『ドールズ・ハイ』 第1章『黒の残響』第38話『波形観測』
―あらすじ―
観測棟で行われた《同期波形観測》授業。
各班の同期特性が数値化される中、カイン班は理論完成型として極めて安定した波形を記録する。だが、アルトとノアだけは既存理論を逸脱した異常反応を示していた。
本来、リンカーとゲゼールは近づくほど侵食危険度が増し、同期波は乱れていく。だがアルトとノアは逆だった。距離が縮まるほど、同期は深く、そして安定していく。
観測中、アルトは再びノア視点へ引き込まれ、教師側は即座に記録制限を実施。教導院内の空気はさらに緊張を強めていく。
そして最後。
波形モニタには、“存在しないはずの第二波形”が一瞬だけ現れるのだった。

第38話『波形観測』
観測棟は、教導院の中でも静かな場所だった。
渡り廊下の先。
他の訓練区画から半ば切り離されるように建てられた灰色の棟は、夕方の白い空を鈍く映している。
窓際へ吹き寄せられた落葉が、乾いた音を立てていた。
アルトは無意識に視線を向ける。
その瞬間。
――遠い。
そんな感覚がよぎった。
自分が今いる場所が、少しだけ現実から離れているような。
「アルト」
ミレイの声で意識が戻る。
「あ……悪い」
「最近それ多い」
責める口調ではない。
むしろ抑えている。
不安を。
ルナがミレイの肩後方で静かに浮遊していた。
青白い光膜が、今日はいつもより狭い。
警戒している時の反応だと、アルトももう分かる。
◇
観測室へ入ると、空気が変わった。
金属と微弱電流の匂い。
白い照明。
壁面を埋める波形モニタ。
半円状に並ぶ観測席。
教室というより、研究施設に近い。
生徒達の声も自然と小さくなる。
「ここ、初めて入った……」
リオが辺りを見回す。
フェルはその肩近くを漂いながら、落ち着かなさそうに周囲を警戒していた。
観測室中央では既にシエラ班が機器調整を始めている。
シエラは端末へ視線を落としたまま呟いた。
「同期波形観測……本来は上級課程なのに」
「前倒しされたんだろ」
エドガーが低く返す。
その視線は、やはりノアへ向いていた。
黒殻型は観測室端で静止している。
光を吸うような黒。
静かすぎる。
喋らない。
動かない。
なのに、いるだけで空気が重くなる。
白い亀裂だけが微かに脈動していた。
誰かが小さく息を呑む。
「全班、指定位置へ」
教官の声。
ガルドだった。
今日はいつも以上に表情が硬い。
生徒達が配置につく。
床面へ投影された同期円。
リンカー位置。
ゲゼール位置。
距離測定ライン。
「本日は同期波形観測を行う」
壁面モニタへ複数の波形図が浮かび上がる。
「同期は個体ごとに異なる。適性、精神特性、ゲゼール形状、感情応答……全てが波形へ現れる」
モニタ上で波が揺れる。
滑らかなもの。
細かく乱れるもの。
強く鋭いもの。
「重要なのは安定性だ」
ガルドは続ける。
「戦術理論は全て同期安定を前提として構築されている」
◇
カイン班の波形が表示される。
整っていた。
無駄がない。
ヴォルグの高出力波形を、カイン側が綺麗に制御している。
「理論完成型」
シエラが小さく呟く。
確かに美しい波形だった。
上下幅は大きいのに崩れない。
制御されている。
続いてアルト班。
ルナの干渉波が周囲同期を支えるように広がる。
柔らかい波。
安定型。
「司令塔向きだな」
ダグが感心したように言う。
ミレイは何も返さない。
ただ、アルトをちらりと見た。
次だった。
空気が少し変わる。
全員が無意識に視線を向ける。
アルトは観測円へ立った。
ノアが静かに前へ出る。
距離五メートル。
通常領域。
観測機器が起動する。
波形表示。
最初は普通だった。
だが。
「……え?」
シエラの声。
波形が急激に深く沈む。
通常同期より、更に下。
深層域。
モニタ上へ未知の数値が走る。
「同期深度、異常上昇……?」
「そんな値あるのか?」
ざわめき。
アルトは息を呑む。
その瞬間。
視界が揺れた。
低い。
黒い。
床面へ近い視点。
ノア。
まただ。
自分の目ではない。
黒殻越しの視界。
観測室。
人間達。
白い光。
全部が違う感覚で見える。
「――アルト!」
ミレイの声。
意識が戻る。
気付けば、アルトはまた前へ踏み出していた。
ノアへ。
距離四メートル。
三・五。
波形がさらに変動する。
普通なら乱れるはずだった。
なのに。
「安定してる……?」
シエラが呆然と呟く。
「近づくほど……?」
観測波形が滑らかになる。
異常だった。
理論上あり得ない。
通常リンカーなら侵食負荷で波形崩壊を起こす距離。
だがアルトとノアは逆だった。
深く沈み込みながら、安定する。
◇
ガルドの表情が変わる。
「記録制限」
低い声。
観測員達が即座に反応する。
「外部保存を停止しろ。第三記録領域へ隔離」
空気が張り詰めた。
生徒達も察する。
これは授業じゃない。
何かがおかしい。
「……そこまでなのか」
カインが小さく呟く。
ヴォルグが低く駆動音を鳴らした。
警戒している。
アルトではなく。
ノアを。
エドガーは完全に顔色を変えていた。
「あれ……本当にゲゼールなのか?」
誰も返事をしない。
ノアは静かだった。
ただ。
白い亀裂だけが微弱に発光している。
呼吸みたいに。
脈みたいに。
アルトはそこから目を離せなかった。
怖い。
なのに。
もっと見たいと思ってしまう。
もっと深く。
もっと近く。
理解したい。
その感覚に、自分でぞっとする。
「アルト」
ミレイが横へ立つ。
半歩前へ。
守るみたいに。
「もう下がって」
「……ああ」
返事をするまで、一瞬かかった。
ノアから感覚が剥がれない。
耳奥でノイズが鳴る。
遠くで水音みたいなものまで聞こえる。
あり得ない。
ここに水なんてないのに。
周囲の生徒達は、少しずつ距離を取っていた。
露骨ではない。
だが確実に。
アルトはそれに気付いてしまう。
ダグ班は半分興味本位だった。
「逆にすげぇよな……」
「いや笑えねぇだろ」
シエラ班は違う。
本気で分析している。
恐怖より先に、理解しようとしている目。
そしてエドガーだけが、完全に怯えていた。
まるで。
見てはいけないものを見てしまったみたいに。
◇
観測終了のアナウンスが流れる。
だが空気は動かない。
ガルドは端末を見つめたままだった。
その横顔が、僅かに強張っている。
アルトはふとモニタを見る。
最後に一瞬だけ。
波形画面へ別の線が走った。
黒い主波形。
その奥。
重なるように。
もう一つ。
細く白い波形。
存在しないはずの第二波形。
それは、人の鼓動みたいに一度だけ脈打ち――。
次の瞬間には消えていた。
