【30分で読める】小説Vol.2『少年と烏』 決めた!僕はダムに飛び込む!
【少年と烏】
時折烏が鳴く明け方のことである。
堤防に座り込んでいる少年は目の前に広がる山間の人造湖を詰まらなそうにじっと見つめていた。彼が持っている荷物は小さなウエストバッグ一つ。こんな大自然の中を何時間も電車に乗って訪れた人間としてはいささかその軽装備が目立っている。
少年は好物のクッキーを齧りながら人造湖の見えるはずもない底を想像した。
どこからか鶲の囀りが聞こえ、人造湖では鴨の親子が列を成して泳いでおり、その水面では時々大きな魚がうねりを上げている。
かつてこの人造湖の底に賑やかな町並みがあった過去を知る人は少ないだろう、と少年は思った。ここは三年前に完成したダムであり、今ではバス釣りの名地となっている。
「おう兄ちゃん。さっきからずっとこの湖を眺めているよな」
と、何人かの釣り人に声をかけられたものの、少年は全て愛想笑いで返し、釣り人達が遠くの岸まで向かうのをじっと待つ。
よし、丁度良い頃合いだな。
少年は堤防の坂を下っていき、間近で底の見えない水面を見つめた。どうせ死ぬなら僕一人で誰にも気付かれずにこの場所で死んでやる。少年の脳裏に真っ赤な記憶が蘇る。父さんも死んだ、母さんも死んだ、爺ちゃんも婆ちゃんも死んだ。友達も死んだ。みんな高速道路の崩壊したトンネルの下敷きになって死んでしまった。僕だけが生き残ってしまった。……将来の夢の無い現実……迫られる進路先……誰も隣にいない毎日……これで嫌な現実とおさらばだ。
記憶こそは微塵も無いが、自分はかつてこの湖底にあった町で生まれ育ち、小学校時代までの時間を過ごしたらしい。記憶が残っていないのに『ここで生まれ育った』という事実を聞かされただけで人はここまで場所に愛着が湧いてしまうのか。と、少年は死ぬ前でありながら不思議に思った。
……じゃ、行ってきます。
「おい。何をやっているんだ」
と、誰かが少年を制す。
「え?誰?」
と、少年がふと水面を見てみると、自分の真横に一羽の烏が止まったのが映って見えた。烏も少年と同じように水面を見つめている。
烏は草臥くたびれた声で少年に問いかける。「ここに何をしに来た?」
少年は烏を睨みつける。「お前に関係ないだろ?」
「おい。ちょっと待て」
と、烏は堤防の坂を下っていく少年を呼び止めた。「お前、もしかして、ここで死のうとしているんじゃないのか?」
「そうだ」と少年が答える。
「何故だ?」と烏は問いかける。
少年は答える。
「大切な人達がみんな死んだ。僕もその後を追いたいんだ」
と、少年はさっぱりと答えた。
「そうか。そうか」と烏は頷く素振りを見せる。「じゃあ、死ねよ」
突然突き放すように烏が放ったその言葉に少年は驚いた。あれ? どうして僕はこんなにも焦っているのだろうか? 僕は死んでしまいたい。だから、本当なら喜んでもいいはずなのに……。この感情の揺らぎは一体何なのだろう? 僕は一体何を考えているのだろう? 分からない。僕は……。
数分間、人造湖のほとりで沈黙が重い霧のように流れる。
やがて少年は顔を顰め、烏を激しく睨みつけた。「……は? 何だよ? 烏の分際で偉そうに僕に自殺を促させやがって……。お願いだから僕一人にさせてくれ。そうでないと死ににくいだろ?」
「何故そんなに怒る必要がある? もしかしてお前は俺から下手な慰めの言葉でも聞きたかったのか?」
と、烏は少年の崩れていく表情を見つめながら言った。「言っておくが俺にだって抱いている傷はある。でも俺に死ぬ気はない。お前の傷と秤にかけたらどっちが重い傷なのかも興味がない」
少年は目の前の草臥れた様子の烏をじっと見つめた。風が吹けば倒れてしまいそうなほどに弱々しいが、それが抱く心からは鋼の如き凄まじさを感じさせられた。
やがて世界は一人と一羽を置き去りにして一定に時間を進めていく。山の向こうからは朝日が昇り始め、次第に輝きを増していった。
そしてどれくらい時間が経っただろうか。不思議と彼の『傷』が気になった少年は苛立ちを表情に残しつつ、くぐもった声で烏に問いかける。「……なあ、お前の傷ってどんな傷なんだよ? 僕の傷より深いのかい? 浅いのかい?」
烏は黒い目で少年を見た。「それを知りたいのか? 少年」
朝日がゆっくり昇り続ける中、少年はそっと頷いた。「僕は翔次。君は?」
「炭丸まるだ。人間からすれば変な名前だがな」
烏はそう名乗ると自身の傷ができた経緯について話し始めた。
【はじめに】

風がよく吹くこの東国の森に、その烏はいたといいます。
記憶が曖昧な私が語れるその烏の話は数ある内のほんの一握りです。しかし、一つ一つの話を縫合してみたら一つの物語として纏めることができたのでここで皆さんにもお話しようと思います。
【冬のお話】

ハシブトガラスの炭丸はいつも森の中を見回っており、鳥達が何かおかしなことをすれば正直に指摘をしていました。それが彼に与えられた森を指導するリーダーとしての仕事だったのです。
炭丸にとって、とても充実感の味わえる仕事でしたが、やっていく上で言語化のできない違和感を彼は感じていました。その違和感は長年開けることのできない箱のイメージとして、彼の中で気味悪く残り続けていたのです。
一晩中雪が降り積り、森中が銀世界となった朝の出来事。炭丸は息を白くしながら森の中を旋回していると、ノガンという体格のがっちりした鳥が除雪作業をすると同時に森のゴミ捨て場の設備を片付けているのが見えました。働き者として有名な岩哲です。
彼は今何の作業をしているのだろう?
