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バタイユ『眼球譚』をジュブナイル小説として読む -シリーズ読書感想文-

キーワード:読書感想文, 変態, ジュブナイル, サリンジャー, バタイユ, ライ麦畑でつかまえて, 澁澤龍彦, 生田耕作, 中条省平, 眼球譚, 目玉の話



はじめに

今は知らないが、昔は変態がモテた。
おそらく澁澤龍彦の影響だと思う。禁忌への侵犯がどうしたとか深層意識がこうしたとか、タナトゥスがなんだとか言ってたら変態もインテリ。中高生のときに変な趣味を拗らせちゃった文学少女というのが一定数いて、彼女らにモテたんだ。

大学生の頃のことだ。本屋に行ってマゾッホの『毛皮を着たビーナス』をレジに持っていったら、レジ係のアルバイト大学生が顔を赤らめうるんだ目で見つめてきた。次の日にバタイユの『マダム・エドワルダ / 目玉の話』を持っていったらレシートを手渡すときに手を握られた。これは脈ありか思い、次の日に永井豪の『けっこう仮面』を持っていったら、彼女はうるんだ目で俺を見つめながら電話番号を書いたメモを手渡してきたのである。金沢のうつのみや書店4Fの学術書フロアでのことだ。

今日は会社の定期健康診断で、甘いバリウムの香りの余韻の中、待合室でバタイユの生田耕作訳『眼球譚』を読んでいたんだね。病院の待合で読むってぐらいで、軽い気持ちの読書ですよ。
今どきは変態もインテリもモテない、俺ももうオッサンだし、今時の女子が趣味を拗らせるのはまた違った方面らしい…

うむむ、これは!
大慌てで帰って、中条省平訳の『目玉の話』と読み合わせてみた。
オッサンになったがゆえにモテを捨てた今の俺のプレーンな視点により、この変態小説に対する新しい視座を発見できたように思うんだ。
バタイユの『眼球譚』もしくは『目玉の話』はもしかして、例えばサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』に匹敵する、たとえようもなく美しいジュブナイル小説なのではないか。

ちょっと解説すると、『眼球譚』" Histoire de l'œil " はジョルジュ・バタイユの作品で、1928年に初稿が、1947年に第二稿が発表されており、初稿訳が生田耕作訳『眼球譚』として、第二稿訳が中条省平訳の『目玉の話』として読むことができます。興味のある方は、平易な文体の第二稿から読まれることをお勧めします。


『眼球譚』もしくは『目玉の話』について

『眼球譚』もしくは『目玉の話』といえば、知る人ぞ知る、読者のドン引き必須の倒錯的で破壊的な変態小説だ。卵、眼球、尿、死体、牛や闘牛士の臓物、特に睾丸、聖職者とそのくりぬかれた目玉、どのモチーフもスキャンダラスで不快、そして危うい香りに満ちている。
これらのモチーフはフロイト的な深層意識のメタファーとして描かれるだけでなく、聖性や贖罪の儀式、さらには太陽神話として顕在化する物語構造を備えている。この点が、澁澤龍彦や種村季弘、柄谷行人らによって高く評価され、三島由紀夫や大江健三郎、寺山修司といった多くの作家にも強い影響を与えてきた。

俺の読むところ、この物語、あるいはバタイユのエロチシズム観の根底には次のような構造があるように思う。

  • 人間の生は抑圧そのものである

  • エロティシズムは抑圧を打ち破ろうとする反作用である

  • それは究極的には死への希求にほかならない

  • しかし死はすべての終わりを意味するため、人は矛盾に突き当たる

  • ゆえに、エロティシズムは必然的に恐怖と不安を伴う

  • エロティシズムは恐怖と不安そのものである

物語全体は終盤の回想(初稿版では第二部「暗合」)を除けば、二部構成をとる。
前半では、語り手と少女シモーヌ、少年マルセルによる無軌道で倒錯的な行為が描かれる。やがてマルセルの死を通して、エロスが生と死の境界を侵犯する営みであることが露わになる。
後半の舞台はスペイン。大人の変態エドモンド卿が登場し、語り手とシモーヌとの三者による変態的行為が繰り広げられる。ここでは、贖罪の儀式を伴う別世界の祝祭(闘牛など)によって、エロスが象徴化され、宗教的な次元へと引き上げられていく。


