共感資本主義に感じる気持ち悪さ~ただそれは当たり前過ぎて、何かにつかわれる類のものではなかった〜
共感共感と頻繁に目にするようになってから、うるさく感じている。ぼくは昭和の終わりごろに生まれ、平成、令和を生きてきたが、何を今さらと思っている。無知で実績のない一般人の戯言と思われるかもしれないが、毎日をごくふつうに生きている。ここでいう「ふつう」とは可もなく不可もなくという程度の意味だ。
共感をベースに生きるということは、おおくの人にとって当たり前のことであるように思われる。先生の言葉や、マンガやアニメの世界観、友達との遊びを通じて得られる体験や喜び、だれかに対する悪口や、数学の問題に対する難しさ、学校というものの存在意義、人間関係や男女関係の話から将来への不安に至るまで、さまざまなことで色々な人たちと共感しながら生きてきた。
購買活動においてもそうである。ぼくは7年ほど前に新しいカバンを買った。それはなにかの廃材をリサイクして作られているうえに頑丈なカバンであった。その時の自分には高額であったが、それを買ったのは紛れもなく「廃材をリサイクルして役立てるうえに、さらにカッコよく実用的なものつくろう」とする会社のビジョンに対する共感であった。今のところ、このかばんを買い替えるつもりは、修理不可能になった場合を除いてはない。共感資本主義という言葉がなくても、共感による経済活動はずっと行われてきたのだと思われる。
カフェや雑貨屋など、お店にしてもそうである。ぼくが「またきます」と帰り際に言うお店は、本当に「また来たいと思ったお店」であり、実際にまた行くのである。それこそが「店主の生き方や人柄・お店そのものに共感した結果」なのだ。反対に、「この人には共感しない」と思ったら口が裂けても「またきます」なんて言わなかった。こうした共感の世界は、ぼくの短い10年と言わず、きっと何千年も前からこの世界にずうっとあったものだろう。
ただ、それは当たり前のこと過ぎて、何かにつかわれる類のものではなかったのだ。
この世界では、みなすぐに名前を付けたがるらしい。ぼくは毎日たくさんの言葉を話し、思考しているが、いっそ人間に名前がなかったら、なんて考えたこともある。新語や流行語の中には新しい言葉が生まれ、新しい価値観をおおくの人が捉えられるようになっているが、それは本当にそのことを捉えているのだろうか。ことばは本当に「そのもの」を捉えているのだろうか。
とはいえ、この言葉に関しては、推進していくツールとしての側面が大きいのだろうから、捉えているというよりは提案していると言った方が良いのかもしれない。
ぼくが共感資本主義という言葉に気持ち悪さを感じる理由は、そもそも資本主義・社会主義という仕組み上のことばと、それらに馴染まないからなのかもしれない。こんなところに連ねたところで、なにか変わるわけではないし、人間社会が経済活動というものによって理解されている以上、抗いようのないことである。いちおうぼくも毎月働いて給料をもらっているし、ローンもあり、たしかに貨幣経済の中に生存し、存在しているのだが、ぼくにとってのお金はポケットのキャンディーや水などと変わらないように思われる。物の形をしているか、お金の形をしているかの違いのようなのだ。あれば使うしなければ使わない。いや、別に共感資本主義が、お金を得るために共感をツールとして利用するなどといった冷たいイメージを持っているわけではない。
ただ、どうしてもお金というものと結びついてしまうところに、腑に落ちないところがある。これは僕の実情ではなく精神が根本的に資本主義経済というものに合わないせいだろうと思う。
ところで共感資本主義というのは、企業や個人が営むものが「共感」を資本として、自社やサービスを心から応援してくれるお客様たちに支えられ、必要で十分な利益を得ながら繋がりの中で営みを続けていくのだ、的なイメージでとらえている。これはおそらく、かなり浅い理解である。
しかしここまでで、消費者主体というキーワードは出てこないのだろうか。経済はいつも企業や店主が回しているのだろうか。
ぼくが問題に思うことは、イワシの群れのような消費者の側の行動なのである。これからきっと多くの人々が「共感させられて」生きていくことになるだろう。消費者みずから、消費者としての質を高めるという発想を持たず、いつの時代も大枠のしくみの中で泳ぎ回っている、それはぼくとて同じものなのかもしれないが、果たしてそれでよいのだろうか。
小魚アーモンドの袋詰めにされていく日本人が行き着く先はどこなのだろうかと心配である。日本人が、と記したのは普段見ているのがたいてい日本の光景だからである。
共感資本主義は、それらを回す側の言葉である。消費者であるイワシたちの幸福は、実はイワシ一尾一尾の動き方、各々の関係性の構築の仕方によっていかようにも変えられるのだということを、消費者自身が、もっと知っていかなくてはいけない。のだが、きっとそれを知っている人たちは別に不満も違和感もかんじてはいないだろうから、世に届くところで発信することはなく、ごくありふれた幸せな生活を、じつは毎日送っているのだと思う。
