見出し画像

むしろ釣りを盛り下げたい──人を減らせば自然は守られるのだろうか

怪魚ハンター・小塚拓矢氏がX(旧Twitter)のポストで

「#むしろ釣りを盛り下げたい」という投稿で、反響を呼んでいた。

しかし、私は驚かなかった。

なぜなら、私のフライフィッシングの師匠も全く同じことを言っていたからだ。

私は高校から大学までブラックバス釣りをしていた。

その後、

シーバス。

青物。

ショアジギング。

そして最終的にフライフィッシングへ辿り着いた。

当時の私は、むしろ釣り人口を増やしたいと思っていた。

理由は単純だ。

フライフィッシングは市場が小さい。

メーカーも少ない。

中古市場も小さい。

道具は高い。

ブラックバスやソルトルアーと比べると選択肢も少ない。

当時お金のなかった私には正直しんどかった。

情報も少なかった。

どこで釣れるのか。

何を買えばいいのか。

どう始めればいいのか。

初心者向けの情報は驚くほど少ない。

周囲に教えを乞える人もいなかった。

コミュニティも閉鎖的に見えた。

私は当時、

「もっと人口が増えれば道具も安くなるのではないか」

「もっとネット上の釣り場情報もわかりやすく整備されるのではないか」

と思っていた。

そんな頃、私は師匠に聞いた。

「どうしたらフライフィッシング人口は増えますか?」

返ってきた答えは意外だった。

「別に増えなくていいと思う」

当時の私には理解できなかった。

しかし実際に川へ通うようになってようやく、その意味が分かるようになった。

釣り場は常に椅子取りゲームのような状態で

人気ポイントには人が集中する。

魚へのプレッシャーも増える。

魚を大量に抜きあげて持ち帰る人の問題。

ゴミ問題。駐車問題。

SNSによる場所の拡散。

魚も川も有限資源だ。

だからベテランになるほど、

「人は増えなくていい」

と言うようになる。

ここについて私は完全に同意する。

小塚氏のポストをXで引用リポストをしていた

オイカワ丸氏の問題提起も理解できる。


生物好きな人が増えれば保全につながると思っていた。

しかし現実には、生き物好きな人自身が生物多様性へ負荷を与えている場面もある。

これもまた事実だ。

この記事は、

「もっと釣り人を増やそう」

という話ではない。

無秩序な利用拡大には私も反対だ。

しかし私はここで別の疑問を持つ。

人が減れば本当に問題は解決するのか

私は最近、この構造を様々な場所で見ている。

かつて高速道路のPAには当たり前のようにゴミ箱があった。

しかし近年、一部の小規模PAではゴミ箱撤去が進んでいる。

理由は家庭ゴミの持ち込みだった。

本来そこで発生したゴミではなく、

家庭から持ち込まれた大量のゴミが捨てられるようになった。

呼びかけだけでは改善せず、

運営側は苦渋の決断としてゴミ箱を撤去した。

私はこの判断の是非を論じたいのではない。

興味があるのは別のことだ。

問題が起きた時、

私たちは

「どう管理するか」

より先に

「無くしてしまうか」

を選びがちではないか。


それで根本的な問題は本当に消えただろうか。

違う。

ゴミ箱が消えただけだ。

問題の発生場所が見えなくなっただけである。

同じようなことは日本社会のあちこちで起きている。

公園の遊具撤去。

ボール遊び禁止。

立入禁止。

釣り禁止。

問題が起きる。

すると利用を止める。

しかしそれは本当に解決なのだろうか。


私はブラックバス問題でも似た違和感を持っていた。

もちろん外来魚問題は存在する。

しかし私が当時感じていた違和感は別のところにあった。

多くの場所で、

池干し。

駆除。

外来魚排除。

は行われた。

しかし、

在来種の産卵環境整備。

水質改善。

河畔林保全。

護岸環境改善。
魚道整備。

まで行われたケースは決して多くなかった。

私は釣り場を観察していて、

