見出し画像

『最低にして最高の道』

 前回に引き続き、教員生活の中で大切にしてきた表題の詩を紹介します。昭和21年8月6日発行の文部省教科書『中等國語一『後]』に掲載。今は『日本文学全集15  北原白秋•高村光太郎•宮沢賢治』にあるそうです。ちなみにネットでは『高村光太郎詩集』とありました。

 試しに Amazon で書籍検索してみましたが『道程』『智恵子抄』などは文庫版で発売されていますが、目的とする詩が載っている書籍は見つかりませんでした。この詩に、いつどこで出会ったかについても記憶がありません。高村氏の作品は、中学国語の教科書で『ぼろぼろな駝鳥』が掲載されていたのを読んだ程度です。

 昭和20年の終戦から1年後、上記の教科書が発行されました。そして翌昭和22年には、「学校基本法」「学校教育法」の制定により、6・3・3・4制になり、小中学校が義務教育になるという大改革が行われました。

 その時、新制中学校の教科書に、この詩は掲載されなかったそうです。当時の日本は、GHQの占領下。おそらく、取り下げの指示があったのでしょう。そうした曰く付きの詩を以下に引用します。なお、B4横の縦書きで作成しました。PCの場合はいいとしても、スマホの場合、画面を横にしてご覧ください。

 この詩は、高村光太郎さんによる遠い未来への警句だったと解釈するのは、単なる思い込みでしょうか?昭和が終わり、平成の世になって1人の教師として親として、特に中学生たちに対してぶつけたい言葉が網羅されていると、勝手に思い込むようになりました。

 学校での集団生活で起こって当然のトラブルが、この詩では「よそう」と何度も呼びかけているようです。いつしか、教員生活のどんな立場であっても、この詩を掲げて高村さんと同じようにアピールしてきました。

 詩の紹介は、主に古典の授業のプロローグで行いました。歴史的仮名遣いの練習を兼ねていたのです。そして、朝の登校時に最初に見る場所にどデカく掲示しました。しかし、なかなか浸透しないのを肌で感じていました。

 後に転職するため、最後の勤務校に赴任した時、学年棟の入り口に掲示しました。全校生徒が500人余の学校でした。その当時、中学生全部で1500人という少子化が深刻化した地域で、最大規模の学校でした。赴任当初、新入生6学級の学年主任を命ぜられました。

 この学校は、曰くつきの中学校でした。とにかく不登校が多いのです。出身小学校が、小規模校2校と大規模校1校という、経験上最悪の構成でした。学級は、大人数の野生児たちに温室育ちの腫物扱いされた子どもが数人というメンバー構成。それが6学級ありました。この状態で、平穏に治まるはずがありません。

 あと5年で辞めることは、もう決めていました。これから3年間、入学式に全員来た生徒たちをそのまま全員で卒業式に出すと、ストレートに決心しました。そして、単純ながら一番難しい挑戦が始まりました。いろいろと紆余曲折しつつも、願いは叶いました。奇跡の学年と揶揄する人もいましたが、これこそ、最低にして最高の結末でした。これから、その顛末を語ろうと思います。

 校長が、全校生徒に向かって「当たり前のことを当たり前にできるようにしよう」と話すのを聞いたのが、平成2年。先に、『便所掃除』の詩で紹介した学校でした。最初の学年集会で私は同じ話をしました。

 1年生にとって初めての古典の授業で、いきなりこの詩の音読練習。言葉の意味さえわからず、キョトンとする面々。それでも、夏休み明けなど節目節目で、この詩の音読を繰り返していきました。そうすると、ぼんやりと訴えを理解していく雰囲気が出てきました。

 どこかの政治家の常套句のようですが、とにかく是々非々で向かいました。特に、人の心を踏みにじるような言動は絶対に見過ごさないと教師集団にハッパをかけました。気になることがあったら、その場を離れてはいけない。学級担任たちに、断固たる命令をしたのです。

 6つの教室には学級担任が居て、その中央の学年相談室前には私が立っていました。何かトラブルめいたことがあったら駆けつける態勢でいたのです。休憩は、授業の空き時間のみ。教科担任の目に委ねます。10分のインターバルも昼休みも、トラブル防止と発見あるのみ。

 学級担任たちは、教室に縛りつけられ、不平不満が出ました。その時、「責任取れる?」と詰問しました。そして、最大限の監視体制を敷いたのです。その時、教員生活24年目。荒れた学校、荒れた生徒たちを見てきた自分を信じていました。絶対このままでは済まないと。

 今になって言えることは、小学校教師たちの目はザルのようなものだったという事実です。こちらで厳戒態勢を敷いただけで、入学前の過去から延々と続いてきた膿が、次々と出てきたからです。何か問題を起こした時、大規模校出身の反省の弁は、何と一字一句が同じ定型文でした。それを言わせて、反省させたと判断していたのです。そこに、心はありません。言葉のどこにも感情のカケラも感じませんでした。

 この集団は、心理的な麻痺状態にあると思いました。病んでいるとも思いました。例の詩とは、かけ離れた状態にあると判断しました。最低にして最高の道は、長い長い道のりでした。「もう、よそう」と、総勢175人に何度も言いました。しかし、なかなか染み込んでいきませんでした。

 その時、上の学年は不登校生徒が両手で数えきれない状態でした。打つ手なしの状態にしたのは、紛れもなく教師自身だと思いました。具体的な取組が、何も見えなかったのです。学校自体が、そんなムードでした。負けるもんかと思いました。しかし、小学校から延々と続く、命令役と実行役といった今の闇バイトのような上下関係は、崩せないままでした。

 1人、学校に来れなくなりました。オランダ堤防に穴が空いた話を連想して、今までのガードが決壊するという警報を出しました。いじめでした。指示役は、何もせずにニヤつくばかりで、当該学担はオロオロするばかり。犯人扱いや責任追及は、逆効果そのものです。

