頂き男子スーシルinコルカタ🇮🇳❶起 ついて行ってみた【20世紀の終わりに旅をするなら#16】
1990年9月 インド カルカッタ(コルカタ)
20世紀、アジア人旅行者と言えば、日本人だった。各地で出会った。
初めて会うのに、なぜか悩みを打ち明けられたり、話しこんだりすることもある。まあ反対に避けたくなる人もいるが。
剥き出し異文化の中で、一人では消化しきれないエピソードに事欠かないし、わざわざ途上国を旅するのは、何か葛藤があったりするものだ。日本人だとちょっとしたニュアンスや背景がわかりやすく、たまたまここで巡り合ったので、損得なく素直に何かを話したくなるのかもしれない。
一方、同じ関わったと言っても、心配すべき状況だった場合もある。
何人か、ちょっと苦い、重めの記憶の残る人がいる。
今回はその中の、まあほろ苦程度のケース
安宿街、サダルストリートのサルベーションアーミーのドミトリーから、いつものようにイースタンレイルウェイの外国人用チケットオフィスまで歩く。
(見出し画像はGoogleマップのストリートビュー まだあるサルベーションアーミーだが、相当値上がり)
苦にしてなかったけれど、地図上2.5Kmの道のりはそれは障害物が多く、オートリクシャーをよけたり、よけ損ねて牛糞のついたサンダルごと道ばたで破裂した水道管から吹き出す水で洗い流す羽目になったり、つけてきている奴を撒いたり、道の穴を乗り越えたり、スナックを売る屋台をのぞいたりするので、随分と時間はかかる。
でも四度目になるので場所はわかっているし、この大都市は大好きだ。
1週間後のバンコク行きのチケットを遂に買った。
今回旅に出て4ヶ月目と、ちょっと短かいけれど、母の病気が再発して入院と電話で聞いた以上、切り上げることに迷いはない。
バンコクへの出発は1週間後。
カルカッタには前日戻るとして、どこかに行く時間はある。そう思い、行き先を初のブッダガヤにした。
インドの都市の鉄道オフィスには外国人専用窓口があり、(その頃の中国と正反対で)優先して正規料金で予約してくれるのだ。
無事翌日夜出発のチケットを手にできた。
次は近くのコルカタのGPOに寄っていこう。

〈GPOについてはこちら↓〉
出入口の階段には多くの人が座っている。絵葉書売りや、ペン売り、バナナ売りの中で、初見では何屋さんかわからないであろう白布と針と糸を持った男達もいる。
小包包み屋さんだ。

この部分が階段
インドのいわゆる小包には決まりがあった。
白(っぽい)布で荷物(多くは箱)をくるみ、ザクザクと縫う。郵便局では縫い目を所々封蝋してくれたりもするのは、大っぴらに荷物が抜かれる事を牽制する意味合いか?でもなんかかっこいい。