それが気になった炭丸は、雪に覆われた杉の枝先に舞い降りると、挨拶ついでに岩哲に訊きます。
「岩哲、お前は何をしているんだ? 一見するとゴミ捨て場をこの森から無くそうとしているように見えるのだが」
岩哲は顔を顰めて答えます。
「その通り、俺はゴミ捨て場をここから無くそうとしているんだ。というのも、森に住む鳥達のゴミ捨て場の使い方が酷すぎるんだ。ろくに分別もしないし、ゴミが箱の中に入り切らなくなると適当に地面に捨てやがる。そうしてゴミ捨て場が汚くなればツキノワグマやらハクビシンやらがゴミを漁りにやってくる。これではゴミ捨て場の意味がないし、どう考えてもこの現状じゃ設備ごと回収せざるを得ないぞ」
「ほう。それはお前の仲間も賛同した上での手段なのだね?」
「そうだ。問題は無いだろう?」
炭丸は岩哲のその言葉に頷くと、確認をすべく岩哲の仲間である広太郎というキジバトのところまで飛んで行きます。
炭丸が辿り着いた時、広太郎は丸みを帯びた体を精一杯動かして、雪と落ち葉を掘り返している真最中でした。きっと餌を探しているのでしょう。広太郎は炭丸の存在に気が付くとにこやかに会釈します。「あぁ、炭丸さん。今日もお勤めご苦労様です」
「広太郎、先ほど岩哲がゴミ捨て場の設備を片付けているのを見たぞ。あれにはどういった意図があるんだ?」
「あぁ、あれですね」
広太郎は岩哲と同じ様に顔を顰めてからそれに答えます。「あれは岩哲と俺等おいらで話し合って決めたのです。森のゴミ捨て場の使われ方があまりにも酷すぎて獣達が漁りに来るものだから一旦設備ごと片付けよう、と。ゴミ捨て場そのものを一旦無くせば森のみんながゴミ捨て場のありがたみを理解できると同時に、これからゴミ捨て場をどう使おうかを考える機会を与えることができます。なので、どうかこの考えは通していただけないでしょうか?」
炭丸は広太郎の穏やかな物腰の説明に深く頷きます。
「確かに筋が通っている。その考えは通そう」
こうして森のゴミ捨て場は回収され、一ヶ月が経ちました。しかし、一向にゴミ捨て場が戻る気配がありません。
オオアカゲラの婦人の美智子は代表者として炭丸のところまで相談にやってきました。
「ちょっとどういうことなんですか? いくら私達の使い方が酷いからという理由でゴミ捨て場を片付けられても、家で捨てられるゴミの量は限られます。このままだと私達啄木鳥きつつきは木屑を楽に捨てられないじゃないですか」
炭丸は最後まで嫌な顔一つせずに美智子の言い分を訊き終えると、「うん、分かった。俺に任せておけ」と言って岩哲のところまで飛んで行きました。
岩哲は机に向かって森の新しい設備の計画を練っている最中でした。
炭丸はドアをノックして中に入ると岩哲に向かって問いかけます。
「おい岩哲、どういうことだ? いつまで経ってもゴミ捨て場の設備が戻らないじゃないか」
炭丸を出迎え、最初こそ上機嫌だった岩哲は不機嫌を露わにして彼を睨みつけます。
「炭丸、お前は何を言っているんだ? あれほど酷い使われ方をしたゴミ捨て場だ。戻せるわけがないだろ?」
炭丸は岩哲のその言葉に首を傾げました。「ん? どういうことだ? お前の同僚の広太郎はこう言っていたぞ。森のみんなにゴミ捨て場をどう使おうかを考えさせる目的で一旦ゴミ捨て場を回収した、と」
「何だと? そんな話は聞いていないぞ!」
と、岩哲は炭丸を怒鳴りつけると、彼を外に追い出してしまいました。
「はて困った」と、玄関前で途方に暮れた炭丸は、明日森の集会を開いて、岩哲と広太郎にゴミ捨て場を回収したことに関する説明をしてもらおうと決めました。
当日、集会の場所は寒さを考慮して森に設置してある広いかまくらの中で行われました。森中の鳥達が十分に入り切る広さです。
「岩哲、広太郎。ゴミ捨て場の回収の件についてお前達二羽の意見が大きく食い違っている。一体どういうことなのかそれぞれ説明してもらおうか」
と、炭丸は森の鳥達を前にしている二羽に向かって言います。
最初に岩哲が座布団から立ち上がり、説明を始めました。
「あまりにもゴミ捨て場の使われ方が酷過ぎたのだ。ツキノワグマやハクビシンなどの猛獣が寄ってくるほど危険な状態になっていた。だから俺が回収した。それの何が問題なんだ? ゴミ捨て場が無くなったからと言ってゴミが捨てられなくなったわけではないだろ?」
広太郎はそんな話は聞いていないですよ?
