厳原を見下ろす天空の城
朝鮮出兵の山城清水山城について
清水山城(しみずやまじょう)は、朝鮮出兵(文禄慶長の役)に祭し、出兵の一大拠点であった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から壱岐・勝本城、朝鮮半島・釜山につながる重要な軍事的中断点として、1591(天正19)年に築かれました。
標高210mの清水山の尾根沿いに、東西約500mにわたって一ノ丸(本丸)・二ノ丸・三ノ丸の三段の曲輪(くるわ。石垣などで区画された平坦面)が並び、斜面を這う石垣により結ばれています。各曲輪から厳原(いづはら)の町並みや厳原港を一望できる総石垣の山城です。
築城者は軍艦・毛利高政と推測されてきましたが、近年、対馬領主(のちの対馬藩主)宗義智(そうよしとし)に、肥後人吉の相良氏、筑後三池の高橋氏、筑後福島の筑後氏の三大名が協力したと考えられています。
天正期の山城の遺構を良好に残しており、昭和59年、国史跡に指定されました。
厳原港から徒歩でアクセスでき、説明板も整備されています。観光情報館ふれあい処つしまから三ノ丸までは片道徒歩15分、一ノ丸まではさらに25分です。周辺に宿泊施設や飲食店スーパーなどが多く、訪問には便利な立地です。

コース紹介

観光情報の提供、パンフレットの請求はこちらまで。
「所在地」T817ー0021
長崎県対馬市厳原町今屋敷672番地1
観光情報館ふれあい処つしま
「電話」0920ー52ー1566
「アクセス」厳原港から車で3分(徒歩10分)、対馬空港から車で20分
登山口まで1

坂の上には対馬博物館があり、車は近隣の対馬市交流センターや八幡宮神社などの有料駐車場をご利用ください。
電柱の中央あたりに、清水山の樹木が一部伐採されて、三ノ丸が見えています。
登山口2

登山口3

登山口4

登山口5

(1)有明山・清水山の登山口

清水山城の説明板

清水山城跡の解説(案内板より転載)
史跡
清水山城跡
国指定
昭和59年12月6日
清水山上跡は、有明山(ありあけやま。558.2m)から延びた東の支脈先端にあたる清水山の尾根上に立地する、16世紀末の文禄・慶長
の役に祭して築かれた城である。
天正期(てんしょうき)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朝鮮半島の釜山に兵を送るために、本堂とした肥前名護屋城(なごやじょう)から海を渡った後の中断地として、壱岐の勝本城(かちもとじょう)とともに築いたと考えられる。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書「日本史」で、これに関し、秀吉は壱岐と対馬に「屋敷と宿舎、食糧用貯蔵
庫」の建築を命じたと記している。しかし、その構造を見る限り、いわゆる御座所の機能は清水山城でなく、金石城(かねいしじょう)に担わされていた可能性がある。秀吉の築城指令を
記す史料は確認されていないが、例えば文化6(1809)年に編纂された「津島記事」では、秀吉の命により毛利高政(もうりたかまさ)が築城したと書かれている。なお、築城者については、近代に出された、対馬領主の宗義智(そうよしとし)が主力になり、相良長毎(さがらなおつね)、高橋直次(たかはしなおつぐ)、筑紫廣門(つくしひろかど)らが加勢したとする説が有力である。
城の一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と呼ばれる三つの曲輪(くるわ)からなり。延長は約500mである。標高208mの山頂部から南東の標高95mまでの高低差のある地形に
いち位置する。各曲輪は尾根筋の平坦部に石垣を築いて造られており、尾根沿いの石塁でつながっている。
尾根は岩盤が露出した狭隘
(きょうあい)な地形のため、曲輪をつなぐ石塁も10m程の狭い幅で囲われた回廊(かいろう)状になっている。朝鮮半島に築かれた倭城(わじょう)には、退路(たいろ)の確保などを目的とした設けられた港湾から城までを囲う竪石垣(たていしがき)と、呼ばれる構造があるが、清水山城の石塁も曲輪をつなぎ、囲うことで、城内部の防御機能(ぼうぎょきのう)を意識したのであろう。
有明山遊歩道ルートと清水山ルートの分岐点

