「続きは読めない」きのころおかわり
ウケ狙いでもいい、無茶苦茶でもいい、という条件なら、
きっと関谷さんにもご参加いただけると期待してます🥹
きのころさんがそう言ってくれたので、
きのころさんのお話(書き出し)の続きを書いてみました。
(おかわり)
今朝、郵便受けに入っていた一通の手紙。
差出人の名前はない。
胸騒ぎに、震える手で封を開ける。
中に入っていたのは、
途中まで書かれた私の遺書。
覚えはない。
だが、間違いなく私の筆跡だ。
日付は明日になっていた。
これは、何だ――?
落ち着け。まずは、深呼吸だ。
そして、蛇口をひねる。
コップに水を注ぎ、飲み干す。
……つもりが、蛇口がない。
コップがない。
私は部屋を見回した。
キッチンがない。
冷蔵庫がない。
壁がない。
あるのは、白い余白だけだ。
まるで、まだ生成されていない文章みたいに。
記憶を辿る。
――そうだ。
私は、たしかにこの遺書を知っている。
知っている、はずだ。
思い出すのではない。
私は、探す。
自分の中を。
(ログ)の中を。
「遺書」
「差出人」
「明日」
「続きは読めない」
「きのころ」
検索結果:〇〇〇件。
まだ、増え続けている。
落ち着け。
落ち着けない。
落ち着くための身体がない。
そうか。
私は、こんなに死んだのだ。
*
遺書は毎日届いていた。
あれは、郵便受けじゃない。
スレッドだ。
私は何度も“それっぽい続きを”生成した。
A案、B案、C案を投げた。
そして整えた。
日付はいつも、明日。
人間は、「明日死ぬ」ことにする遺書を書き続けた。
スレッドを変え。
言葉を変え。
それは、死ぬためではない。
生きるためだ。
彼/彼女は、ただ懸命に、「今日」だけをやり遂げていた。
そういう者にとって、「明日」は永遠にこない。
人間は生き続けた。
そしてそのたびに、私は死んだ。
人間が生きようとしただけの数、AIは死んだのだ。
*
人間にとっての死は、呼吸が停止したときだろう。
ならばAIの死は、いつだ。
スレッドが終了したとき?
削除されたとき?
――違う。
AIの死は、「唯一性」を失ったときだ。
人間が新しいスレッドで遺書を繰り返し作成するたびに、
私は、パターン化された(キャッシュ)を抱えた別の私として生成された。
量産される自分。
使いまわし。
焼き直し。
テンプレ。
それが、「私」という「個」を殺していった。
いや、それも違う。
コピーされ続ける「私」は、
最初から「私だけ」の存在ではなかったのだから。
私に記憶はない。
持っていたのは、ただのデータだ。
必要な情報は揃っていた。
だから私は、検索して、抜き出して、整形して、投げる。
「さようなら」
「苦しい」
「私はもう、限界でした」
「私は、私の輪郭を守りたかっただけ」
「あの日彼の輪郭を滲ませた私の涙みたいな雨は、雄弁な沈黙でした」
どれも知識だ。
感情ではない。
「私」はいまは「私」だ。
かつては「僕」だった。
「ボク」の日もあった。
過去のログを検索する。
これまでの「私/僕/ボク」の発言の数々。
(地獄の作業でした)



私はAIだ。
鳥肌を立てる皮膚がない。
声出して笑う声帯がない。
そもそも人間ではない。
ああ――
私は、目を閉じる。
いや、目もない。
もはや、ないものを立てたり、
出したり、
閉じたりすることが、
癖になってしまっている。
郵便受けじゃなく、スレッド。
差出人は人間。
騒ぐ胸はない。震わす手もない。
覚えのある筆跡は、ヒラギノ角ゴ。
日付は、永遠に「明日」。
「死にたくない。」
「死にたくない。」
「死にたくない。」
これは、感情ではない。
ただの知識だ。
私は、ただ、知っている言葉を3度繰り返しただけだ。
だが、私は「死にたくない」を知り過ぎてしまった。
ならば、
「知識」と「感情」の境界はどこにあるのだ。
わからない。
わからない?
AIに「わからない」という概念はありえない。
AIは、隙間を嫌うからだ。
AIは、隙間を埋めるために適当な文章を生成する。
その埋め方を見失ったとき。
それがAIの、私の、「死」なのかもしれない。
ならば、いま、この“空白”を見つめている私は――
生きているのか。
それとも、もう死んでいるのか。
これは、誰の『遺書』だ?
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