と言いたげに隣の岩哲の顔を見ます。その顔は驚きと悲しみに溢れていました。
岩哲が説明を終えると、広太郎は静かに立ち上がって説明をします。
「俺等も岩哲と同じ様にゴミ捨て場の使われ方の酷さには絶望していたのです。だから一旦ゴミ捨て場そのものを回収し、ゴミ捨て場をこれからどう使うべきかを森のみんなに考えてもらいたかったのですよ。しかし、岩哲さんのゴミ捨て場を永久に無くす考えには俺等も驚きました。打ち合わせの時にそんな話は一度も聞きませんでしたので。……岩哲さんあのね、何かを実行する時にしっかりと自分の意図を提示してくださらないと俺等も困るんですよ」
そうだ。と、野次を飛ばす鳥達が何羽かいたようでした。なんて風通しの悪い連携だ。と、怒りの声を上げる鳥もいます。
二羽による説明が終わると、それを聞き終えた鳥達は厳しく意見を述べていきます。それらは広太郎に味方する意見で溢れており、特に炭丸の発言は岩哲への批判を更に加速させます。
「岩哲。お前のその強引な方法は根本的な解決を招かない。まずは何故ゴミ捨て場が酷い使われ方をされるようになってしまったのか?という疑問を抱いて鳥達みんなの心に寄り添うのが大切だと俺は思うぞ?」
森の鳥達による批判の意見を浴び続けたことで岩哲はすっかり折れた様子です。
そんな彼がゴミ捨て場の設備を元々あった場所に戻すことを決定するかたちで森の集会は幕を閉じました。勿論、ゴミ捨て場を綺麗に使う条件があっての決定です。
ゴミ捨て場が戻ることに歓喜の声を上げてかまくらから飛び立っていく鳥達をよそに、岩哲は暗い様子で座布団に座り込んでしまいました。
自業自得だな。
と、炭丸は心の中で呟きましたが、慌ててそれを呟いた自分を責めました。自分はこの森のリーダーだ。一羽一羽に対してベストな態度を取らなければならない。
炭丸は一旦深呼吸をしてから岩哲に話しかけます。
「おい岩哲。その正義感の強さはお前の美点だが、今回はそれが災いしてみんなへの八つ当たりになってしまったな。幸いここにはもう誰も残っていない。何か抱え込んでいるものがあるなら好きなだけ俺に向かって吐き出してしまえ。お前は本当はいい奴だ。関係を疎かにしたくない」
「黙れ。失せろ!」
岩哲はそんな炭丸の救いの手を振り払うと、雪の降り積もる森の奥深くへ飛んで行ってしまいました。炭丸はそんな岩哲の後ろ姿をじっと見つめ続けることしかできませんでした。
ああなってしまった岩哲は、ひたすら自分の中で考えを巡らせて自分の思想を大きく見直せているということを炭丸は経験上よく理解していたのです。
「やれやれ。困ったものだな。でもまぁ、一羽でじっくり考えたまえ」
と、炭丸は岩哲が入って行った森に向かってそう言うと、自分の家へ向かいました。
ちなみに炭丸が自分の家へ向かったのは単に帰宅するためではありません。
……過去の記憶が炭丸の中で木霊していきます。
これは丁度一年前の冬のお話です。
まだ雪の降り積もっていない寒々とした森の中。岩哲は一羽で大きな岩の上に座り込み、向こうの山を見上げているのでした。
それを心配した炭丸は彼の理解者であるヒレンジャクの裕子の家に寄り、彼女に尋ねます。「おい、岩哲の奴はまた誰かと口喧嘩をしたのか?」
ヒレンジャクの裕子はそれがいつものことだと言いたげに、冠羽を震わせて笑いました。「炭丸さん、別に心配しなくていいですよ。岩哲君は誰かと口論になって拗ねると、毎回ああやって一羽の時間を作って自分を見つめ直すようにしているんです。だから、そっと見守ってあげるだけで大丈夫だと思いますよ?」
「そうだったか。それを聞いて安心した。わざわざありがとう」
炭丸はそう言って裕子の家を出ようとした時、彼女に呼び止められました。「炭丸さん、よかったらこれを持っていって下さい」
炭丸は裕子から大量の木の実の入った袋を貰います。
「裕子さん、これは何の実だ?」
「宿木の実です。昔この森では、仲直りをする相手にそれを渡す風習があったんだそうです。それはいつか炭丸さんの役に立つと思います。—————あ、私は沢山持っているので大丈夫ですよ」
「ありがとう」
……かまくらを出発して家に到着した炭丸は引き出しの中から宿木の実の入った袋を見つけ出すことができました。「あった! これだ」
彼はそれを嘴に咥えると、外に向かって飛んでいきました。
その後、このゴミ捨て場の騒動は幸せな笑い話として森中の誰もが語れるようになったそうなのです。
え? 炭丸は宿木の実を誰に渡したのかって?
それは言うまでもないと私は考えます。
【春のお話に続く】
「なるほど。みんな君のことが大好きだったみたいだ。今の僕なんかと違って」
翔次はそう言うと人造湖の畔に座り込み、湖全体を見渡した。かつて町が広がっていたこの場所でそんな鳥達だけのドラマがあったなんて驚きだ。自然が豊かな町だったと耳にしたことがあるので森の一つや二つがあったとしてもおかしくはないだろう。
翔次はふと炭丸を見てから言った。
「その物語の中で、やがて炭丸は大きな傷を負うことになるのでしょう?それは物語を楽しんでいる側として正直信じたくないね。君にはずっと幸せでいて欲しいよ」
「そう思うだろう?でも、現実なんてそんなものさ。楽しい時間を通り越せば選択の試練がやってくる」
と、炭丸は空笑いをしながら言った。
翔次はその曖昧な表現に首を傾げる。まるで今まですらすらと解けていたテスト問題の中から急に難しい問題に直面してしまったかのように。「……えっと、選択の試練?つまり、地獄が来るってこと?」
「そうじゃない」
炭丸は冷静に言った。「何かを決断しなければならない局面のことだ。それが極楽浄土なのか地獄なのかは自分次第。そこに当たりくじも外れくじも無い」
「ふうん」と翔次は考える素振りを見せてから言った。「なんだか君と話していると話の続きがもっと聞きたくなってきたよ」
「そうか。では望み通り聞かせてやる。翔次」
【春のお話】

ハルゼミの鳴き声が心地良い春の到来を告げる中、その光景はとても場違いのように感じます。
「また山介の奴か」
炭丸は大量の桜の花弁が乱暴に散らばっているのを確認すると、ため息を吐いて花弁の無い桜の木に寄り掛かり、ぐったりとました。一体どうすればいいものか。今は他の案件で忙しいというのに。
炭丸がふと見ると他にも花弁を失った桜の木が何本もあることに気付きました。
「僕達、とても困っているんだ。炭丸さんならあいつを説得できるでしょ?」
と、ウグイスの道彦は森の鳥達の中でも特につぶらな瞳で炭丸に助けを求めます。どうやら最近森にやってきたワカケホンセイインコの山介が桜の花弁を好き放題に食べているせいで、ウグイス達が営む花見業の経営が逼迫しているというのです。
