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匿名人魚姫

海底に沈んだ祈りが、静かにひび割れる夜だった。

王子は眠っていた。
幸福の余韻をそのまま胸にのせて、
深く、深く呼吸していた。

一度。
二度。

――嵐の夜と同じ、速さだった。

金色に輝く前髪にそっと指を触れた。
海面のきらめきが残す、
薄い光の筋みたいに柔らかかった。

清冽な線を描いた鼻筋は、静かに息を刻み、
そのたびに夜の空気がひとつ、
音もなく形を変えていく。

長くしなやかなまつ毛は、
触れれば折れてしまいそうな小さな影を、
彼の頬に規則正しく並べていた。

そして、唇。
闇の底に灯った灰赤が、
あの夜、私の指先から零れ落ちた言葉の形を、
まだどこかに宿しているような――

美しい。
壊れる前の、美しさだ。

その輪郭を目でなぞるだけで
胸の奥から嗚咽が込み上げた。

声はもう出ない。そのはずなのに、
封じ込めた海だけが、喉元でごうごうと轟く。

ナイフを握った手に、魔女の声がよみがえる。

「そのナイフで王子の心臓をひと突きにしな。
そうすればあんたは助かる。
やらなきゃ、朝日に溶けて泡になるだけさ」

私は、枕元に膝をついた。
眠る王子の前に、刃をそっと寄せる。

真珠の殻を撫でるように、
静かに、ゆっくり、なぞる。

皮膚がわずかにたわみ、
細く淡い傷がひとすじ、波の跡のように刻まれた。
次の瞬間、

「    」

うわごとのように、王子が言った。
刃先がぴくり、と動きを止める。

「    」。
それは、あの嵐の日、
私が彼の耳元にそっと落とした言葉だった。

この世にはまだ存在しない言葉。
文字を持たない言葉。
王子はその意味すらも知らない言葉。

それでも――私は、再び手を動かす。

少し角度を変えて、
もう一本の線を描く。
今度は、唇の端。
海流の向きを変えるみたいに、
ほんの少しだけ――斜めに、上へ。

ふたつの線は意味を知らないまま出会い、
静かな“歪み”をつくった。

眉を。
目尻を。
私は、刻みつづける。

あなたは私を愛さなかったけれど、
これから毎朝、私が刻んだ“歪み”と共に生きる。

最後に、私の左手の小指から、鱗をはがした。
人魚の爪。
虹色の光が、わずかに部屋を照らす。

それを王子の唇に置いた。
彼は何も知らないまま、鱗を飲み込む。

人魚の欠片は、呪いにも祝福にもならず、
ただ“生き続けること”だけを強制する。

「これで、あと二十年は死ねないよ。」

私は彼の“未来”を殺した。

王子の心臓を貫かなかった私は、
彼の“死”を見届けることはないだろう。
それでいい。
それがいい。

痛みはすぐには訪れない。
夢の底であなたが気づくこともない。
でも明日、鏡を見たとき、
世界のどこにも存在しなかった無数の“線”が、
あなたの顔に刻まれている。

微笑みでもない、怒りでもない、
どの感情にも属さない奇妙な表情。


王子の顔を、“ひょっとこ”に変えてやりました。


この先ずっと、彼は苦しみつづける。

顔がひょっとこになった理由も
「    」が私の名だったことも

永遠に、わからないまま。


カーテンの隙間から差し込む光に
ひょっとこが寝返りを打つ。

私は立ち上がり、
窓の外にゆっくりと上る朝日を見た。
指先がほどける。
脚がほどける。

視界が白く砕け、
名前のない光に流される。

声を失い、
その名すら王子(現ひょっとこ)に伝えられなかった私は、
匿名のまま、
静かに、静かに、
透明の泡になった。


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関谷ユウコ あたしのことはいいから!そのチップは、おまえとおまえの大切な人のために使え!