少年と少女はやすやすと死を踏み越える

物語の中心にいるのは、語り手とシモーヌ、そしてマルセルという少年少女だ。 彼らにとって「禁忌」という言葉はない。最初からそんなものは存在しない。
なぜなら、彼らは少年少女だからだ。彼らのエロティシズムには様式が存在しないのだ。死すら、彼らの眼前にぽっかりと穴を開けているだけである。

こうして二人の娘は嵐の夜のなかで向かいあい、短い唐突な動きで自分の性器をさすったのです。身を硬くしてほとんど動かないまま、途方もない歓びのせいで目は据わっていました。マルセルは左手でしっかり鉄格子を握りしめていましたが、一瞬、透明な怪物が彼女をそこから引きはがしたように思われました。錯乱のなかで仰向けにうち倒されるのが見えたのです。私たちに残されたのは、空っぽの窓、黒い闇にぽっかりと開いた四角い穴だけでした。その穴は、私たちの疲れきった目を、雷と曙光からなる世界の一日へと導くものでした。

『目玉の話』中条省平訳、「太陽の黒点」より

したがって、マルセルの死体の上でシモーヌが処女を喪失する場面は、単なる倒錯ではない。
彼らのエロティシズムと死には様式がないのだから、いわゆる「性の目覚め」みたいなもんとは別だ。これはいうならば死を通じた不可逆な成熟の儀式である。子供のままではいられない、しかし大人の安全な性の様式には踏み込めない。その裂け目が少年少女の身体に刻まれる傷みが描かれる。

シモーヌは処女で、私たちは痛みを感じましたが、痛みを感じることにこそ満足していました。シモーヌが立ちあがって、死体を眺めたとき、マルセルは私たちとは無関係なものになり、シモーヌもまた私にとって無関係なものになっていました。私はシモーヌもマルセルも愛してはおらず、人から、たったいまきみは死んでしまったのだ、と告げられても驚きはしなかったでしょう。この一連の出来事から私は閉めだされていたのです。

『目玉の話』中条省平訳、「死んだ女の見開かれた目」より

成長と断絶、ディスコミュニケーション

この瞬間を境に、以降のスペイン編において少年と少女は決定的に変化する。
俺にはこのシーン、そして以降の物語が限りなく悲しく思える。昨日まで秘密を分け合ってきたかけがえのない友人が、ある夏の日を境に手の届かない領域にいることを知り、目の当たりにする悲しさ。誰にでも覚えがあるはずだ。

マルセルの自殺のあと、シモーヌはがらりと人が変わってしまいました。動かない目でぼんやりと空を眺め、よその世界にいるように見えました。すべてが驚屈のたねになっているようでした。まれにオルガスムスに達することがあり、そのときだけはこの世界に戻ってくるのですが、前よりずっと暴力的な興奮をしめすようになりました。その興奮ぶりときたら、たとえば未開人の笑いが文明人の笑いとかけ離れているのと同じくらい、通常の性の歓びとかけ離れておりました。
シモーヌは疲れた目を、淫らで悲しい光景に向けて初めて見開くのでした………。

『目玉の話』中条省平訳、「淫らな獣たち」より

シモーヌは「廃人」となり、もはや抑圧を直接生きることができず、エドモンド卿の手を借りて倒錯を痙攣的に維持するしかなくなる。語り手は、情熱を儀式によって「神秘化」することで生き延びる。二人は同じ死と情熱を共有したはずなのに、もう以前のように互いを理解できなくなるのだ。それがスペインの闘牛における血と死と熱狂をモチーフとして描かれる。
少年と少女の無防備で暴力的なエロスは、様式や神秘に回収され、かつての様式のないエロティシズムのほとばしりから遠ざかってゆく。


死を通じた唯一の再会と和解

しかし、物語終わりに奇跡が起こる。

私は立ちあがり、シモーヌの太腿を広げました。彼女は横向きに寝ています。このとき、私は、ギロチンが切断する首を待ちのぞむように、自分が長いこと待ちのぞんでいたもの――と思いますが――と対面したのです。あまりの恐ろしさに私の目玉は勃起するかと思われたほどでした。シモーヌの毛むくじゃらの陰唇のあいだから、マルセルの青白い目玉が見えて、尿の涙を流しながら私を見かえしてきたのです。湯気を立てる毛のなかで精液が糸を引き、それが痛ましい悲しみを添えて、この情景の仕上げをしているのでした。私はシモーヌの太腿を押し広げたままでおりました…。目玉の下を熱い尿が流れ、下の腿に伝っていました…。