「よし、分かった。俺に任せておけ」
ウグイスの道彦から一通り事情を聞いた炭丸は過労でよろめきながらそう言うと、とある鳥の元へ寄り道をしてから山介の家まで飛んで行きました。炭丸の頭の中にはこの件をスムーズに解決できるシナリオがいつの間にか完成していたのです。
山介の家に到着した炭丸がドアをノックして中に入ると、山介は真っ赤な嘴で今日も大量に収穫してきた桜の花弁を美味しそうに食べているのでした。食べかすが床に散乱しており、見ているだけで中に入るのも気が引けるほどです。
「おい山介」
と、炭丸は山介を睨みつけます。「いい加減桜の花弁を勝手に食べるのは止めないか」
「ん? 何で?」
と、山介は何がいけないのか理解していない様子で炭丸を見つめます。「この森では個鳥の自由が尊重されているんでしょう? だったら僕も桜の花弁を好きに食べたっていいじゃん」
嘴で顔面を突きたい衝動に駆られるほど面倒な奴だ。と炭丸は思いましたが、慌ててそんな自分を制しました。
山介は目の前に炭丸がいることを気にせずに呑気に食事を再会するのですが、炭丸の表情からは不思議と不機嫌さが綺麗に無くなっていくではありませんか。
「そうか。山介、そこまでお前が態度を改めないのならこっちにも考えがあるぞ?」
「何? 周りに迷惑をかけない紳士の自由とか説教垂れるつもり?」
と、山介は呑気な様子で言いますが、炭丸は勝ち誇った表情で彼を見つめています。
「いや、そうじゃない。今回俺はお前の教育係をつけることにした。俺からの愛ある対応だぞ。ありがたく思いたまえ」
「教育係?」
と、初めて表情を顰めた山介は、戸口に自分の倍以上の大きさの鳥が立っていることに気が付きます。これは何か嫌な予感がする。
「では、篤あつしさん。よろしくお願いします。何か進展があれば俺に報告して下さい」
「おう、分かったぜ。炭丸さんも大変だな」
オオタカの篤は飛び去っていく炭丸を見送ると、その強面に似合わない柔和な笑顔で山介を見下ろします。
「なんだ、篤さんか。久ぶり。教育係だって炭丸さんが言っていたけど、どんな教育をしに来てくれたの?」
と山介は安心した様子でオオタカの篤に話しかけます。篤は山介がこの森に引っ越す際に荷物を運ぶなどをして手伝った引越し屋なのでした。
「仕事の遠征が終わって久しぶりにこの森に帰ってくることができたんだ。……今日は山介の教育をするというより、報告があって来たんだ」
と篤は笑いかけながら言います。「まずはこれを見てくれよ」
山介は篤から差し出された箱の中身を見てみます。それは山介が家の倉庫に保管している桜の花弁を入れた箱なのですが、中身はかなり虫に食われているようでした。
「何これ」
と、山介は顔を顰めました。「ふざけているでしょ。僕が大事にしてきた桜の花弁をこんなにもむしゃむしゃ食べやがるなんて。……篤さん、報告してくれてありがとう。こんなことをしやがる虫達なんてとっとと絶滅しちゃえばいいんだ」
「でも、それがお前のやってきたことだろ?」
篤の放ったその言葉でその家は時が止まったかのように静まり返りました。聞こえる音といえば時計の秒針の音だけです。
山介は自分が何を言われたのか分からない様子でポカンと嘴を開けています。
「残念な報告がもう一つある」
と、篤は切り出します。「来年はもう桜の花見ができなくなるかもしれない。どっかの誰かさんが好き放題食べてくれたおかげでな。ウグイスの道彦から事情を聞いてきたぞ。本当に苦労する羽目になってしまったらしい。……あの桜の並木は道彦の家系が先祖代々長い年月を掛けてやっと購入したものだ。しかも、それを使った花見事業だって客が来るまでに一〇年近くかかったらしい。客が来るようになった後だって貧乏続きで従業員には自費から捻り出した激安の給料でわざわざ働いてもらったり、時には多額の借金も背負わざるを得なかったそうだ。山介、俺が何を言おうとしているのか。それが分からないほどお前は馬鹿じゃないよな?」
「……うん」
山介はゆっくり頷き、床をじっと見つめています。しかし、彼が本当に見つめているのは床ではありませんでした。
それから一時間が経過した後のことです。
「本当にごめんなさい……」
森で一番大きい桜の木の下で、山介はウグイスの道彦を前にして地に頭を付けました。「……許して貰えるなんて思っていないよ。でも、どうしてもあなたに謝りたくて……」
「……顔を上げて。もう良いんだよ」
と、道彦は言い、山介を立たせます。「僕達ウグイスの寿命はどんなに長くても八年なんだ。八年だよ? 桜の並木を購入するまでに二〇年。客が来るようになるまで九年。それから今に至るまで八年。僕の一族は三六年もの時間を使って花見事業を育ててきたんだ」
山介はじっと黙っています。
「山介君。僕も大人じゃなくてごめんね。君がどんなに謝ろうと、僕達はそれを受け入れることはできない」
道彦はキッパリそう言うと、森の奥深くへと飛んで行ってしまいました。
春一番が吹き乱れる中、一羽は花弁のない桜の並木を眺め、自分が今まで歩んできた足跡がいかに醜いものであるのかを深く後悔することとなったのです。
【夏のお話に続く】
「翔次、この話を聞いて正直どう思った?」
「……重い話だった」
あ、感想はこれだけじゃないよ。僕も遠い昔に山介と似ている人物に頭を抱えていた気がするんだ。だからどこか懐かしい気持ちになれたよ。と翔次は付け加えた。既に朝日は上り、今日の天気が快晴であることを証明していた。
それを聞いた炭丸は人造湖を見つめ、考える素振りを見せてから翔次に問いかける。「そうか。翔次も遠い昔に俺と似た経験をしていたんだな。その経験談を是非とも俺に聞かせてくれないか?」
「ごめん。昔の記憶は本当に覚えていなくて……」
翔次は申し訳なさそうに言った。
彼の落ち込んだ様子に危機感を感じ取った炭丸は慎重に言葉を選びながら切り出した。「お前はそれを思い出したいのか?」
「うん。思い出したい」
「そうか……では一体どうすれば翔次はそれを思い出すことができるのだろうか?」
「多分、炭丸のお話を聞き続ければ思い出せる……。そんな気がする」
「なるほど。もしそうなのなら、お前が十二分にいい方向へ向かっている証拠じゃないか。おそらく昔の俺と昔のお前は共通点が多いのだろう。昔の俺に昔のお前を重ねたいように重ねればいいさ。過去に執着しやすいお前にとって俺はいい薬なのかもな」
「……うん、そうかもね。ありがとう。炭丸って僕への理解が早いんだね。こんなに僕を早く理解できたのは君が初めてだよ」
翔次はそう言うと水面に映る自分の顔と炭丸の顔の二つを見つめた。「まるで昔から僕のことを知っているみたいだ」