ブラックバスだけが問題だったようには見えなかった。

魚が隠れる場所。

産卵する場所。

適切な水質。

そうした環境が先に失われ、

そこへブラックバスやブルーギルが追い打ちをかけたように見えた。
もちろん外来魚管理は必要だ。

私はブラックバスを守りたいと言っている訳ではない。

むしろ子供だった当時の私は、

大人達がブラックバス問題をきっかけに、

在来魚が増える川や池を取り戻してくれるものだと思っていた。

しかし実際に行われたのは、

駆除や池干しばかりだった。

もちろんそれ自体は必要だったのかもしれない。

ただ私は、

その先にある環境再生まで見たかった。

大人になる前の私が大人達に期待していたのは、

犯人探しではなく、

生態系そのものを良くする取り組みだったのである。

私が感じていたのは、

問題を単純化しすぎることへの違和感だった。


オーバーツーリズムも同じである。

富士山。

京都。

渋谷。

奥多摩。

利用者が増えすぎた結果、

渋滞。

ゴミ問題。

マナー問題。

行政コスト増加。

様々な問題が発生している。

しかし私が疑問に思うのは別のことだ。

なぜこれほど巨大な需要が存在するのに、

環境維持や保全のための費用を十分に徴収しないのだろうか。

問題は利用者の存在ではない。

問題は、需要を維持管理へ変換する仕組みが存在しないことではないだろうか。


人が多いこと。

釣り人が多いこと。

観光客が多いこと。

それ自体が問題なのではない。

問題は、

増えた需要を管理できていないこと。

減った需要を活かせていないこと。

つまり設計の問題なのである。

関係人口が消えた先に何が残るのか

私はフライフィッシングをしている。

だから川の話をしている。

しかし小塚氏やオイカワ丸氏が語っているのは、本来もっと広い話だ。

河川。

湖沼。

湿地。

干潟。

沿岸域。

森林。

里山。

自然環境全体の話である。

そして私は最近、地方創生や過疎地について記事を書く機会が増えた。

そこで何度も感じる。

地域を支えるのは定住人口だけではない。

関係人口である。

自然も同じだ。

現場へ行く人。

現場を見る人。

現場について語る人。

その総量が減る。

釣りをしていなければ、

私は漁協問題も、

河川工事問題も、

獣害問題も、

過疎化も、

地域経済も、

考えることはなかった。

釣りが入口だった。

つまり釣り人は利用者であると同時に、

自然への関係人口でもある。

SNSでは河川工事の生態系破壊批判などをよく見かける。

しかし考えてみてほしい。

実際に異変に気付くのは誰なのか。

毎週現場へ通う人たちだ。

釣り人。

自然観察者。

地元住民。

つまり関係人口である。

ここが私の最大の懸念だ。

関係人口が減る。

当事者が減る。

すると現場を知らない人たちが多数派になる。

仮に20年後。

釣り人も減った。

漁協も高齢化した。

自然観察者も減った。

そしてある山奥の沢で小水力発電計画が持ち上がる。

説明会には行政担当者と事業者しかいない。

かつて毎週その沢へ通っていた釣り人たちはもういない。

反対意見は出ない。

計画は通る。

その計画が本当に悪いものだったかどうかは分からない。

しかし少なくとも、

その沢に何が生息し、

どんな魚が遡上し、

どんな昆虫が羽化し、

どんな景色が失われる可能性があるのかを語る人はもういない。

そして気付いた時には、

釣り場だけではなく、

魚たちも、

水生生物たちも、

その生態系そのものも失われているかもしれない。

私はそういう未来を恐れている。

ここで、

「専門家だけで決めればいい」

という考え方もあるだろう。

しかし私はそうは思わない。

釣り人は魚類学者ではない。

自然観察者は生態学者ではない。

しかし彼らは現場を知っている。

専門知識とは別の価値を持っている。

だから私は、