三ノ丸の石垣

(2)三ノ丸からの眺望

巨石群

三ノ丸の解説(案内板より転載)
清水山城の東端に位置する。標高95m~105mの尾根の両肩部に石垣を築き、尾根に沿って細長い形状の曲輪(くるわ)を構成する。東西約80m、南北30mである。
曲輪の石垣は直線で構成され局面は見られないが、長辺が10~20m間隔で穏やかに折れて繋がっているため、一見すると長楕円形を呈する。
北辺はやや不明瞭だが南辺は比較的良好に遺存する。隅角部(すみかどぶ)は算木積みの様相を呈し、築石部(つきいしぶ)は扁平な割石を多く用いて、一部だけに横の目地が走る布積みと大小の石を多方向に積んだ乱積みと呼ばれる積み方で構築され、他の石材よりも数倍大きな石を随所に配置する鏡積み様の技法も見られる。
東部南側に虎口(こぐち)が開き、石段が残る。曲輪の累線上には六ヶ所の横矢枡形(よこやますがた)がある。三ノ丸の南端から下には、尾根の綾線沿いに等高線に直行して竪堀(たてぼり)がある。
(3)成婚記念躑躅(つつじ)植栽碑

石垣

虎口(こぐち)

曲輪を結ぶ石垣

(4)
遊歩道との合流点

二ノ丸手前

二ノ丸の虎口

石積みの技法

(5)二ノ丸からの眺望

二ノ丸の解説(案内板より転載)
清水山城跡の中央、一ノ丸
と三ノ丸の間に位置する。
標高160m前後の平坦部に石垣を築き、不整な長方形の曲輪を構成する。各所に設けられた虎口、階段などの構造が良好に遺存する。
東西約50m、南北約30mと三ノ丸よりやや狭い。石垣の依存状態は良好で、構造がよく確認できる。曲面を持たず、鋭角と直角に近い鈍角で構成されるため、三ノ丸に比して直線的な様相である。
隅角部には算木積みの要素が窺え、築石部は扁平な割石を多く用いて、一部だけに横の目地が通る布積みと大小の石を多方向に積んだ乱積みと呼ばれる積み方で構築した中に、他の石材よりも数倍大きな石を随所に配置する鏡積み様の技法が見られる。
直線的な曲輪の累線や枡形虎口は、織豊(しょくほう)系城郭の様相をよく表している。
二ノ丸の石積1

二ノ丸の石積2

枡形虎口(ますがたこぐち)

二ノ丸の石積3

一ノ丸への道

一ノ丸の虎口1

一ノ丸の虎口2

一ノ丸の虎口3

一ノ丸の虎口4

一ノ関丸の虎口5

一ノ丸の石積み

一ノ丸の解説(案内板より転載)
清水山城の頂上部を石垣で楕円形に囲い造られた曲輪。各曲輪のなかで最も高い位置に築かている。標高207mの山頂を中心に、東西約70m、南北約40mの範囲に石垣が巡る。平入り虎口が南東側と北西側の二箇所に設けられている。南東側の虎口は外と内に二列の石垣に一箇所ずつ二門が開くが、食べ違いに配置され直線状には並ばない。
虎口から二ノ丸まで、通称「水の手」と呼ばれる鞍部(あんぶ)に虎口を設けているが、尾根筋を挟んで石塁が延び、曲輪間を繋いでいる。一方、北西側にも平入り虎口が開いており、二ノ丸に続く南東側とは異なり、幅の広い石段が設けられている。この二箇所の平入り虎口周辺は、扁平で小さめの石を積み上げており、他の曲輪を形作る石垣とは明らかに様相が異なる。角がない曲輪で構成されているのも二ノ丸、三ノ丸と異なる特徴である。一方で、南東側に開く虎口の内側に築かれた石垣は、鏡石を使用した技法で積まれており、曲輪間の石塁や二ノ丸、三ノ丸の石積みと特徴を同じくする。曲輪の累線上には横矢枡形が一箇所設けられている。絵図には
山頂部を囲う方形の基壇が描かれているが、現状での遺構は定かではない。
(7)北西部の虎口1

北西部の虎口2

北西部の虎口3

(8)一ノ丸から眺望

清水山城の謎
清水山城には、いくつかの謎があります。
1.豊臣秀吉の御座所として築かれたといわれるが、
岩盤が露出し、平坦地がない。(ふもとの金石城を併用?)
2.各曲輪のデザインがバラバラ(協力した大名が別々に築造?)
3.攻めるにしろ守るにしろ仮想敵がいない、(戦場は朝鮮半島)などなど。
清水山城の目的は、壱岐からの船の監視や、八幡宮神社の神山を伐採して総石垣の城を築き、強大な権力を誇示する「見せる城」だったのかもしれません。
