‘85夏カフカ的中国旅行⑨九龍に降るルートビア カフカの念押し【20世紀の終わりに旅をするなら#10】
いつも旅の終わりは名残惜しくて日常に戻りたくなくてじたばたする。たとえば帰国便が飛ばなくて数日後の便に振り替えと言われたら、ホイホイご褒美と捉えてしまいそうだ。
事情がある人がいるなら、そっちを優先してくれて構わないと思う。反対に往路が何日か遅れたら泣くけど。
しかし最初の海外である中国旅行だけは、とにかく無事に出国できるようにとだけ願っていた。
なんせカフカの小説に入ってしまったようなのだ。
帰国したいと言っても、「城」のようにどうしても門をくぐれないとか、理由がわからぬまま拘束されかねないような気配がどこか漂う。
その上前の年の夏休み、この旅行の連れと同一人物である元彼に、予想もしなかった沖縄まで船で連れて行かれた末(発着は札幌)続々やってくる台風で西表島に閉じ込められた結果、実習の単位落として留年している。絶対2留は避けなければ。
この時ばかりは、順調な帰国を切に願った。
覚悟に反して中国から出るのは呆気なかった。
広州から香港までは夜行の船内で1泊した。
最低料金の大部屋では夜通しカード賭博の大声が聞こえるらしい。ちょっといい4人部屋にした。相部屋の香港人夫婦は物腰も柔らかく、親切で、大陸で出会った人々とは違う。抜け出したことは明らかだった。
香港に戻ってきた。
わずか1ヶ月しか経っていないのに、初日には摩訶不思議できらびやかだが怖さも含んで圧倒された香港が、お金と欲が通じるわかりやすい資本主義の香りのする安全地帯に思え、安堵でいっぱいになる。
ここまで来ればもうこちらのもの。
異国情緒と旅情はありつつも、表通りさえ歩いていればここでのトラブルはまだ想像のつくものばかり。盗難とか、ぼったくりとか。一生そこを出られないとか、感情が通じなさそうな不穏な空気はない。
まあ闇に堕ちたらヤバそうな雰囲気はあるけど、それは昭和後期の日本にも裏に回れば残っていそうなので、その延長線上。
80年代日本は暗い重たいものから脱却して、明るく軽いものが正義みたいな風潮もあった。そのくせほぼ漂白され尽くした今の日本と違って、裏の部分もあっただろう。しかし表部分に囲まれて育ち、世間知らず故ヤバさの持つ陰影にもどこか惹かれる。
初日の香港はこちら⇩
タイガーバームガーデンへ行く 〜 昆明で会った日本人オススメ

想像してなかったキッチュな地獄極楽世界だった
今になってまた行ってみたくなって調べたら
2000年に完全閉鎖されてた!
スターフェリーで香港島へ渡る 〜 夜景も見る 有名な水上レストランも


21世紀に入り赤字になり新型コロナ禍で閉店
22年曳航中に南シナ海の南沙諸島近くで沈没
栄枯盛衰の事実を知る!
帰りは地下鉄に乗る 〜 トークン買って乗るのか!海底を通るのか!
最後の地元料理も堪能する 〜 地元のおじさんで賑わう街の店で海亀のスープを飲んだ 後に有名な「海亀のスープ」クイズを知るが、他の物含めやたら美味しかった印象しかないので、あの料理人の手にかかれば全ての食材の印象が「うまい」が先に来て、具材の味の違いに気づけないかも、と思った。
普通の観光客っぽいことが楽しかった。
当時中国本土で一人も見なかった肥満児もいる。ほぼいなかった眼鏡の人も、バッチリメイクの人も香港にはたくさんいた。というか日本より多い。
ドラッグストア屈臣氏(Watson’s)には商品が溢れて眩しく、立ち並ぶ高層ビルを背景に南国らしい公園も都会的。

さて、思えば初めての海外での一泊目、香港の宿 Fuji Hotel は、HISで往復航空券と広州までの片道列車の切符と中国ビザと共についていたのだ。
機内で初めて聞き、HIS香港オフィスでも出てきた固有名詞
重慶大厦(Chungking Mansions)
をおずおずと外から眺め、「戻って来たら本当にこんなところに泊まるわけ?」と、怖くもあった。
ターバンを巻いたインド人門番に、出入りするアフリカ系の背の高い男性たち。それまで周りにいない人達が物慣れた様子で吸い込まれていく猥雑なビル。
しかし中国で1ヶ月過ごせば、もう怖さは感じなくなっていた。ビル前の客引きしている人と交渉し、部屋を見せてもらう。(まあ連れにやってもらったが)
最初の部屋は窓がなくあまりに狭く、渋って小さいが窓の付いている少しマシな部屋に決めた。狭くてキレイとは言いがたくても、ちゃんと水洗トイレとシャワーがある。
客引き 料金交渉
こういうものは鬱陶しく面倒臭い反面、中国本土で あっても「没有(ない)」と威丈高にシャットアウトされる危険にヒヤヒヤした後だと、資本主義の健全な姿のような気さえする。
おいしいものに、ホットシャワーのあることに心底安心し、それでいて好奇心くすぐる香港には是非また来てもっともっと色々見てみたいと思った。
香港最後の夜を散歩する。
初日は好奇心で妙な甘い漢方茶に手を出して痛い目にあったが、知らない物への興味が抑えきれない。
あ、Fanta だ。お馴染みのFantaだから漢方茶程手に負えないことなどないだろう。
そう思ってその時初めて見た ルートビア を自分用に買い、飲んでみた。