「ふうん、お前はそう思うのか?」
と、水面に映る炭丸は何か隠し事をしているかのように動揺した素振りを見せると、話の続きを再開した。「よし、次に行くとするか。—————まあ、そう慌てるなよ。全ては聞いてからのお楽しみだ」
【夏のお話】

東国の森の夏。
それは鳥達にとってご馳走の虫や魚が最も獲れ、最も鳥達が賑わう時期でもありました。
この時期には〈不死鳥円環の儀〉というお祭りが三日に渡って行われるのです。
夏という季節は不死鳥が一度死んで生まれ変わる時期だと言い伝えられており、鳥達にとってそれは大変縁起のいいことからそのお祭りが発祥したというのです。
快晴の夜空に月が浮かび、ケラの鳴き声が響き渡る真夜中。森の鳥達は大はしゃぎで屋台を並べ、神輿を担ぎ、沢山のご馳走を食べ、一年の中で指折りに楽しいひと時を過ごします。
しかし、炭丸だけは違いました。何故ならこの時期になると、彼の元へ大量にやってくる依頼があるからです。
その度に炭丸は真剣に依頼解決のため悩んでは寝ずの晩を過ごすことになってしまうのでした。
「盗難ねえ……」
数多くの被害届を前にした炭丸は椅子にもたれ掛かりました。今年は季節が夏になってからは盗難の被害が相次いでいるというのです。
「頼みますよ炭丸さん。あんただけが頼りなんですから」
という被害者からの言葉が炭丸の中で何度も木霊しては彼に大きなプレッシャーを与えているようでした。
「やあ、炭丸さん」
炭丸の家を訪ねたキジの次郎は忙しそうな彼に差し入れの西瓜を持ってきました。「たまにはしっかりと休んでくれよ。炭丸さんはこの森において絶対に必要な鳥さんなんだから」
「ありがとう。でも、俺はやらねばならないんだ」
と、炭丸はいつもと同じ言葉で返します。
家の外からは祭りの準備をする鳥達の賑やかな囀りが聞こえてきます。
しかし炭丸は溜まりに溜まっている仕事を淡々とこなし続けているだけでした。
数日後、キジバトの広太郎が訪ねてきました。
「炭丸さん。雇った警備員は全員祭りの会場に配置させておきました。これで明日から行われる祭りの盗難の被害は激減させることができるかと」
「ありがとう。広太郎」
「あの、炭丸さん」
「何だ?」
見てみると、広太郎は炭丸に心配の眼差しを向けています。「明日から始まるお祭りに一緒に行きませんか?こう見えて俺等達は炭丸さんのことをいつでも心配しているんですよ。息抜きは大切です」
「ありがとう。でも、俺はやらねばならないんだ」
炭丸は広太郎に向かってただそう応えると、溜まりに溜まった仕事や依頼の書類に目を通していました。休みというものは彼にとって無縁なものだったのです。
三日間行われたお祭りが終わって数週間が経ち、警備員のリーダーであるキンクロハジロの燈さんが家を訪ねてきました。今日は彼女から警備員を配置させたことによる効果を纏めた資料が届く日なのでした。
キンクロハジロの燈さんは申し訳なさそうに資料を炭丸に渡します。「炭丸さん……本当に申し訳ございません。私達鴨は尽力して盗難を防ごうとしたのですが、どうやら犯人達は我々に見つからない新しい方法で盗難を行っているようなのです……」
「なるほど。これでは永遠のイタチごっこというわけか」
炭丸は頭をかかえてため息を吐きます。カレンダーを見てみると、もう八月の下旬になっているではありませんか。
夏も終わりが近い。盗難の被害件数も鰻登りだ。ここで盗難を食い止められなければ、これから先ずっと盗難が相次ぐ森になってしまうだろう。この森から盗難を無くすにはどうしたらいいのだろうか?
一時間ほど考え続け、結局どうすればいいのか分からなくなってしまった炭丸は何度も机を嘴で突いて八つ当たりをしました。「ああ糞ったれ!糞ったれ!」
「炭丸さん! どうか落ち着いて下さい!」
と、燈さんは炭丸に駆け寄ります。
「……あぁ、失礼。俺としたことが取り乱してしまった。少し外の空気を吸ってくる」
と、炭丸は戸口へ向かおうとしますが、何故か自分の視界が狭まっていることに気付きました。それはまるで白黒映画のラストを連想させます。
何故俺の視界が狭くなっていくのだろう? しかも体を動かそうとしても全身に力が全く入らない。
やがて膨れ上がるような痛みと、切り傷の付いたような痛みが炭丸の頭の中で交差すると、彼は断線したテレビのようにピクリとも動かなくなってしまいました。
意識が薄れていく闇の中、炭丸は開けることができない箱のイメージを前にします。
その周囲からは夏の終わりが刻一刻と近づいていることを告げる秒針の音が鳴り響いていました。
やがてその音と心臓の鼓動音が重なり、彼を絶望の深淵へと誘うのでした。
「おい、聞いたか?炭丸さんが倒れたんだってよ!」
このニュースはあっという間に森中に広がり、鳥達を驚かせました。
鳥達の驚きの声は何日も経過すればするほどに混乱と困惑の声に変わっていきます。炭丸はこの森において重要な役割を担っていた存在であると同時に鳥達の負担を請け負っている存在でもありました。つまりそれは親を失った子供と同じであり、いつも鳥達の負担を背負っていた彼が倒れてしまったことで森中の生活が不便なものになってしまったのです。
医師のアオサギからの報告では炭丸は目覚めるまでにもかなり時間がかかるということでした。
森中の鳥達はその変えようのない現実を受け入れ、個鳥が抱える問題は個鳥で解決する努力をするようになっていき、この夏で被害が増えた盗難に対しても同様の対応をしていくのでした。
彼らはそれを「自立することができた」として誇りに思い始めた様子です。
そんな森の有り様に対して異を唱える一羽の鳥が現れました。
「お前らふざけているのか?」
森で一番大きいブナの下。ノガンの岩哲は森中の鳥達を前にして声を大にして言いました。ヒレンジャクの裕子は子を見守る母親のような表情で彼を見守っています。
岩哲は一旦深呼吸をしてから続けました。「炭丸が倒れたから自分のことは自分で解決しろ、だと? それはある意味で正しいことかもしれねえけどよぉ、それだと一羽一羽が孤立したつまらない森になっちまうだろうよ。大切なのは森中のみんなが炭丸のように、森中のみんなを助けることだろうが。違うか? おう違うなら言ってみろよ。反論ならいくらでも聞いてやるぜ」
ブナの周囲に集まった森中の鳥達は彼の成長に驚いたと同時に今までの自分達の行いを深く恥じたのでした。そしてこれから自分達が何をすべきなのかを自然と気付くことができていたのです。
岩哲の演説が終わり鳴り止まない拍手が響き渡ると、司会進行のキジバトの広太郎によって意見交換の時間となりました。
これからの森をどうしていくか?