保全のために利用者を減らすという発想に少し慎重になる。

利用者が減れば、

支持者も減る。

発言者も減る。

当事者も減る。

保全そのものの社会的基盤も弱くなるからだ。

利用と保全は本当に対立するのか

私の答えは、

必ずしもそうではない。

利用は自然へ負荷を与える。

これは事実だ。

しかし利用そのものが悪なのではない。

利用者が存在するからこそ、

保全を支える人も生まれる。

財源も生まれる。

関係人口も生まれる。

問題は利用ではなく、

利用を放置することなのではないか。

私はむしろ逆に思う。

需要があるなら、

その需要を保全の財源へ変換すればいい。

富士山なら入山料。

京都なら観光税。

釣りなら遊漁料や保全基金。

例えば年間1万人が訪れる河川があるなら、

1人1,000円でも年間1,000万円になる。

それだけで河川調査や産卵場整備、監視活動の選択肢は大きく広がる。

利用者がいるなら、

維持管理費を生み出せるはずだ。

私はここで、イギリスのような高額ライセンス制や完全管理型の釣り場を目指すべきだと言いたい訳ではない。

むしろ私が感じているのは、現在の遊漁料が長年の物価上昇に十分追従できていないのではないかということだ。

日券や年券を実態経済に合わせて見直し、その代わりに保全活動や運営状況を透明化する。

そうした持続可能な運営の方が現実的なのではないだろうか。

必要なのは、

増やすか。

減らすか。

ではない。

教育。

利用ルール。

利用料。

保全基金。

監視。

地域還元。

そうした仕組みを組み合わせた利用設計である。

子供たちに何を残すのか

私は魚だけを残したい訳ではない。

川だけを残したい訳でもない。

本当に残したいのは、

自然との接点である。

私がそう考える理由がある。

私の実家の田舎の田園地帯には、かつてブラックバスや雷魚、フナやコイがいる池がたくさんあった。

子供たちはそこへ行き、生き物を見て、釣りや水辺の環境を学んだ。

しかし今、その池の多くは侵入防止フェンスで厳重に囲まれ、人が近づくことすら難しくなった。

外来種問題への対策として池干しや駆除も行われた。

だが私には、それで本当に豊かな生態系が戻ったようには見えなかった。

かつていた魚たちは消え、

子供たちも近づかなくなり、

最後に残ったのは北米原産の外来種ウシガエルぐらいだった。

私はこの風景に強い違和感を覚える。

外来種を駆除することが目的だったのか。

それとも生態系を回復することが目的だったのか。

もし後者だったのなら、私たちは本当に望んだ結果を手に入れられたのだろうか。

管理できない。

責任が取れない。

危険だから。

そうした理由で、人と自然の接点そのものが消えていった。

私は管理そのものに反対している訳ではない。

ただ、管理を放棄した結果として閉鎖が続き、人と自然が完全に分断されていく未来は望んでいない。

子供たちが水辺に立つ機会。

魚を追う機会。

昆虫を観察する機会。

地域の人と出会う機会。

自然の変化に気付く機会。

そして、

何かがおかしいと感じた時に声を上げられる当事者になる機会である。

もし自然との接点そのものが失われれば、

魚を守る人も、

川を守る人も、

森を守る人も減っていく。

私は魚だけではなく、

自然と人との関係そのものを次の世代へ残したい。

結論

私は小塚氏にもオイカワ丸氏にも共感する。

人が増えれば問題は起きる。

それは事実だ。

しかし、

人を減らせば解決するとも思わない。

私が問いたいのは、

釣りを盛り上げるべきか。

盛り下げるべきか。

ではない。

需要を保全の基盤へ変換しながら、

自然との接点を持つ人間を維持する。

その設計こそが必要なのではないだろうか。

自然を守るために人を遠ざけるのではなく、

自然を守る人を育て続ける。

私はその視点もまた必要だと思う。

いいなと思ったら応援しよう!