢民族は一般に、少数民族への偏向がすごかった。
とりわけウイグル人とチベット人に対しては激しく、筆談ノートに「土匪」「野蛮人」と書きなぐられ、ナイフを抜いて首を切るジェスチャーをする。そして絶対日本人は行ってはいけないと、囲まれて何度も止められる。
つい見せた地球の歩き方も、西安までは写真を見て喜んでいるが、新疆ウイグル自治区の部分には舌打ちをする。
85年にはとにかく桂林に行け攻撃に困惑したが、今度は行ってはいけない攻撃だ。
お茶をくれて、ヒマワリの種をくれて、色々教えてくれる親切な人達だが、そこだけは頑としていた。
善意が根っこであっても反対されるのに疲れ、でもそうなりゃ尚更ウイグル自治区に行きたくなる。
T君と相談し、翌朝着く 洛陽 でまず途中下車することにした。
当時の中国は開放されている地区の指定された宿にしか外国人は宿泊できなかったので、石窟の有名な洛陽あたりがちょうどいいと踏んだ。
西安以西に行くのは ダメ!絶対 派の周囲の皆様も、「石窟が見たいから洛陽で降りる」と言うと、安心したようにまた単に親切な人達に戻ってくれた。
朝5時過ぎに「洛陽東だ!」と他の乗客に起こされ、寝ぼけながら駅に降り立った。
チェックインタイムなどなく空いていれば入れてくれたので、寝場所も確保しちょっと寝直して、駅で翌日の列車へ切符の書き替えをしてもらったら、龍門石窟へ行ってみる。
龍門石窟の無数の掘られた洞窟の壁面に、更に無数に掘られた磨崖仏、その一つ一つの顔がイスラム教徒により削り取られていて仰天。(大小10万体とある)
こんなすごい数の仏像を彫るのは気が遠くなるが、これだけの数の顔を破壊する情熱も凄まじい。
しかし写真もないし、記憶も鮮明ではない。
大きな仏像だって頭部は壊されていて、それが修復中だったように記憶しているが、今調べてもどこにもその破壊や修復についての説明が見つからない。盧舎那仏の御尊顔について考察されている記事も多いが、顔は最近付け直したんじゃなかったっけ?
現在の写真を探してみる。


右から2体目のように破壊されていたように思うが
気のせい?

夜の洛陽の屋台が出ている通りでは、羊肉の串焼きをぬるいビールと共にいった。
イーガイーガイーガイーガイーマオチェン(ひとつ ひとつ ひとつ ひとつ1角)
イーガイーマオイーガイーマオイーガイーマオチェン
と、節をつけ串を両手で打ちつけながら男が呼び込みをしていたあの歌を、40年近くたっても思い出す。
洛陽からは、何とか頑張って、硬坐で車中泊2泊して嘉峪関まで乗ってみた。
私の切符はウルムチまでだが、T君のは蘭州まで。しかし西に行くと空いてきて、服務員に尋ねると差額を払って延長できた。大都市を出ると何とかなりうれしい。
嘉峪関も特に思い入れがあったわけではなく、時間や距離的な兼ね合いで決めたが、万里の長城の西の果てなので、これで長城クリア!気分はあった。

こうやって写真を見るときれいだ。
しかし当時は上に登って絶句した。
この風景の中で、広大な周囲の風景を見下ろし、歴史に思いを馳せた人民たちは、皆こう思ったに違いない。
「よし、記念に名前を書きつけよう」
城壁にイタズラ書きが無数になされていた。固いもので削ったりして。うわっ。
そしてこうも思ったに違いない。
「見下ろしながら立ちションしたら気分がいいだろう」
こんなに風通しがいいのに、鼻をつく尿臭に倒れそうだった。
あまり人もいなかったから、こうも思う人もいたに違いない。
「これなら大の方だってできるんじゃないか?」
痕跡を見てしまい絶句………
歴史遺産は高いところにある公共厠所(トイレ)と変わらなかった。
嘉峪関〜トルファンの車中一泊で、鑑真号で一緒だった京都の女の人と偶然再会する。彼女は上海から北京に行ったものの、物足りなくなり、ウルムチまでの寝台を取って乗って来たと言う。
はんなりした京都弁とはかなり違う、その地方の言葉らしい相当キツめの語調の人だった。寝台がありながら、もう乗り飽きたとなぜか私たちのボックスに来て一晩明かすという。夜通し「ウルムチウルムチウルムチ…」と連呼するので、それからT君と私は彼女を「ウルムチねえちゃん」と呼ぶようになった。
彼女は望み通りウルムチまで乗るが、私とT君はトルファンで降りる。
ここで残りの切符は捨てる。
駅で待ち受けていたロバ車に乗り、少年の背中を見ながら、長居するに違いないと思った。