 学級を守るため、担任には雑談強化を求めました。そして、私は毎日が家庭訪問。両親共稼ぎで、おばあさんと毎日会いました。本人は、部屋に閉じこもって出てきません。毎日、茶飲み話をして帰りました。つながりが切れたら終わりだと思ってのことです。

 2年生になる前に、誰と同じ学級になりたいかを聞きました。一見、ワガママ容認に思う人もいるかと思いますが、この業界の常套手段なのです。本人の思う通りにしました。しかし、登校はできませんでした。

 新年度、学年主任をクビになり、生徒指導主事を命ぜられました。学級担任だった1人が、生徒支援というポジションに就いてくれて、つながり確保をバトンタッチしてくれました。私の対象は、学年崩壊が懸念された3年生になりました。40人の4学級全部の国語担当にもなりました。そこでも、この詩をしつこく教えていきました。時既に遅し状態でした。

 卒業式の練習まで手を出して、やっとできるようになった式の前日。式場準備が一段落した時、激しい揺れが起きました。東日本大震災です。停電は、翌日のお昼頃まで続き、卒業式は延期されました。そして、翌年度には学年主任として再登板を命ぜられました。修学旅行は、新幹線不通ゆえ、行先が北海道になっていました。その詳しい中身は、下記参照ください。

 またもや、例の詩を超拡大印刷して、学年棟前に掲げました。生徒たちは、始業式前に私が再登板するのに気づいたそうです。知らぬ間に浸透していたのでした。

 年度初めに、転入生。被災地の福島県南相馬市から、1人の女子生徒。制服に学校で保管している物を貸し出すと伝えたところ、断固として拒否されました。それには特にこだわりませんでした。当時、被災地の児童生徒たちが、酷い扱いをされているニュースが、度々報道されていました。「放射能が移る」なんて、人間として許されない言葉を浴びせられたとか。

 彼女が転校してくるまで、何度も学年集会を開き、「大きく生きよう」と訴え続けて、学級でも担任がフォロー説話を続けました。彼女が登校してから、私はストーカーじみた行動様式に変貌して、徹底的に見守りました。幸い事なきを得て、彼女は福島に戻って行きました。

 またもや学年集会。私は、生徒たちにお礼を言い続け、誉め讃えました。そして耳にタコ状態の詩を引き合いに出して、改めて全員の卒業式を目指すことを、全身全霊を尽くして訴えました。意識は、操り役の1人だけに向いていました。いい表情でした。これはいけるぞと、思いました。

 夏休みも終わって、いよいよ高校入試の意識づけしようと話し合っていた頃、ビッグニュースが飛び込みました。彼が登校を決心したと生徒支援担当から聞いたのです。家庭訪問は、相変わらず続けていました。来るのも居るのも当たり前の存在になっていて、居候扱いにまでなっていましたが、生徒支援は彼の心にまで寄り添えるまでになっていたのです。

 9月、彼は自分の居場所にすんなり入って行きました。そのための学級編成は、学年部一同で考え抜いた結果です。昨年度のメンバーに感謝しました。生徒相互の人間関係を深く捉えた結果です。私はその頃、崩壊寸前の学年を何とか卒業させることに集中していました。

 学年棟入口に、卒業式前日まで立ち続け、職員室にはほとんどいませんでした。冬休み明け学年部の打ち合わせ。最初は、出席確認からスタートします。副主任が学級名を呼ぶと、担任が答える段取り。私は、最後の講話係でした。

 奇跡の予兆を感じ始めました。真冬の寒い時期、毎日が全員出席でした。それが次々と積み上がるにつれて、私たちは小さな万歳を繰り返しました。比較すべきではないとは思いますがひとつ下の学年は、15人が来れない状態だったのです。打ち合わせの最後に、必ずネガティブな話をして、ふんどしを締め直させるのが、私の役割となりました。

 毎日毎日が補習と面接練習。あっという間に3月になり、卒業式練習も万全の防寒対策を強要して行いました。そして、入試前日の学年だより77号には、全教職員の寄せ書きをもらい「やるべきことは、全てやった。我々に合格できないはずがない!」というスローガンを大書して配布しました。

 そして入試から4日後、卒業式。175の席に、空席なし。私の役割は「平成23年度卒業者」と「男子〜名、女子〜名、計175名」というアナウンスのみ。後は卒業の歌『旅立ちの日に』のピアノイントロで、うつむいて床に雨漏りの如くボトボト涙を落とすのみ。

 最低にして最高の道が開けた瞬間でした。当たり前のことを当たり前にできたのでした。全員主義の成功体験。これを、教師冥利に尽きると言います。私の力など、取るに値しません。貫いたのはただひとつだけ。生徒が来るから学校の存在意義がある。ただそれだけです。

 この時代、勉強なんて、学校に来ないでノウハウ抜群の業者に委ねる方が、いいに決まっています。勉強は二の次とまでは言いませんが、学校が少しでも長い人生の支えになれたらいいのです。それを確信できたのは、彼らのおかげなのです。今でも、感謝の念が溢れてきます。

 その後、2年間はマネージメント役を務めて退職しました。定年まで8年残しての転職でしたが、全く後悔していません。現在、中学校に現役で勤務されている方。特に不登校に悩まれている方。あなたの勤務されている学校は、居心地いい場所でしょうか?もしかして、教師にとっても居心地の悪い場所だとすれば、多感な生徒たちは、その何倍も感じているはずです。

 以上、とっくの昔に引退した年寄りからの、記憶をとことん美化したメッセージでした。この駄文を読んでいただいた教員の皆さんに、どうか幸ありますように!



いいなと思ったら応援しよう!