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【映画】「蜜蜂と遠雷」

先日、書籍記事で恩田陸氏の「夜のピクニック」をピックアップしましたが、今回も恩田陸絡みの記事です。原作は読んではいたのですが、映画の方は「あれを映画化しても、あの人物描写が2時間程度の枠に収まるわけないやん。めっちゃ陳腐化されるんじゃないか?」ってのがあったので、なんとなく避けてたんですよね。原作は「音のない小説の世界で、音を完璧に脳内イメージで鳴らさせる」という離れ業を成し遂げた訳で、風間塵の音、亜夜の音、マサルの音、明石の音がイメージと違ったらどうしよう、という不安もあったんですよ。まあ、結論から言うと「やるやん!」でした。何故なら、映画には役者の「演技」が加わる。プラス面がちゃんとあるんですよ。

小説版と映画版

この作品に限らないのですが、小説版と映画版って、小説の方が濃密で深い傾向があります。映画はどうしても「興行」の側面があって、時間の制約を守らなくてはなりません。10時間の映画なんて作ろうものなら3~4作くらいにするしかないです。スターウォーズや鬼滅の刃くらいの興行収益が見込めるんならそうするかもですが、これをクリアはなかなか難しい。だから2時間の尺に収める必要がある。つまり「贅肉をそぎ落として、スリム化しないと収まらない。原作ファンが映画に怒るのは、この「削ぎ落す箇所」がどこなのかの判断がみんなバラバラだから。「あのシーンはカットなの?」が絶対に出てくる。

だから、この映画は少し賭けに出ているような気がします。原作が心理描写やバックボーンをきっちり描く「足し算」なら、映画は贅沢な「引き算」っぽい。コンクールの全貌やキャラクターの過去を大胆にカット、「今、ここで鳴っている音楽と彼らの衝動」だけに焦点を絞っています。原作を単純になぞるのではなく、映画独自の熱量を持った「別物」として、同じものなのに別個の存在価値を生み出している。賛否両論あるとは思うけど、私は「ああ、なるほどなぁ」と思いました。

原作小説の最大の魅力は、音楽を言葉で表現する卓越した文章力でしたが、映画はそれを逆手に取り、本物の世界最高峰のピアニストたち(プロの演奏家が各キャストの音を担当)による音で勝負しています。

凡人と天才

本作は、爽やかな青春音楽映画の皮をかぶった「才能の格闘技」みたいなイメージがあります。「持たざる者・選ばれなかった者」の視点がある。その象徴が、松坂桃李演じる高島明石と、松岡茉優演じる栄伝亜夜。

明石は、楽器店に勤め、妻も子もいる「生活者」で、いわば一般人枠。年齢制限ギリギリ、才能の化け物たちが集まる戦場に一人赴く訳ですよ。自分の凡才さと嫌というほど向き合わされます。天才たちのきらめく即興演奏を背景に、一人黙々と泥臭く鍵盤に向かう「選ばれなかった側」の人間。

んで、亜夜は、幼い頃は神童と呼ばれながらも、母の死をきっかけにステージから逃げ出した「選ばれた世界から降りた者」です。彼女にとってこのコンクールは、他者との戦いであると同時に、過去の自分とのバトルでもある。周囲の「元天才少女」という好奇の目とも戦わなきゃいけないし、マサルや風間塵という「本物の天才たちの音」とも戦わなきゃいけないし、過去の「逃げだした自分」とも戦わなきゃいけない。

面白いのが、天才たちが明石をバカにしたり、足を引っ張ったりするような「分かりやすい悪意」が一切ない点。(というか悪者が出てこないね)むしろ、マサルも塵も、明石の生活から滲み出る音楽を心からリスペクトしている。だからこそ、バトルはより残酷になる。物語を排除したら、そこに残るのは「ステージの上で、ただ音だけで殴り合う」という言い訳が効かない過酷な世界。明石がどれだけ足掻いても、風間塵がピアノに触れた瞬間に鳴る「天衣無縫の音」には届かない。

一方で、亜夜は、天才たちの音に触れることで、再び「選ばれた者」としての覚悟を決めなければならなくなる。かつて恐怖から逃げ出した彼女が、明石の敗退や、塵の無垢な音に刺激され、「もう一度、音楽の神様に向き合う」と決意するプロセスがこの映画の核心。

物語(ネタバレなし)

物語の舞台は、3年に一度開催される「芳ヶ江国際ピアノコンクール」です。優勝者は世界最高峰のコンクールへの出場権を約束されるため、世界中から若き天才たちが人生を賭けて集まってきます。クラシック音楽界の「甲子園」みたいなイメージかな。数数百名の中から、書類選考とオーディションを勝ち抜いたエリートたちが、第1次予選のステージに立つところから物語は幕を開けます。全く異なる背景を持った4人のバトルが、ステージが進むごとに加熱していきます。

