鉄を叩き、心を鍛える ——包丁職人・渡瀬直次郎の一生
静かな火を灯しながら、人知れず鉄と向き合ってきた男がいる。
叩いていたのは、鉄だけではなかった。
包丁を通して誰かの仕事を支え、人の背をそっと押す――その生き方を、言葉にして残したい。
この記録は、昭和・平成・令和と三つの時代を貫いた無名の職人、渡瀬直次郎(仮名)の人生と哲学である。
無口な彼が初めて語った、「言葉にならない教え」のかたちを追った、自伝的インタビュー。
序章:一本の刃にこめたもの

火を起こすのは、夜明け前だという。まだ誰の声もしない時間に、炉の底で炭が赤く光る。渡瀬直次郎は、そこで黙々と鉄と向き合ってきた。
静かに鉄を置き、熱を見極め、間を計り、槌をふるう。
その動作は、決して派手ではない。
だが打つたびに、自身の中の余計なものがひとつずつ削られていくようだったと本人は語っていた。
包丁は、料理を支える 「道具」 にすぎない。
しかしその刃の奥には、握る者の覚悟と、打つ者の生き方が刻まれている。
彼はそう信じて、50年の歳月を炉の前で過ごした。
仕上げてきた包丁の数は、本人もすでに数えていないという。
だが、それぞれに向き合った時間だけは、すべて記憶に残っている――そう、静かに話してくれた。
これは、包丁職人・渡瀬直次郎の人生を辿る記録である。
鉄を叩き、刃を仕上げながら、自らの心をも鍛えてきたひとりの職人が、その手を通じて、言葉にならぬものを誰かに手渡してきた――その軌跡である。
第1章:雪深き里に生まれて

――直次郎さん、まずはご出身について伺います。どんな場所で育たれたのでしょうか?
「新潟県です。豪雪地帯と呼ばれる山間の村で生まれ育ちました。1950年代のことですから、冬になると家の周りは2メートル以上の雪に埋もれましてね。小学校に通うだけでも一苦労で、雪をかき分けながら、片道1時間近く歩いたものです」
――それは想像を絶しますね。どんな子供時代でしたか?
「家は決して裕福ではありませんでした。父は炭焼き職人で、母は親戚の農家の手伝いに出かけるかたわら、家では内職の仕事もこなし、細やかに家計を支えていました。私はというと、雪合戦をしたり、よく木の端材を使って工作をしていましたね。小刀で竹とんぼを作ったり、自分で凧を作って飛ばすのが好きでした。周りの大人からは器用な子だって言われていたのを覚えています」
――自然の中で育ち、手を動かす喜びを早くから感じていたんですね。
「そうかもしれません。家の中は寒かったけれど、手で何かを作っているときは不思議と寒さを感じませんでしたね。夢中になっているせいかな」
第2章:静かなる情熱

――幼少期を経て、思春期に差しかかるころ、どのような変化があったのでしょうか?
「中学に入る頃には、物静かな性格がよりはっきりしてきたと思います。人と一緒に騒ぐよりも、観察するのが好きでした。人の表情、言葉の裏、そういうものに敏感だったというか……。気を遣いすぎてしまうところもあった。今思えば、『職人気質』の芽が出始めていたのかもしれませんね」
――それは「距離を取る」ような意味合いも?
「そうですね。無理に人に合わせることをしなくなってきた。でも、それは冷たいわけじゃなくて、『誰かと深く付き合うには、自分を守ることも大事だ』って、どこかで感じていたんだと思います。信頼できる人とは長くつき合う、そういう人間関係が自分には合っていたんです」
――高校では美術部に所属されていたそうですね。
「はい。彫刻刀を手にして、木を彫る作業に夢中になりました。木の質感や年輪を確かめながら、この木には何が眠っているんだろうと考えるのが楽しかった。削っていくたびに、だんだんと何かが形になって現れる。その瞬間が好きでした」
――いま思えば、包丁職人としての原点のようにも感じますね。
「ええ。手を動かしながら、形にしていくという点では、共通しています。ただ、その頃はまだ『何者かになりたい』という漠然とした思いしかなかった。自分がどこへ向かうか、見えてはいませんでした」
第3章:東京で「なにか」をつかむ

