【短編小説】あの夏の光をまだ覚えてる
「え、なに、それ。」
「知らなかったの?」
「いや、知らなかったって、もう言えないでしょ。知らなければいいって話じゃないし。」
最悪だ。
超がつくほど、最悪だ。
不倫。
それも、私のほうが裏切る側。
本当に知らなかったなんて、誰が信じるだろう。でも、気づかなかった。こんなにも自然に、禁じられた場所に足を踏み入れていたなんて。
「で、俺たち、どうする?」
「どうするって、何を。」
「ハナは、その…野々村さんは知ってると思ってた。知らないってなると、こっちも困る。」
「あぁ。つまりもう、終わりにしたいってことね、牧瀬先生。」
その名前を口にした瞬間、遠い日の、蝉の声がよみがえった。
最初に牧瀬先生を見たのは、高校の転校初日だった。朝の光が強くて、世界が白く滲んでいた。体が重く、心も同じように沈んでいた。私は校門の前で、立ち止まったまま動けずにいた。
そんな眩しさの中、自転車のブレーキ音と共に、声がした。
「ここの生徒?」
「あ、はい。でも今日はもう帰ります。」
「どうして。」
「初日から遅刻って、ちょっと。」
「具合が悪いの?」
「え?」
「具合が悪いんでしょ? ちょうどいい。俺が君を介抱してたことにしてくれない?」
「は?」
「転任初日の遅刻ってのも、いろいろアレでさ。」
その笑顔を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。朝の眩しすぎる光が、やわらかく見えた。
牧瀬先生は、教師に見えないほど若かった。どこか世間と距離を置くような、静かな人だった。モテることにも、誤解されることにも、慣れている。優しいけれど、どこか淡々としていた。
私は不自然なタイミングでの転入だったし、家庭環境にまつわる噂の多い転校生だった。ここの方言に慣れなくて、うまく喋れなかったから友達もできなかった。
だからいつも図書室にいたし、そこだけが居場所になった。先生も、よくそこにいた。
「何を読んでるの?」
「この辺も面白いよ。」
そんなやりとりが、救いに感じた。最初は、うっとおしかったし、放っておいて欲しかった。
けれど、お互いがすすめる本を貸し借りするようになり、感想を言い合う時間が増えた。その時はそれだけで十分だった。
いつでも話を聞いてくれたし、真剣に答えてくれた。ずっとこんな日が続けば、卒業まで頑張れると思った。
けれど、先生は突然学校を辞めた。
理由は誰も知らなかった。
何年も経って、私は社会人になった。さらに数年後、転職先のオフィスで、先生と再会した。
「ハナ?」
その声で、時間が一気に戻った。
あの夏の光も、本の香りもすべて。でも今度は、生徒と先生じゃない。同じ会社、同僚だった。
そう思っていた。
「わかった。この花火を見たら、終わりってことね。」
私が決めるしかない。夏の思い出には、特別な性質がある。なかったことにできそうな気がする。『ひと夏の思い出』はキレイでいいではないか。
「ずっと聞きたかったんだけどさ、なんで俺だったの?俺、仕事はできないし、キャリア組のハナは、興味なかったはずだよね?」
「実はね、ずっと先生と付き合うことに憧れてたの。女子高だったから、独身の先生はいつも誰かと噂になってた。私はそんな子たちをバカにしてたけど、本当は羨ましかったんだと思う。」
「あぁ、でも俺もう先生じゃないし。」
「私、数字が苦手でしょ。入社して二日目に、資料のミスを見つけたでしょ。あの瞬間、やっぱり先生だ、って思ったの。カナタといるときは、バカでいいって思えた。職場で牧瀬先生って呼んでたのも、その頃の夢を味わいたかっただけ。私の甘え直しに付き合ってくれて、ありがとう。最後に、奥さんってどんな人?」
「女子高生。やっと卒業だから、結婚する。」
彼の人生には、いつも生徒がいる。今までもこれからもずっと。
花火の残り火が夜空に流れていく。光のあと、空には、何も残らなかった。そして秋が来て冬が来る。
それでも私は、あの夏の光を、まだ覚えている。
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