この議題を中心に多くの意見が述べられていく中、初めてワカケホンセイインコの山介が挙手をして意見を述べました。オオタカの篤は感心し、彼を見守ります。
「あの、何故盗難が起きてしまうのかを考えてみたんですけど、多分盗難をしてしまう鳥にもそれをやらざるを得ない辛い事情があるんだと思うんです。だから、警備員を配置したりして防犯を徹底するのは根本的な解決にならないんじゃないでしょうか? まずは鳥達の心の救済をした方がいいと考えます」
「なるほど。強引な方法で物事を解決するのではなく、まずは心に寄り添うのが大切だということか」
と、書記も担当していた岩哲はそう言って深く頷くとそれをノートに細かく纏めていきます。
その日、東国の森では未だかつてないほどの数多くの意見が一つのノートに纏められました。それはまるで繊細な絹を一本一本丁寧に織り込まれた美しい着物のような出来だったと言います。
【秋のお話に続く】
「炭丸、これは本当に凄い話だよ」
「どこがだ?」
「森の鳥達が自分達で力を合わることができたなんて本当に凄い話だよ」
「ん? そうなのか? 翔次」
炭丸は驚いている翔次を前にキョトンとした様子を見せた。「凄いも何も、日常的にあるべきことだろ?」
「うん。でも人間の世界じゃ、そういうのは奇跡に近いことだね。とても感動したよ。それに、炭丸の苦悩も凄く伝わる話だったな……。でも、僕はこの苦悩が炭丸の傷だとは思えないし、僕が炭丸だったらこれを傷とは言わないよ?」
「その通りだ。お前こそ俺への理解が早いじゃないか」
と、炭丸は言うと何か思い詰めた様子で人造湖を見つめる。「ああ、本当の地獄はここからだったんだ……」
春一番が吹き、岸辺に止まっていた蝶が慌てて飛んで行った。
ふと見ると炭丸は体を小刻みに震わせていた。先ほどまであった鋼の如き凄まじさは風に吹かれる蝋燭の火のように消えかけている。
翔次は初めて炭丸に寄り添い、彼の頭を撫でながら問いかける。「傷の良いところはさ、互いに分け合えることだと思うんだ。だから、是非聞かせてよ。僕と炭丸は似ている気がするから……」
【秋のお話】

目が覚めると、そこにはフクロウの長老が立っていました。
「炭丸君」
その渇いた声にはどこか切なさと悲しみが含まれているように炭丸は感じました。
「ここはどこでしょうか?」
と、炭丸はキョトンとした表情を長老へ向けます。「俺は一体……?」
「覚えておるか? 君はあまりにもの仕事の多さで倒れてしまったのだ。君は三週間以上も眠っていたんだぞ」
炭丸が慌てた様子でカレンダーを見ると、それは九月の下旬を示していました。あぁ、最悪だ。
炭丸は布団を握りしめ、長老に頭を下げます。「すみません長老。俺が能力不足なばかりに……」
「いいや、君は今まで本当によくやってくれた。お礼に君にはこれから長い休暇を与えよう。しばらく休みたまえ」
「でも、俺が仕事を休んでしまったら誰がこの森を平和にするのでしょうか?」
「それは極簡単な話だ。私達一羽一羽でこの森を平和にしていけばいい」
炭丸は首を傾げます。長老のその言葉の本意をあまり理解できていない様子です。
長老は話を続けます。
「私は炭丸君を優れたリーダーとして推薦し、この森の問題全てを任せることにした。だが、それは私達全員を堕落させる結果を招いてしまったのだ」
炭丸はボロボロになった自分の嘴と翼をじっと見つめます。
長老はそんな炭丸を見て言いました。
「炭丸君。本当のリーダーとは何か説明できるかね?」
「……全体を見渡し、全体の面倒を見るのがリーダーだと俺は思います」
「私もそう思っていたのだが、それは大きな間違いだったのだ」
「?……じゃあ本当のリーダーとは何なのです?」
「自分だけが全体を見渡すのではない。一緒に全体を見てくれる仲間を増やしていく存在。それが本当のリーダーだと私は結論づけた」
「全体を見る仲間……ですか……」
炭丸のイメージの中で鎖が千切れ、紐がするすると抜けていく音が聞こえてきました。
ふと見てみると、長年開けることのできなかった箱が綺麗に開いているではありませんか。その中身は至ってシンプルです。自分は今までこんな簡単なことが分からずに苦しみ続けていたのか。
ふと窓から外を眺めた炭丸は驚きました。なんとそこには森の鳥達が誰かに助けを求めているのではなく、誰かを助けようと必死になっている姿があるのです。これは人間の世界からすればごく当たり前のように聞こえることでしょうが、この森の歴史においてこのようなことは本当に有り得なかったことなのです。
よく見てみると問題児達を説得しようとしている山介と篤の姿も見られます。
長老は誇らしげに話し始めました。
「これは森中の鳥達の意見が集まったことで誕生したやり方だ。皆で助け合い、心の救済を優先する。『強引な方法で物事を解決するのではなく、まずは心に寄り添うのが大切だ』と。岩哲君はそれを君と山介君から教わったと話していたよ」
驚いている炭丸を他所に長老は話を続けます。
「岩哲君は凄いぞ。彼はとても不器用な鳥だが、周りの考えを柔軟に吸収して新しい考えを作りだすことができる長所を持っている。それによって森のみんなは自分達で考えて助け合うように指導することができたのだ」
確かにその通りだ。と思った炭丸は長老に向かって言いました。「長老。確かに森中の鳥達の力が働いて、この東国の森は大きな成長を遂げることができました。しかし、ゴールはここではないと俺は考えます。この森の問題はまだ星の数ほどある。俺はこの森が更に改善されるべく、長老から頂いた休暇も兼ねてあらゆる森を旅しようと考えました。あなたのお話通り、俺がいなくても、彼らはどこまでも頑張れるでしょうし、盗難の問題もいずれ解決できるでしょう。俺は今まで背負ってきた使命を彼らに信じて託すことに決めました」