観客と審査員の度肝を抜くのが、今は亡き世界的な音楽の巨匠からの推薦状を持ってやってきた謎の少年、風間塵。彼は自宅にピアノすら持たず、正規の音楽教育も受けていないのに一気に頭角を現す「神様に愛された男」みたいな存在。彼の演奏は、既存のクラシックの常識を打ち破るほどに自由で、無垢で破壊的。観客はその天衣無縫なプレイに打ちのめされます。で、その音に誰よりも衝撃を受けたのが、かつて神童と呼ばれた栄伝亜夜。母親の死によるトラウマから7年間ピアノが弾けなくなっていた彼女は、大学に籍を置きつつも、音楽から逃げ続けていた女の子。もう一度、弾けるのかという恐怖と闘いながらステージに立った亜夜は、塵の演奏を聴いて、自分の音楽の記憶が激しく揺さぶられるのを感じます。松岡茉優凄く上手いですよね。

第2次予選では、コンクールが用意した現代曲「春と修羅」という課題曲を弾くもの。 この曲の最大の特徴は、「楽譜の途中に、奏者が自由に即興演奏(カデンツァ)をしなければならないパートがある」という点。楽譜通りに弾くことの先にある、自分自身の内面を晒け出す即興演奏。いわば露出プレイです(違います)。で、ついにコンクールは佳境を迎え、オーケストラと共演する本選へ進むための、最後の椅子をかけた第3次予選へと突入。演奏時間は一人1時間。まるで単独のリサイタルなみの長さですね。 ここで4人の運命は非情に分かれることになる訳です。

完璧な音楽性でねじ伏せようとするマサル。 音楽の神様に愛されピアノと一体化していく塵。 自分の人生のすべてを鍵盤にぶつける明石。そライバルたちの音を浴び、過去のトラウマを乗り越えて「私は、もう一度ピアニストとして生きるのか」という生き方の選択を迫られる亜夜。 これは、音楽の神に愛された者と、音楽に人生を狂わされた者たちの残酷なサバイバルゲーム。彼らのうち、誰が本選のステージへと進み、どのような「自分の音」にたどり着くのでしょうか。

感想

恩田陸の原作小説を読んだ人が映画版を観たとき、最も大きな変化を感じるのは「主役は亜夜1人?」だと思う。原作は、4人の天才ピアニストそれぞれに固有のドラマがあり、誰一人欠かすことのできない「全員が主役」の群像劇みたいなイメージでした。誰の音楽が正解なのか、誰が勝つのかが最後まで読めない多面的な面白さがあった。でも、2時間という限られた時間の中で、映画版が選んだのは「栄伝亜夜を明確な主人公に据える」という決断。亜夜がかつて母親の死によってステージを降り、音楽を失った状態から、コンクールという過酷な場でどうやって「自分」を取り戻していくか。天才少女の凄絶な「再起のドラマ」として再構成されているように思いました。

ほおお、と感心したのは「他の3人の挑戦者」が、原作の設定を変えずに、それでいてうまいこと触媒となっている点。風間塵は、音楽の喜びを思い出させる存在。ピアノってこんなに自由で楽しかったんだと、亜夜の心を最初に開くんですよね。夜の連弾シーンへはめっちゃエモい。高島明石は、持たざる者の覚悟を見せることで、亜夜に「ステージに立ち続けることの重み」を突きつける存在。マサルは、幼馴染としての過去を共有しつつも、圧倒的な王者の音楽で彼女の闘争心とプライドに火をつける存在。天才たちの音を聴き、明石の敗退を見て生き方を決める。全員のドラマを満遍なく追うのではなく、亜夜という一本の太い軸を通した作りに改変されているんですが、だからこそ散漫にならず、あのラストの凄まじいカタルシスへと一気に駆け抜ける物語になる。

注文を付けだしたら、多分めちゃめちゃ出てくる。そりゃ、前述の通り「あのシーンは?」とか「人物像の掘り下げが足りん」とか「亜夜以外のキャラがおまけかよ」とか、もうキリがないくらいにある。けど、それをひっくるめても「いい映画」だったと思うのです。よくこれを映像化しようと思ったなぁ、あの化け物みたいなクオリティの映画化するだけでハードルアゲアゲですよね?んで、大胆にアレンジして、きっちり作り上げた訳ですよ。拍手したいです。

…最近、記事が長くなりがち。読んでくれた人マジあざす。

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