――高校卒業後、すぐに上京されたんですね。
「ええ。18歳の春でした。新潟の山あいの町で暮らしてきた自分にとって『東京』という言葉は、まるで別世界の響きがありました。何があるかなんて、正直わかっていなかった。でも、何かを変えたかった。いや、つかみたかった。漠然としていても、そう思わせる何かが、空気としてその時代にはありました」
――その当時の東京は、高度経済成長の終盤に差しかかっていた頃ですね。
「そうですね。電車も地下鉄も、どこも人であふれていました。ビルもどんどん高くなって、タバコの煙と機械の音と、工事現場の鉄のにおいが入り混じっていた。あれはまさに成長のにおいだったと思います。ただ、地方から出てきた若者には、あまりに早すぎる流れだった」
――東京で最初に選んだ仕事は?
「料理の道に入りました。板前になりたいと思ったんです。手を使って、目の前の誰かを喜ばせる仕事。それが自分にできることかもしれないと思って。紹介されたのは、都内の老舗の日本料理店でした」
――厳しい世界だったのでは?
「とんでもなかったですよ(笑)。朝は暗いうちから市場、昼は下働き、夜は仕込みと掃除。怒鳴られる、叩かれる、包丁を投げられる……。今なら問題になりそうなことも、当時は 『当たり前』 でした。でも、不思議とやめようとは思わなかった」
――なぜですか?
「一言でいってしまえば、時代ですよね(笑)。厳しいのが当たり前だった時代だったんです。理不尽な叱責も多かったし、怒鳴られることなんて日常茶飯事。だけど、不思議と『ひどい人だ』とは思わなかった。むしろ、そうやって鍛えてもらった実感があったからこそ、いまの自分がある気がしています」
――いまなら問題視されるような指導もあったのでは?
「ええ。でも、じゃあそれが間違っていたのかどうか、正直わからないんですよね。叩かれたことよりも、なぜ叩かれたのかを自分で考えさせられた。それに、そこには憎しみなんてものはなかった。はっきりと理解できる加減 があったんですよ。指導って、結局その加減を知っているかどうかだと思うんですよ。厳しくするにも、ちゃんと手加減ができてる。そういう人こそ、本当に教える資格があったんじゃないかと、今でも思っています」
――現在ではすべてがマニュアル化されて、教育係も資格や肩書きで選ばれる時代になりました。
「そうですね。でも昔は、教えられる側が『この人から教わりたい』って思えるから、厳しさにも耐えられたという面があると思います。信頼が先にあったんです。そういう雰囲気や土壌が職場にあった。いま思えば、特別なことではなくて、それが現場という場所だったんでしょうね」
――そのような環境の中で、特に印象に残っている出来事があったと伺いましたが。
「ええ、ありました。ある日、仕込みが終わった遅い時間、大将が店の隅でひとり黙って包丁を研いでいたんです。誰にも声をかけられないような雰囲気で、砥石の表面に水を落として、刃をゆっくり滑らせていた。音は静かで『シャッ、シャッ……』 って、それだけ。包丁が砥石に吸いつくように滑るその音を聞いて、不思議な感覚になりました。『ああ、料理人の世界には、こういう静けさがあるのか』って。その瞬間、自分が惹かれているのは料理じゃなくて、道具そのものなんじゃないかと、初めて気づいたんです」
――料理そのものではなく、「道具」に目が向き始めたわけですね。
「そうです。自分がやりたいのは、料理じゃない。料理を支える『なにか』のほうじゃないか……。そう気づき始めたんです。それからは包丁の研ぎに夢中になって、先輩の包丁をこっそり研がせてもらったり、休憩時間に砥石の使い方を研究したり。気がつけば、この道具を作る側に回りたいと思うようになっていました」
第4章:ふたりの師匠、妻との出会い

