飾らないで書くたび、私は少し強くなる。
最近、ただ食べているだけの動画を見ています。
黙ってご飯を食べている。特別おしゃれでもなく、劇的な展開もなく、ただ目の前のものを食べている。
たまに「ああ、おいしい」と言ったり、「これはいただきものです」と言ったり、突然脈略のない、推しのチケットがとれなかったとか、くじで散々だった話をしたり。抑揚は少なめで、飲み物を「お茶です」と言ってひと口飲んで、また食べる。ときどき画面から予告もなくいなくなってしまうけれど、戻ってきても説明をしない。フリースタイルの鏡だなぁと思います。
時々一点を見つめて一本きゅうりを食べる、音だけが響く。BGMもない素晴らしさを感じるわけです。
タレントさんなんですけどね、何名かいらっしゃって、ループしてます。どなたもTVやイベント、舞台では、すばらしいトークやエンターテイメントを繰り広げるのですが、YouTube動画はリラックスしている雰囲気。ものすごく落ち着いていて。
思い出したようにコメント欄で気になったものに回答したり、「ほんと、ありがとうございます。」と告げたり。
そういうものばかり見てしまいます。食べることも好きだし、無心の時間にトゲトゲした私の心がポキポキ折れてゆくのです。「なーにをそんなに尖ってるの?」と思えると言いますか。好きなように食べていらっしゃるのを見ては、私のご褒美飯を選ぶこともあります。
飾っていない。うまく見せようとしていない。ちゃんとしていない瞬間まで、隠さずそのまま出している。
そういうものに、妙に心が落ち着くのです。たぶん私は、完成されたものより、生活を見たいのだと思います。その中にやっぱり落ち着きとか冷静さとか、腹が据わってる強さを感じるんですよね。
頑張るときは張り切るけれど、生活もしている。少し疲れている途中でも、食べて元気を出す。そういう姿には、安心があります。
しかも、コメント欄を見ていると「疲れた人の行きつく動画」「また生きていける」的なのが多くて。私もそう思っている一員なのですけれど。癒されるだけともちょっと違う、心根の深いところにじんわりチャージされてゆく何かがあるのです。
映えなくていい。
創り上げられていなくていい。
そのままを曝け出してゆく。
こちらも飾っていることに疲れていると改めて気づく、自由でいたい、そのままを解放したいことに気づいて、憧れを投影しているよう思います。
それを見ながら、私もnoteでそんな記事を書きたいと思ったんです。
何かすごいことがあった日だけを切り取って書くのではなく、エピソードとして成立しなくても、創作と呼べなくても、私の好き放題をダダ漏れさせてみようなんて。
うまくまとめなくてもいい。
学びに変えなくてもいい。
きれいな言葉にしなくてもいい。
それを許していきながら書いてみようと。
そしたら、飲んだり食べたり、家事をすることが中心にあって。エッセイや日記というと聞こえがいいものの、ただの実況。何者でもない私が、爆食したり、ひとりで呑んだり、生活感ログをしてみる。
私は一般人ですから、舞台裏、オフの姿の希少価値的にはなりませんけどね。「芸能人だからなんでもない日常に興味があるんだ」っていう考えもありますしね。
でも、ですよ。
書いてみるとわかることがあるんです。

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