白い布で縫い包め 封蝋してある
宛先はシール?
私がカトマンドウで荷物を送った時は、布を買って縫うところまで自分でしてみたが、かなり面倒だ。多くの場合、この布包おじさんに10〜20Rsなり渡してくるんで縫ってもらう。宛先は白布に直接ゴシゴシと書く。というのは油性マーカーみたいなものは身の回りにないから、自分のただでさえインクの出にくいボールペンで布の上に直接宛先やら宛名を書くしかないのだ。
出て来た時、階段で満面の笑みで近づいて来た小柄な男がいた。
一目で外国人相手に何かしようとする人だとわかった。
プッシャー?詐欺師?営業?
どっちにしろ全く必要はないから、とにかくかわそうと思った。
彼が立ちはだかって英語で話しかけてくる。そして、英語や日本語で書かれた小さなノートを差し出す。日本の文字があればそれは見てしまう。
ノートの持ち主はマナさんというらしい。多くの日本人がマナさんについてのコメントを書いている。
「わずかのお金で丁寧に包みを縫ってくれました。マナさんありがとう」
「ずっとぼられっぱなしのインドで初めてこんな真面目に仕事をしてくれる人に会ったよ」
「マナさんは英語はできないけどちゃんとやってくれる。これからもがんばってね」
というお褒めの言葉が続く。
この手のレビューはかなり役立つ。だってしゃべりはうまくても、日本語ちゃんと読めるインド人ほぼいないもん。かなり信憑性高い。
本当に悪質とかだまされてひどい目に合ったとかなら、そもそもそんなノート持てるわけがない。せいぜい老舗のツーリスト用のゲストハウスに「こいつに気をつけろ」とか書き殴られて貼り出されるのがオチ。
マナさんはいい人だろう。
GPO前の地面に麻袋を敷いて朝から晩まで座り、小包を真面目に布で包んで縫い上げて、英語を話せないけど、よれよれの紙に必要なメニューを英語で書いてもらってそれを見せては外国人にも堅実な商売をしている。決して金持ちになれないけど正直さは功徳だ。会った人は気持ちがよく、ぼられて踏んだり蹴ったりだった外国人ツーリストの唯一のいい思い出になれるような。
でも 目の前でそのノートを差し出して笑顔を向けてるケミカルウォッシュデニム男が マナさんとは限らない
この時2回目のインド。その時までインドの滞在はのべ4ヶ月で、比較的似た文化圏のネパール、バングラデシュを足すと7ヶ月以上。で、アジアのバックパッカー歴1年数ヶ月。
という経験を持ち出すまでもなく、こいつはこのノートとは別人であるとわかった。
一つ目 身なりが違う
当時、ジーンズは真面目に働く階級の人にはなしだった。
小包包み職なら、下はルンギーで上はピジャーマか擦り切れたシャツあたりを着ているだろう。
同胞相手の仕事をしているそこらの人は、ホワイトカラーはシャツとビジネス風スラックス、ブルーカラーや職人やくつろぐ時ははルンギーやドーティなどの民族服率が高い。

路上で働く人ってこういう感じ
だって私にとってはちっとも良くはないケミカルウォッシュの👖って、でも当時のインド男性にとってはイケてると自認している証。映画俳優に感化された服を着るということ自体がいわゆる堅気ではない人種。今思うと当時の映画俳優に寄せたヘアスタイル。

なんかアンチも多かった
二つ目
マナさんなら、英語は話さない。話すとしても商売で必要な最低限だろう。だってノートにそう書いてある。
そして外国人を立って待ったりしない。商売道具の布やなんかを携え、地面に座っているに違いない。
こんな風な笑顔は向けない。荷物を持つ客に声をかけることはあっても。
ノートを最後の方まで読んでいったら、誰かが書いたマヌさんの似顔絵があった。イメージした通りで痩せていてインドの人がよくするように布を頭に載っけている。
「マヌさん ありがとう」の言葉と共に。
やっぱり。目の前の彼とは一つも似ていない。
そこでサッとノートは取り上げられた。やばいと思ったのだろう。
試しに
「これはあなたのノート?」
と言ってみると、とうとう頷いた。
ほう、なりすまし確定。
普段ならそれ以上付いて来るのがうるさいので、さっさと去るところだが、そうしなかった。
サリーの店に行かないか、という声掛けをスルーしていたら
「私のガールフレンド、エリコさん(仮名)がいます。エリコさんを是非紹介したい」
と言われたからだ。
「エリコさん」と、「さん」までつけて呼ぶあたり、多分本当に日本人なのだろうか?なぜ私を紹介したいのか?
俄然興味が湧いてしまった。
ついて行くことにした。
GPOを後にする時、彼がさっきのノートを、とあるおじさんの横にあるカゴに後ろ手でポトンと落とすのが見えた。さっきの似顔絵そっくりのおじさんだった。
さようなら、本当の正直マヌさん。
マヌさん、ノートのレンタル料、少しはとってもいいと思う。
サリーのいい店を知っているとかいう話は適当に流して、エリコさんのところに案内してもらう。
エリコさんは、サダルストリートより北部の中級(と言っても当時のインドのレベルは低い)の、とあるホテルの一室にいた。
第一声は互いに
「あっ!」
だった。
だって2週間ほど前、私がいたドミトリーで、彼女に話しかけられたのだ。ヴァラナシ行き列車の切符を買いに行くにはどうしたらいいかと。翌日発のチケットが欲しいのだと。で、イースタンレイルウェイのオフィスの場所を、彼女の持つ地球の歩き方の地図で教えた。
その後私はダージリンとシッキムに行き、カルカッタに戻り、今翌日のガヤ行きのチケットを取ってここにいる。
なぜ、ヴァラナシに行かずここにいるの?
そして横にいるこの男は何?
〈頂き男子スーシル❷承へ続く〉