――料理人として働く中で、「包丁職人になる」という大きな転機が訪れますね。
「あれは20代半ば、まだ都内の料理店で見習いをしていた頃です。包丁を研ぐのが好きでね、料理そのものより、刃物の重さや切れ味のほうに心を奪われていた。ある日、出入りの道具屋が『川崎のほうにすごい鍛冶職人がいる』って話をしていったんです。包丁を買うんじゃなくて、打ってみたいなら、あそこに行ってみろ、と」
――この一言が運命を変えた。
「ほんとうにそうでした。紹介された工房は、川崎のはずれにひっそりと構えられていて、主は無口な年配の職人でした。最初に挨拶したとき、こちらの目をじっと見て、『この仕事は、鉄じゃなくて、人間を叩くんだ』と言われました。意味がわからなかったけど、背筋が伸びるような一言でしたね」
――それから、弟子入りされた?
「その前に、料理屋を辞めるときのことを少し話させてください。
包丁を打つ仕事に進みたいと考えるようになって、ある夜、大将に時間をもらいました。
刃物の職人になりたい、と伝えると、大将は黙ったまま煙草に火をつけ、しばらく何も言いませんでした」
――そういうときの沈黙は長く感じる気がします。
「そうですね。どれくらいの時間が経ったかわからないのですが、ようやく口を開いたときに言われた台詞が、
『……まあ、そういう顔してたよ。砥石に向かうときの目つき、あれはもう料理人じゃなかったからな』です」
――見られていたんですね。
「はい。私も驚きました。多くを語らない人でしたが、ほんとうによく見てくれていたんだと思います。
自分では無意識だったけれど、砥石の前に立っているときの集中のしかたや、研ぎ終えた包丁の仕上がり――そういうものを、大将はずっと見ていたのでしょう」
――当時、直次郎さんが研いでいた包丁について知りたいです。
「そのことについても、このとき大将から聞かされたことがあります。
『お前が研いだ包丁は、誰もお前が研いでいるとは気づいていなかったが、みんな先を争って使いたがってた。よく切れる一本としてな』と」
――それは、職人としてはうれしい言葉ですね。
「ええ。心に沁みました。そして最後に、大将がこう言ったんです。
『お前なら、どこに行っても仕事はきちんとこなせる。そういうつもりで鍛えてきた』」
――厳しかった日々の意味が、そこでつながったわけですね。
「はい。思い返せば、怒鳴られたことも、失敗して叱られたこともたくさんありました。
でも、あれは料理だけでなく、仕事に向き合う姿勢を教えようとしていたんだと、今になって思います。技術よりも、構え。どこへ行っても通じる『芯』のようなものを、大将は教えてくれていたんだと思います」
――そうして、鍛冶職人の道へ進む。
「紹介された鍛冶師のもとに通い始めて、やがて住み込みで働かせてもらうことになりました。朝は火起こし、昼は鉄と向き合い、夜は炉の手入れ。まったく違う世界でしたが、大将のあの言葉を心の支えにして、毎日を重ねていきました」
――住み込みというのも時代ですね。大変だったのでは?
「煤だらけのまま床に倒れ込むように眠る日々でしたね。鉄を叩くのは、ただ力を入れればいいというものじゃない。熱の入れ方、冷まし方、打つ角度、音、匂い、すべて『手で覚えろ』という教えでした。理屈より先に、五感を叩き込まれる世界でした」
――料理の世界とはまったく違う世界だった。
「ええ。料理屋で学んだことは確かに土台にはなりましたが、鍛冶の世界は、また別の厳しさがありました」
――どのような厳しさですか?
「師匠は、大将のように怒鳴ることはありませんでした。声を荒げることも、無理にやらせることもなかった。でも、そのぶん――何も教えてくれないんです」
――何も、ですか。
「見て覚えろ、の世界でした。『感じるようになるまで手を出すな』という考え方で、 わからないなら触らなくていい、と。そう言われて、 本当に一日中、ただ立ったまま、火を見て、打つ手元を見つめて終わる日もありました」
――それは、相当に堪えたのでは?
「正直、悔しかったですね。でも、だからこそ必死になれたのかもしれません。 寸暇を惜しんで、兄弟子たちを質問攻めにしました(笑)。火の温度、鉄の音、打つ角度、砥石の扱い――手をつけられることは、なんでもやりました。 掃除でも、道具の整理でも、研ぎの片付けでも。これは自分の手で盗むしかない、という気持ちで日々必死でした」
――言葉ではなく、身体で叩き込む。
「はい。あの時期に培った『五感で学ぶ』という姿勢は、今も自分の中に残っています。 火の揺らぎ、鉄の色、砥石の水の引き方――言葉にならないものを感じる力。それは、師匠があえて語らなかったからこそ、身についたものだと思います」
――そして、この時期にご結婚もされましたね。
「はい。29のとき、母からの縁談で同郷の女性と見合いをしました。彼女は新潟出身で、物静かで、でも芯のある人でした。鍛冶場で真っ黒になってる姿を見て、なんでそんなに夢中になれるの? って笑ってましたよ。でも、そんな自分を否定せず、理解してくれた」
――生活は大変だったのでは?
「ええ、見習い職人としての収入なんて、最初はあってないようなものでした。毎月の生活費だけで赤字になることも珍しくなかったです。
それでも、工房では師匠が『食うことだけは心配させない』という昔ながらのやり方を守ってくれていて、夕飯は弟子とその家族全員分を毎日用意してくれていました。
奥さん連中がみんなで料理をするんです。あの食卓がなければ、ほんとうに厳しかったと思います」
――家庭との両立はどうされていたのですか?
「結婚してからは、安アパートで暮らしながら、昼は工房、夜は家という日々でした。妻が毎朝にぎってくれるおにぎりをかばんに入れて、夕飯まで食いつなぐ。あの頃は、気持ちだけで前を向いていたように思います」
――奥様は、そんな生活に不満を言われなかったのでしょうか?
「私も不思議に思っていました。でも妻は文句ひとつ言いませんでした。
ある日、ふとした拍子に、こんな暮らしでいいのか? と漏らしたことがあるんです。すると彼女は、静かにこう言ったんです。
『あんたが夢中で打ってる包丁は、いつか誰かの人生を支えるんだよ』と。
あの言葉は今でも、心に残っています。
たしかな根拠なんて何もなかった時期でしたけど、その一言に、自分のすべてが肯定されたような気がしました」
――ご家族がいる、支えてくれる人がいる、ということが励みになった。
「ええ。鉄を叩いているのは、形を作るためだけじゃないんです。心を研ぐ作業でもある。妻の支えがなければ、その意味に気づくこともなかったと思います」
――その後、お子さんにも恵まれた。
「はい。息子と娘がいます。でも、この道を継げとは一度も言いませんでした。人間は、自分で選んだ道しか本気になれない。親が敷いた道なんて、長くは続かないと思ってたから」
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