洗濯を回しながら恋をするということ
昔、大学院生の先輩が、
「俺、フードコートって嫌い。生活って感じがして。あそこにいる人間にはなりたくない。」
と力説していた。
インテリ特有の、「生活感」に対する妙な潔癖である。
たぶん、鼻垂らしながら花丸うどん食べてる子どもとかを見たのだろう。
最近、与謝野晶子について調べながら、ふと、その先輩のことを思い出していた。
わたしは高校で国語を教えている。
授業の単元で、短歌についての評論があり、短歌に「私」を持ち込んだ1人として、
与謝野晶子とその歌が挙げられていた。
やわ肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君
めっちゃしゅき🫶
「道を説く君」に対して、「いや、まず触れろ」である。
身体が理屈に勝つ、みたいなのにわたしは弱い。
晶子の「みだれ髪」読んだ。
もう、むせかえるような恋情だった。
わたしのうすぼんやりした知識としては、晶子は「鉄幹との禁断の恋に生きた情熱の人」という印象であった。
しかし、調べていくうちに、「ただの恋に生きた女ではねえぞ」と気付かされる。
鉄幹と晶子は、思想のレベルで強く共鳴してしまった2人なのだと思う。
村上春樹が、恋とは、「猫が足を滑らせて、回っている洗濯機の中に落っこちたような状態」と書いていた気がする。
あの2人にもそういう「出会ってしまった」感がある。
理屈ではなく、どうしようもない引力。
「恋に落ちた2人」という言い方は、たぶん間違っていない。
でも、晶子を調べていると、「恋に人生を壊された女」という感じが全然しないのだ。
子どもを13人産み育てながら、執筆を続ける。
鉄幹の社会的評価が揺らぎ、庭で蟻を一日中潰してるような姿を見ても、愛し続ける。
源氏物語の新訳を何年もかけて書き上げ、あと少しというところで、火事で原稿が全て燃える。
それでも、また書き直し完成させる。
もうね、生命力のお化け。
「恋に人生を壊された女」というより、恋も生活も仕事も全部燃料にして生きた人に見えた。
先輩のフードコート発言は、
思想を持つことと、生活を引き受けることは両立しない、という考えに根ざしてるんだと思う。
でも晶子はそれを両立どころか混ぜてしまっている。
フードコートを嫌悪する思想より、洗濯を回しながら書き続ける人の方が、もしかしたらずっと強いのでは?
そんなことを考えながら、今日も娘の鼻水を拭いていた。