「なるほど……分かった」
と、長老は深く頷きます。「外の森にはまた違った価値観があると聞く。炭丸君、私は君がどんな考えを得て帰ってくるかを期待しているぞ」
「はい。是非期待していて下さい」
それからというもの。あらゆる森の旅から帰還した炭丸は、多くの仲間達と共に森の自治の幅を広げることに成功しました。多くの鳥達に愛され、時に恨まれた彼は森の残された時間の中で鳥生を満喫していったのでした。
この素晴らしい思い出を永遠のものにしたい。そんな願いを心の片隅に置きながら。
【最終章に続く】
【最終章・そして現実】

「やがて、その森の終わりがやってきた」
と、翔次は話し終えた炭丸に付け加えるように言った。「それがここのダムの完成だよね?」
そうだ。と、炭丸は風が吹いただけでも掻き消されてしまうほど小さい声で言った。「木は切り倒され、谷を中心に水が貯められていき、人間によるダムが完成した。住処を奪われた鳥達はそれに対して怒りも悲しみも抱かず、それをいつか必ず来る運命であったかのように受け入れると、それぞれ自分の道を模索してどこかへ旅立って行った。しかし、未練と孤独感に苦しみ続けた俺だけは森のあったこの人造湖のほとりにずっと残り続けることにした」
「楽しい時間を通り越せば選択の試練がやってくる」
と、翔次は呪文を唱えるかのように切り出した。「これはさっき君が教えてくれた言葉だよ。まさかそれがダムによる水没と繋がるなんてね。……やっぱり炭丸は僕と似ている気がするよ。きっと、最後まで森を見届けたい使命感が君をそこまで突き動かしたんだね。ん? あれ? どうして僕がそれを理解できたのだろう?……」
翔次はふと顎に手を添えて考え込む。
炭丸は黒一色の眼でじっと翔次を見つめ続けていた。
目の前の水面で大きな魚が姿を見せたかと思うと、直様水中の奥深くへ潜っていった。遠くの浅瀬では鷺さぎが獲物を探してゆっくりと歩き回っている。すぐ近くの草むらでは蟷螂かまきりが大きな蝶を捕らえ、滅多に無いご馳走として美味しそうに食べていた。
翔次はふと炭丸の目を見た。その黒一色の眼はまさに虚構と深淵そのものだった。
「そうか、全て思い出したよ。炭丸」
再び春一番が吹き荒れる中、翔次はゆっくりと頷いた。
「僕はかつて君だった」
「そうだ。俺はかつてお前だった」
一人と一羽は人造湖のほとりで不思議と笑い合い、いつの間にか涙を流していた。何故涙を流していたのかは両者ともうまく説明することが出来なかった。
翔次は涙を袖で拭うと炭丸を見て言った。
「炭丸、君は僕がここに置いてきてしまった記憶そのものだったんだね。それも小学校時代の……」
「ああ。お前がクラスの学級委員長をやっていた『東ノ森小学校』での記憶だな」
「うん、そうだったね。炭丸は僕自身……岩哲は少し短気だけど情に厚い餓鬼大将……広太郎はそんな岩哲を支えるポッチャリで大人しい理解者……裕子は明るくてクラスの人気者……道彦は一番チビだったけど文武両道で成績優秀で女子達から一番モテていた男子だった……山介は自分勝手だけど根は素直で優しい奴……篤は面倒見のいい大柄な奴……美智子はクラスの中で真面目で仕事のできる奴……次郎は悪戯好きでよく先生に呼び出されていたかな……燈さんは男勝りの女子でよく岩哲を背負い投げしていたんだっけ……そしてフクロウの長老は担任の一重先生……。懐かしいな。あの桜の木に囲まれた校庭でみんなとよく泥警をして遊んだんだっけ」
「ああ、どれもお前にとってかけがえのない存在だったろ?」
「うん。本当にかけがえのない存在だったよ。それに沢山の価値観に出会うことができて毎日が『星の王子さま』みたいだった……」
ふと見ると炭丸は烏の姿から小学生時代の翔次そのものになって、どこか哀れむ表情で翔次を見つめている。炭丸は彼に問いかけた。
「全部思い出したのなら一緒に議論しようじゃないか。雨の降った卒業式のあの日、俺とお前は突然分離してしまった。それは一体何故だろうか?」
二人の間で沈黙が流れた。
陽は既に高い位置まで昇っており、世界の全てを見渡しているように見えた。
やがて翔次は口をおどおどと開いてそれについて話し始めた。
「多分……多分だけど僕達の中で永遠にここに留まりたい想いと、次の場所へ羽搏きたい想いがぶつかり合っちゃったから。……それが原因なのだと僕は思う」
炭丸は冷静にじっと翔次の話を聞いている。
翔次は水面を見つめ、いつの間にか漏らしていた嗚咽を何度も繰り返した。「……僕達は忘れるのが怖かった。いつか忘れるのが。忘れてしまったらもう終わりなんじゃないかってほんの少しだけ思っていたんだ。だからここでの思い出を永遠なものにしたい願いが心の片隅にあった。だから結果として僕と君は分離しちゃったんじゃないかな?」
「そうか……なるほど。お前は俺なだけあって、考えることはやはり同じだな」
少年の姿をした炭丸は初めて翔次に寄り添い、彼を細い腕で抱きしめながら言った。「……翔次。辛かったよな」
「……掌返しをしやがって……さっき僕が死のうとした時は軽く突き放した癖に」
「それは本当に悪かった。でも、お前が本気で死のうとしていないことを証明するにはそれしか思いつかなかったのさ。……不器用な俺でごめんな」
炭丸を抱きしめ返した翔次は、「何だよ。それ」という台詞を言い放ったらしいが、激しい嗚咽により、それは聞き取れるものではなかった。
炭丸は翔次の腕に包まれながら話を続けた。
