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その答えの前に、立ち止まること

また軍備増強の話が熱を帯びている。

防衛費の増額、反撃能力、核共有。世界のどこかで対話の通じない出来事が起こるたびに、この話題は熱を帯びる。武装しないことがリスクだという言葉が、強さを増して聞こえてくる。

エマニュエル・トッドが、こんなことを言っていた。いま大事なのは、自らに考える時間を与えること。そのためには、何もしないこと、いったん立ち止まることが必要なのだと。そのために、日本も核を持てとトッドの言葉は続く。立ち止まった先で、彼はわたしと逆の答えにたどり着くのだけれど、それでもいい。

今日は、武装に賛成するでも反対するでもなく、いったん立ち止まって、まず考えてみたい。この議論のもうちょっと「手前」にあるものについて。

−−−「覚悟」と「責任」の話をしようと思います。

すべての軍隊は国防

まずはじめに、みんな忘れているかもしれないけれど、現代の国際社会において、侵略戦争が許された国などもう存在しない。世界中にあるすべての軍隊は「防衛のため」なのだ。どの国の軍拡も、軍事作戦も、その国にとっての国防でしかない。その意味で、現代社会において軍隊と自衛隊の違いもほぼないといっていいだろう。

同時に、自衛の意味は国や立場によっても大きく変わる。自分を守るための武装は、相手の国にとっては脅威にもなる。その脅威に対抗しようと相手も武装する。するともっと不安が募り、もっと武装を強化する。もっと、もっと。。。

軍備とは、守る手段であると同時に、攻撃の能力でもある。「意図」はいくらでも移ろうけれど、「能力」は残りつづける。この二面性を原理的に切り離すことは、誰にもできない。

友人の「顔」を思い浮かべるとき

「隣国が攻めてきたらどうする」という問いには、ひとつの前提が静かに仕込まれている。攻めてくる「国」と、守るべき「国」という概念だ。

でも、わたしにはいまや地球上のどこにでも友達がいる。親族がいたりもする。中国にも香港にも台湾にも韓国にもブラジルにも友達がいて、アメリカにはお世話になった多くの人が暮らしている。その友達や家族と向かい合っているとき、相手は「何(国)人」でもなく、ただの友人だ。個人と個人の関係のなかに、国家という概念は存在しない。

日本人を守るために◯◯人 = 友人を傷つける。この原理は、わたしのなかでどうしても消化できない。

国境という括りは、せいぜい200〜300年ほどの歴史しかない国民国家が引いた線でしかない。数百年たった今、テクノロジーによって物理的な距離が圧倒的に近づいた現代で、その枠は過去のいかなる時代よりも曖昧なものになっている。

そのストーリーをあなた自身が自明のものとして受け入れたときにだけ、国境という「枠」が鮮明に浮き上がる。「敵国」はドラマのように明確な悪意を持っているわけではなく、彼らもまた家族を守ろうとしているだけの善良な市民だ。戦争の準備はいつも、その友人ひとりひとりの顔にベールを被せるところから始まる。個別具体的に、「顔が見えている」なかで人は戦えない。

国というアイデンティティ、そのストーリーに囚われてしまうと、地球上にある多様でダイナミックな、人と人との、ひとつひとつのつながりが見えなくなってしまう。

恐怖による選択 = 反応である

武装強化を求める声の根っこにあるのは、おおくの場合恐怖だ。失いたくない。やられる前に備えたい。利害を異にする2人の人間がいて、一方が素手で、もう一方がナイフを持っていたら、ナイフを持っているほうが、圧倒的に脅威に感じる。その感覚はシンプルに真実だ。だから、その恐れからくる感覚を否定しようとは思わない。

ただ、ちょっとだけ、その恐怖の前で、立ち止まって見てみてほしい。

「怖いから武装する」とは、選択という名の「反応」ではないだろうか。そこに自らの選択の意思があると本当にいえるだろうか。不安や恐れという入力に、武装という出力が自動的に返ってくる。恐怖が恐怖を呼び、備えがさらなる備えを求める。執着が執着を生む連鎖には、終わりというものがない。

以前、老子を読んでいて、ハっとしたことがある。これは老子の直接の言葉ではないのだけれど、わたしたちは二元性の世界で生きていて、安心という言葉がその対極の恐怖をつくりだす。わたしたちのマインドが、何かを強く求めるとき、いつもその対極を同時に生み出してしまう。抑止力で安心を求める営みは、求めるほどに、手放したかったはずの恐怖を再生産していく。軍拡競争の螺旋は、この心の習性が国家のスケールで起こっているだけかもしれない。