ぐわっ
マズい
ルートビア好きな人には申し訳ないけど、私はてんでダメだった。
よく考えると当時オレンジとかグレープの普通のFantaだって、チカチカして350mlも飲めないのだ。ドクターペッパーも 北海道のご当地炭酸ドリンク ガラナ も、それ系苦手なのだ。
連れに「味見してみて」と渡すが本当に一口で「マズっ」と突き返される。「なぜわざわざ冒険をして変な物に手を出すのか?」と笑われた。そうなると「いや、飲んでいくうちに好きになってきたかも」とかなぜか強がり、缶を片手に九龍散歩を続けた。
当然部屋に戻っても全然減らないルートビアだが、不必要に強がりモードになりおいしく飲んでる風を装い続ける。そして連れがシャワーに入ってる隙に部屋の小さな窓をこじ開けて、中身を外に捨てた。ビルとビルの狭い隙間に高層階からルートビアを降らせてしまった。マナー違反だが、チラリと下を見るとゴミだらけでいけるとふんだ。ごめんなさい。
缶だけはお土産に大事に持ち帰り、長らくペンスタンドとして使った。
帰ってから後々まで友達に何度も蒸し返された事がある。
札幌に戻ってすぐに会った友達が言うには
「中国どうだった?話聞かせて」
と言うと、私がぼんやりしながら
「私、今外でしろと言われたら用を足せるのかな?できちゃうかも。それぐらい過酷だった」
と答えたらしいのだ。
今外で?できちゃう?
もう一体何を言い出すやら。
その前にも東京では連れの実家に泊めてもらったのだが
「この1ヶ月で今までの人生(当時は20年程だが)で見たよりずっと多くの他人のブツを見てしまい、本当にイヤだった」
と口々に訴えてしまった。
初の海外旅行の感想を期待した人としては、いきなり下系のディープな第一声にさぞ面くらっただろう。でも口をついて出た正直な感情だった。
その後印象的だった「広州のすし詰めバス大揺れ時の 自分以外全員の アイヤー 合唱」と「昆明屋台のぬるくてまずい物食べ歩きの翌日初めてのお腹崩壊&穴だけトイレでの毒々しいハンミョウの交尾」については話したに違いない。なぜなら相手の口あんぐりした表情を覚えているからだ。
そして、あってもないと言い、日常会話は舞台俳優並みの声で喧嘩としか思えず、どこにいても5秒に1回は誰かが痰を床に吐き、バスでは座っていても天井に頭をぶつけ、食べ物にハエが入っていてもせいぜいそこだけ取ってくれるだけとも。
土産話としてされるには強烈だったろう。
一通り話した後の友人やそれぞれの家族の反応がまるで同じだったのだ。
開口一番とんでもない、聞きたくもない突飛で不快な話に終始しただろう聞き手は、困惑したに違いない。
そして皆こう言ったのだ。
「でも…でも… 人はいいんでしょう?」
そうだった。当時多くの日本人は中国と聞くと無条件にこのフレーズを頭に浮かべて静かに微笑む人々に憧れていたのだ。
悠久の大地に笑顔の国民
でも帰国したての私と連れは顔を見合わせ、つい
「人は…悪い」
と答えてしまった。
冷静に考えれば、南寧までの船中で言葉を教えてくれたり、車内でさかんに食べ物をくれたり、笑顔で親切にしてくれた人はたくさんいる。いい人だったと思う。けれどそれと「人が良かった」というのは一致しないのだ。乗車の際にはね飛ばされたり、誰かを押しのけて手にした物をどうぞと言われたり、善意でも無用の物を強要されるのが続くと、人がいいと思う自信がない。
しかしそう言うと皆困惑して口々に「とは言ってもいい人も多かったでしょう?」とか「日本も昔は大変だったから、今の人はそう思うかもしれないけど」「親戚の〇〇さんが行ったツアーではとにかく人が良かったって」のように取りなしにかかる。
それはそうなのだ。でもあの人々によってもたらされる変な感じがどうしても伝わらない。
かくして85年当時、実際にあったことや感じたことを、日本ではわかってもらえない、という状況に、多くの人に「そんな筈ないよね」と言われることに、カフカ的世界の念押しされてるような気分だった。
恨むぞ、NHK シルクロード
その2年後には中国から長期旅行をスタートし、何度も関わることになるとは、思いもしなかった…
