正しさの居場所|『 畑の境目 』
村の外れに、少し変わった畑があった。
管理しているのは、一人の男だった。
男の名前はロク。
ロクは毎朝、畑へ来る。
けれど…あまり収穫をしない。
雑草を見つけても、すぐには抜かなかった。曲がった苗があっても……
支柱を立てるとは限らない。
隣の畑の主人からは、ときどき言われる。
「ちゃんと管理してるのか?」
ロクは畑を眺めて答える。
「してますよ」
「雑草だらけじゃないか」
「ええ」
「なら抜けよ」
「もう少し見てからにします」
隣人は呆れて帰っていく。
ロクには、雑草なのかどうか分からないものを、雑草という名前だけで抜いてしまう癖がなかった。
だから、しばらく置いておく。
すると……ときどき妙なことが起きた。
雑草だと思っていたものに、小さな花が咲く。
枯れたと思っていた枝から、新しい芽が出る。
逆に…大切に育てていた苗が、ある日あっさり倒れていることもあった。
畑というものは、人間が付けた名前ほど素直ではなかった。
ある日、畑に役人が来た。
彼は一本のペンを持っていた。
ナルニと名乗った。
「この畑でタンポポを育ててもいいですか?」
ロクは尋ねた。
「育てたいのは花ですか?
それとも種ですか?」
ナルニは黙った。
「……育てる前から決めるんですか?」
「最近、その辺りが重要らしいので」
「じゃあ、食用としては駄目ですか?」
ロクは少し考えた。
「危険な思想ですね」
ナルニは帰った。
翌日、同じ場所からタンポポの芽が出た。
しかし、ロクは抜かなかった。
別の日。
泥だらけの何かが、畑へ入ってきた。
足跡を残しながら畝と畝の間を歩いていく。
ロクは嫌だった。
昨日洗ったばかりの長靴にも、泥が跳ねた。
「うわ……」
ロクは逃げた。
泥だらけの何かも追ってきた。
ロクはもっと逃げた。
畑を一周して、二周して、三周したところで、相手はいなくなった。
息を切らしながら戻ると、畑のあちこちに足跡が残っていた。
消そうと思った。
けれど、ロクは鍬を持ったまま止まった。
泥は嫌だった。
足跡も邪魔だった。
だからといって……来なければよかったとは、なぜか思えなかった。
ロクはその日、足跡を残したまま帰った。
翌朝には雨が降って、ほとんど消えていた。
それでもロクは、どこを歩いたのか覚えていた。
夏になると、一人の老人が畑の前を通った。
老人は立ち止まり、まだ青い実を眺めた。
「もうすぐですか?」
ロクが言うと、老人は笑った。
「もうすぐとやら……だな」
「とやら?」
「うん」
それ以上、老人は説明しなかった。
帰り際、ゆっくり歩きながら言った。
「まあ、ぼつぼつ行くよ」
ロクは、その背中を長く眺めていた。
何を信じているのかは…分からなかった。
どこへ向かっているのかも…聞かなかった。
ただ、
「ぼつぼつ」という言葉だけが、その日の畑に残った。
秋。
一本の苗が、完全に枯れた。
ロクは失敗したと思った。
肥料が悪かったのかもしれない。
水が少なかったのかもしれない。
管理方法を間違えたのかもしれない。
そこへ、知らない男がやってきた。
彼はジルと名乗ってから言葉を続けた。
「おめでとうございます」
「何がです?」
「枯れたということは、
それだけ成長しようとした証拠です」
「そうなんですか?」
「あなたには才能があります」
畑の男は枯れた苗を見る。
なんとなく、そんな気もしてきた。
「では……
この枯れた苗を十万円で買いませんか?」
「帰ってください」
ジルは帰っていった。
ロクは、もう一度……枯れた苗を見る。
失敗は、失敗なのだろう。
けれど、失敗と呼んだところで、この苗がここで過ごした時間までなくなるわけではない。
だから抜かずに、その日は置いておいた。
翌朝。
枯れた苗の根元から、小さな草が生えていた。苗が蘇ったわけではない。別の草だった。
ロクは笑った。
「お前かよ」
それも抜かなかった。
冬が近づく頃には、畑はずいぶん奇妙な姿になっていた。
タンポポ。
キンセンカ。
枯れた苗。
泥の跡。
勝手に生えてきた草。
誰かが置いていったペン。
そして、畑の中央には、なぜか一本だけ立派な大根が立っていた。統一感などなかった。
隣人がまたやってきた。
「結局、何を育てている畑なんだ?」
ロクは答えようとした。
野菜畑………違う気がした。
花畑………それも違う。
実験農園……そんな立派なものでもない。
「……分かりません」
隣人は笑った。
「管理人なのに?」
「ええ」
ロクも笑った。
その日の夕方。
ロクは畑の周囲に、小さな柵を作った。
しかし、全部を囲わなかった。
東側には入口を残した。
隣人が尋ねる。
「動物が入るぞ」
「そうですね」
「だったら閉じろよ」
ロクは杭を一本持ったまま、入口を見る。
閉じれば、守れるものがある。
でも、閉じれば、入ってこられなくなるものもある。泥だらけの何かも……役人も。そして、名前の分からない種も。
「何を入れて、何を入れないんだ?」
隣人が聞いた。
男はしばらく考えた。
「それを、まだ見てるところです」
「いつ決める?」
「必要になったら」
隣人は、今度は何も言わなかった。
冬。
畑には何もないように見えた。
ロクは畝の間に座った。
今年、自分が何を育てたのかを考える。
たくさん枯れた。
いくつか実った。
勝手に生えた。
逃げたこともあった。
笑ったこともあった。
意味の分からないものも、まだ残っている。
それらを整理すれば、もっと綺麗な畑になるのだろう。
不要なものを抜いて。
種類ごとに分けて。
境界線を引いて。
名前を書いた札を立てればいい。
……けれどロクは、それをしなかった。
土の上には、何も書かれていない小さな札が何本か立っていた。
春になって何かが生えてきたら、そのとき考えるつもりだった。
翌朝。
畑へ行くと、入口に誰かがいた。
例の役人だった。
ペンがなくなっている。
「ペンは?」
「今日は休暇です」
「そうですか」
役人は頷いた。
ロクは何も聞かなかった。
役人は畑へ入り、春を待つ土の前にしゃがんだ。
二人で眺める。
まだ、何も生えていない。
だからこそ……
何が生えてくるのかに興味が尽きない。
ロクは思った。
自分は、この畑を完成させるために管理しているのではないのかもしれない。
育てるためだけでもない。
収穫するためだけでもない。
何かが現れたとき……
それをすぐに名前で囲わず、少しだけ眺めていられる場所を残している。
それが管理なのか、放置なのか。
ロクには、まだ分からない。
しばらくすると役人が言った。
「何か生えてきましたよ」
ロクは土を見る。
本当に、小さな芽が出ていた。
「何ですか?」
「分かりません」
「抜きます?」
ロクは首を横に振った。
「もう少し、見てみましょう」
二人の前で名前のない芽が、まだ冷たい土を少しだけ押し上げていた。