クロポトキンという思想家が、150年ほど前にこんな観察を残している。生物の進化を進めてきたのは、苛烈な相互闘争よりも、むしろ相互扶助のほうなのだと。「過酷な生存競争」という言葉は、ずいぶん濫用されてきた。いちばん「強い者が生き残ってきたわけではない」のだから。むしろ、生き残ってきたのは、困ったときに助けてもらえる関係のなかにいた者たちだ。わたしたちは感覚的にそれを知っているのに、どこかで、強者にならねば生き残れないというストーリーに押しつぶされそうになっている。

怖いから武装する、という結論は、この古いストーリーの上に立っている。

覚悟のはなし

何があれば、この恐怖によって描かれた「ストーリー」は本物の物語になるのだろう。

わたしはそれを「覚悟」だと思っている。

誰かを傷つけるかもしれない、傷つけられるかもしれない。その可能性から目をそらさず、かといって恐怖に飲まれてもいない、静かな状態であること。

お互いに銃を頭につきつけ合った二人が平和を取り戻すには、どちらかが先に銃を下ろさなければならない。それにはとてつもない胆力がいる。平和というのは、理屈や力によって作られるのではなく、覚悟なのだと、わたしはずっと思ってきた。

ここで大切なのは、覚悟とは結論のことではない、ということ。

覚悟を持つというとき、必ずしも非武装を選べと言ってるわけではない。むしろ、覚悟という土台に立ってはじめて、武装も非武装も、対等な選択肢として目の前に開かれる。覚悟を経た武装防備なら、それはこれだけのリスクと権限の委譲を引き受けるという、勇気ある本物の決断になる。これはもう意思のない反応とは違う。また、覚悟を経た非武装なら、それは侵略されるかもしれない、それでもこう生きるという、逃げのない意志になる。

この覚悟があって初めて、武装強化と非武装化の議論は、同じ重さで、並んで立てるのだ。

いま、武装論だけが現実的とされ、非武装論が理想論と呼ばれるのは、論理の優劣ではなく、片方だけが恐怖という追い風に乗っているからだと思う。覚悟は、結論を縛らない。ただ、議論を本物にする。

その土台を通らないまま導き出される選択は、いずれも恐怖の「反応」にそれらしい大義をつけているだけなのだ。

責任のはなし

もうひとつ、国防とは、「誰」を守るためのものなのか、ということ。

政治学者のルドルフ・ランメルによれば、「20世紀では、多くの人々が彼ら自身の独裁的な右派あるいは左派の政府によつて冷酷に殺され、その数は戦いの中で死んだ者の3倍である」。デモサイド——政府が自国民を殺すこと。軍隊は国家を守るためのものであって、必ずしも国民を守るものではない。沖縄の歴史も、世界中の軍政下の弾圧も、同じことを物語っている。これは偶然ではなくて、構造の話。

わたし個人が力を行使するとき、その暴力はわたしの関係性のなかにある。目の前にいるのが友人や恋人、愛娘ならそう簡単に殴れないだろう。顔が見えるかぎり、暴力には自然なブレーキがかかる。個人の持ちうる力は、個人の倫理と切り離せないからだ。

ところが、武力を「国家に委ねた」瞬間、その暴力はわたしの関係性から切り離される。国家の暴力には、わたしの友人の顔が映らない。「敵国」というカテゴリに向けてミサイルは飛ぶけれど、そのなかにわたしの友人がいる、わたしの愛する人がいるという事実は、システムのどこにも反映されない。愛する人のいる「敵国」にたいして、名も知らない誰かが住んでいる「自国」を守るために、ときとしてわたしたちは、武力を行使しなければならなくなる。

加えて、外国人の顔を見えなくする装置は、自国民の顔すらも見えなくする。デモサイドの数字は、その帰結なのだと思う。

武力をより大きな存在に委ねても、「責任」の所在は消えない。それは、見えなくなるだけなのだ。

国家があらゆる社会的機能を引き受けるようになるにつれ、人びとは国家への義務が増えるのと引き換えに、人びと同士のあいだの義務から遠ざかってゆく。隣人が病気になっても、病院の場所を教えれば十分だと考えるようになったようにね。安全保障も、同じ道をたどっているのかもしれない。守ることを国家に委ね、わたしたちは互いを守り合う関係から、すこしずつ手を引いてきた。