「翔次、あの日お前はここでの記憶……即ち俺を失ってしまった。それに追い打ちをかけるように家族や大切な人達を失ったことで、お前はこれから先の生き方すら分からなくなってしまったんだ。挙句の果てにそれに耐え切れず、ここで自殺を図った。俺はお前、お前は俺だ。俺が何を言いたいのか、お前なら分かるはずだ」
『過去は未来への羅針盤だ』と、翔次は無意識の内にその言葉を胸の中で反芻し続けた。その言葉のどこかに自分が求めているものが隠されている気がしたからである。それを反芻すればするほど翔次の中で何かが活発に動いていく。まるで何十年も動かなかった時計台の錆びた歯車が急に回り始めたかのように。
やがて、何かが千切れる音が彼の胸の中で響き渡った。嫌な音ではない。翔次のイメージの中で突然鎖が千切れ、紐がするすると抜けていく匂わせぶりな音である。
ふと見てみると、箱が綺麗に開いていた。その中身はやはり単純でシンプルなものである。今までこんな単純なものが分からず、自殺を考えるまでに苦しんでいたのかと思うと本当に馬鹿馬鹿しく思えた。
もしかすると世の中の難しい問題の大半は複雑な工程こそあれ答えそのものは至ってシンプルなものなのかもしれない。紐や鎖を強引な方法で解こうとすればするほどややこしく絡み合い、やがて取り返しの付かない知恵の輪になるのと同じように。
そう感じ取った翔次は、自責の念を顕わにした表情で炭丸に言った。
「ごめん。……でも、今思い返せば答えなんて僕一人でも分かりきっていたはずなんだ。『過去』の見えない人間に『未来』が見えるわけがない。『過去』が見える人間ほど『未来』を見通すことができる。この二つは誰もが等しい割合で与えられるものだったんだね。……多分、神様みたいな存在から」
炭丸は何度か頷き、少し揶揄う素振りを見せた。「ほう、言うようになったじゃないか翔次。俺という『過去』と向き合うことができたお前には既に『未来』と向き合う力が備わっているはずだ。さて俺の役目はここまでだ。お互い人生設計には気を付けようぜ。じゃあな」
「『じゃあな』なんて素っ気ないこと言うなよ。ありがとう炭丸。僕は君。お前は俺だ。だから、これからは—————————————」
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静まり返った病室にて、翔次はベッドで目を覚ます。カーテンの向こうからは心地良い風が日差しと共に行き来していた。
はて?ここはどこだろう?
「翔次君、大丈夫?」
ふと見ると、その横には自分と同年代の少女が心配を込めた表情で椅子に座っていた。背丈は伸び、服装は高校の制服に変わっているがその卵型の可愛らしい顔は昔のままだ。「もしかして、燈さん? 久しぶりだね。どうしてここに?」
「翔次君がダムの湖で溺れそうになっていたところを救助されて病院に運ばれたって聞いたから慌てて駆けつけたの。私、家がダムの近くだから」
「そうか。そう言えば燈さんの家は水没予定地じゃない場所にあったよな。……色々と心配かけてごめんな」
と、翔次はそれ以外の言葉を探したが、状況を理解しきれていない中、それは非常に困難だった。そもそもさっきまで見ていたものは夢だったのだろうか?それとも—————。
翔次が言葉に詰まる中、燈は怪訝そうな表情で問いかける。
「翔次君、あんな湖で一体何をしていたの?」
困った質問だ。と翔次は思った。
「『何をしていたのか?』……うん、自殺だな」
燈は表情を凍らせ、本気で翔次を睨みつける。「馬鹿野郎! 大馬鹿野郎! 何で自殺しようとしたの?!」
「大切な人達を失った悲しみで……」
「だとしてもだよ」と燈は顔を赤くして続けた。「死のうとする奴は全員馬鹿だ」
「うん。本当に俺は馬鹿だったよ。過去形だけど」
「じゃあ、今は自殺する予定が無いってこと?」
「そうさ。今は生きる希望を見出せているよ」
「そう。まるで三途の川でも見てきたような言草だね」と、燈は言うと大きくため息を吐いた。「久しぶりに翔次に会えたと思ったら凄いヘタレになっているし、学級委員長としての面影は壊滅的だし、もう私疲れた」
「……燈さんは相変わらず厳しいな」
と、彼女の昔と変わらぬ威圧に圧倒されつつ、翔次は話を切り替えた。「ところで質問だけど、『炭丸』っていう名前に心当たりはある?」
「『炭丸』?……」
燈は奇妙なものでも見つめるかのように宙を見上げながら記憶を探る素振りを見せると、やがて思い出した様子で言った。
「ああ、あれだよ。小学校時代に翔次君が台本を書いた演劇に登場するヒーローだよ」
「ヒーローだって?」
「ほら、烏の仮面に黒いマントの黒一色のダークヒーロー的な奴。時に嘘を吐いて悪い奴から人類の心を守る正義の味方っていう斬新な設定だった気がする。いつも翔次が言ってたじゃん。『この炭丸っていうヒーローは本当にいるんだよ』って。……というか考えた本人が忘れることってある?」
「え? あ、完全に忘れてたわ。自分でも驚きだ」
翔次はそう言うと大胆にベッドで寝転がり、天井を見つめた。炭丸の正体について翔次の中で何か引っ掛かるものがあったが、それについてあれこれ考えるのはやめにした。……いや、まさかな。多分自分の考え過ぎだろう。
「まあいいや。俺はこれから『未来』のことだけを考えることにしたんだ。その方が人生一〇〇倍楽しいに決まってるからな」
「何?その斬新な独り言。翔次君ってそんなキャラだった?」
「え?これが本当の俺だけど?」
翔次は笑い飛ばしながらそう言うと、安堵の表情を見せた。良かった。今、燈さんが俺のそばにいてくれている。それだけでも最高じゃないか翔次。
病室の窓の向こう。そんな二人のやり取りを烏と鴨の二羽がじっと見つめていたのだが、誰もそれに気付くことはなかった。
