悲との迪

茹上がった信号機がLED式に変わったのはいつなんどきの事だったろう。鍋蓋の中でこびり付いていた、或いは壁の隅で積木遊びをする黴だったから知るすべも持たなかったんだ。

心臓を秤り売りし得る五月蠅いまでの漆塗りのウロが其処いら彼処らでエイヤと踏み砕いたティー・カップは遮音性に欠けて。サンダル履きの足を引き摺って見物に行くだけの価値は存分にあったが、こうも携帯端末で画面越しの通信販売は賑やかで、自室のカーテンに反射して景気良く踊っている。

未だ終わる気配の無い、脳内物質の花祭りには、土産にジアゼパムを摘んでいってやろう。然し思慮空しく、美しく、土手に咲き広がっていたのはすっかり鰓を止めた小魚どもの引繰り返りの黄泉還り。

パチンコ店の広告の裏、よく滑るが落書きには不服を伴う其れに懸命に十二単を描いたなら直ぐにでも、じいじに得意気の胸を張りにいったろうに。報われない讃美歌が煌々、旗めいている。鉄塔の麓には、押せばぴいと返事を寄越すような靴、のようであり、少年漫画のキャラクターがびっしりと印刷された組立て損ないの月、を模した香水瓶。

やれ絶望だ、やれ希死だと歌声高らかにオクターブ上から、がなる猶予のあるとするならば、早々に土塊に鬼灯でも生けて、寛容燭物を抱き占めるべきだろう、と、気が付いたのが、明後日の午後だった。