軍備強化とは、政府に対してわれわれの持ちうる暴力性を委ねることだ。その判断を政府に委譲するということは、自分の倫理を手放していく行為でもある。憲法っていうのは国が国民に押し付けるものではなく、国民が政府に対して命令するためのもの。その憲法を改定するということは、政府に対してその命令の手綱を緩めようということになりえる。そのことに気づかないまま進む議論には、「覚悟」も「責任」も、行き場を失う。

失った覚悟と、手放した責任

正直に言えば、わたし自身は非武装しかないと思っています。絶対に使われない武力などがあると思えないし、相手に銃を突きつけておいて平和を願うことが道徳的だなどとも到底思えない。抑止だといいながら核をもつ。核抑止がほんとうに平和を生むなら、「全ての国」に核をもたせればいいのだ!にも関わらず、我が国はいいけど、おまえの国はダメだって、もっともらしい理由をつけて線引がなされる。

わたしたちが、直感的に感じる「違和感」はたいてい正しい。その違和感を、恐怖や頭でっかちの理論でなかったことにしてはいけない。

でも、それは同時にわたしがたどり着いたひとつの結論にすぎない。もし、この「覚悟」と「責任」を重く引き受けた市民が、それでもなお武装という道を選ぶのなら、わたしはその選択を、自分の社会の決定として引き受ける覚悟がある。冒頭のトッドが立ち止まった先で核保有を選んだように、同じ入口から、わたしと逆の場所へ出る人がいる。

それでいいのだ。

覚悟が通っていれば、その議論はどこまでも開かれている。むしろ恐怖に閉じてしまうことのほうを、わたしは恐れている。

静かな希望

このように書くと、重たい話に聞こえるかもしれない。でも、わたしがほんとうに書きたいのは、ここから先の静かな希望だ。

ガンジーの非暴力の根底には、権力についての深い洞察があった。権力とは、腕力でも暴力でもなく、それによって管理される人びとの協力から起こる。王様を王様たらしめているのは、彼を王様だと信じる臣民のほうだ。裸の王様の物語が教えてくれるように、なんにも着ていない、と市民が気づいた瞬間に、その威厳は消える。血は一滴も流れない。

委ねた責任は取り戻せる。武力を国家に委ねたのがわたしたちの協力なら、その協力をやめることも、わたしたちにはできる。何かを破壊する必要はない。誰かと戦う必要もない。ただ、しない、という選択がある。恐怖のストーリーに協力しない。顔を消す言葉に協力しない。それは何もしないように見えて、実はもっとも静かで、もっとも大きな力の使い方だと思うのです。

世の中は、川の流れのようなもの。水の流れを変えようとしても徒労に終わる。本質は水そのものではなくて地形のほうだからだ。地形とは、わたしたち一人ひとりの意識のこと。地形はゆっくりと変わり、あるとき川の姿そのものを一変させるのです。

最後に

覚悟というと、孤高で苛烈なものを想像するかもしれません。でも、人間はそんなに強くない。誰かと協力し、なぐさめられ、勇気づけられながらでなければ、覚悟は続かないかもしれない。だから、恐怖に駆動された強がりではなく、弱さを抱えたまま、支え合って立つこと。覚悟はたぶん、そういう関係のなかでしか育たない。

最終的な単位は、いつも個人だ。覚悟も成熟も、一人ひとりのなかでしか起こらない。でもその個人の成熟が、関係を通じてゆっくりと広がっていく。国家の枠によって決定される「わたしたち」= 自国民、ではなく、覚悟を引き受け合う関係のなかから編まれていく、わたしたち。それは国境とは関係のない、宇宙船地球号に乗り合わせた者としての、「わたしたち」= 地球人のことです。

わたしは平和を願っている。それは国という旗を掲げることではなくて、武装するにせよ、しないにせよ、その選択が顔の見える個人の倫理から切り離されないかたちを、問いつづけることです。

自分たちは、どういう世界に住みたいのだろう。

その問いを手放さないでいること。友人の顔が見えているうちは、人は自然に倫理の歯止めがかかるものだ。その顔を、消さないでいること。

平和はたぶん、そこから始まる。

りなる.



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