『目玉の話』中条省平訳、「蝿の足」より

シモーヌの性器の奥に埋め込まれた、殺したばかりの司教からくりぬいた目玉。この目玉を通して語り手はマルセルと再会する。 死が語り手とシモーヌ、そしてマルセルをもう一度つなぐのだ。
これはエドモンド卿主導の儀式ではなく、シモーヌの意志によって行われた、前出の卵の遊戯の反復である。目玉をシモーヌの体の内部に押し込むという遊戯、マルセルが生きていて語り手とシモーヌがまだ少年と少女だった時の卵の遊戯、「シモーヌ」の章で描かれた遊戯である。

母親が部屋を出ていったとき、日が暮れはじめていました。私は浴室で、明かりを灯しました。シモーヌは便座に腰をおろしたままで、私たちは一個ずつ温かい玉子を食べ、私は恋人の体を愛撫し、残った玉子を彼女の体の上で滑らせ、とくに好んでお尻の割れ目のなかに滑りこませました。シモーヌは、白く、温かい殻をかぶれた、裸体のような玉子が、自分の臀部の下で沈没していくのをしばらく眺めていました。それから、玉子の落下音に似た音を立て、沈没の続きを演じてみせるのでした。

『目玉の話』中条省平訳、「シモーヌ」より

つまり、語り手とシモーヌの様式のないエロティシズムの復活が、かつての仲間であるマルセルとの再会として描かれているのだ。
もはや無垢な少年少女には戻れない。だけど死を介せば、失われた情熱と再び出会い、和解できる。それは決してハッピーエンドではないが、世界で最も破滅的で美しい友情の回復ではないだろうか。腐敗と快楽のなかで自他の境界を失ったつながりを友情と呼ぶならばだが。

物語は、廃人シモーヌと大人の変態エドモンド卿、いまだ少年である語り手の三人がヨットでジブラルタルから新世界へと漕ぎ出すシーンで終わる。
バタイユはここで、様式や神秘に回収されえないエロティシズム、つまり少年少女の最後の生命力を描き切っているのだ。


変態小説からジュブナイル小説へ

バタイユはこの『眼球譚』あるいは『目玉の物語』において、少年少女が「禁忌を知らないまま死を踏み越える」衝動と営みを描き、その後に訪れる死という不可逆の断絶、そして死を介した再会のかたちで「友情」を描ききった。
倒錯や変態の表象はこの物語の装飾ではない。バタイユは、例えばサドのように、倒錯のなかでしか言葉を紡げず、そこからしか真理を掘り出せなかったのだと思う。だからこの物語は、変態であることをやめないまま、友情や青春、そして死の通過を描ききった作品である。

サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』において、主人公ホールデンが「ライ麦畑の捕まえ手」(The Catcher in the Rye) という役割を夢想したように、本作の少年少女もまた、社会の様式や抑圧を知らぬまま、生と死の境界を疾走し、何かを捕まえようとした。
彼らが物語の最後で捕まえるのは、ライ麦畑で落ちていく子供ではない。友を失った絶望、失われた情熱、すなわち恐怖と不安そのものとしてのエロティシズムである。

少年少女が登場するからといって、『ライ麦畑で捕まえて』も本作も、いわゆる教養小説ではない。描かれているのは教育や社会の導きによって段階的に大人へと成長していく物語ではなく、一度きりの暴力的な通過によって引き裂かれ、二度と戻れない青春の断絶だ。
本作において描かれるのは、世界を安全に歩く大人たちからは決して見えない「成長の裂け目」であり、制度や教育への適合では決して到達できない、非可逆な成熟である。バタイユはこれをエロスと死によって露わにした。

このように、『眼球譚』あるいは『目玉の物語』をジュブナイルとして読むことは、変態文学の風変わりな再解釈ではない。
それは、かつて私たちが少年少女であったとき、理解も言葉も持たずに感じ取った世界の暴力と恐怖、そして友情のきらめきを、もう一度呼び戻すことだ。
失われたものは死によってしか和解できない。この残酷な真理こそが、バタイユが描いた「最も美しい青春小説」の核心であると思う。


眼球譚』の映画化『シモーナ』(1974)
主演はなんとラウラ・アントネッリ
こんなもん映画化しようとした奴がおるんや

この小説で俺が一番好きなシーンは、マルセルが収容されている精神病院に語り手とシモーヌが忍び込み、マルセルを奪回しようとする、そのとき二人とも、なぜか素っ裸というシーンです。ということで次回に続く。


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