(百二十七)修学院 八景を読む

修学院離宮は言うまでもなく、後水尾上皇(1596-1680年)が手掛けた庭園である。1656年(上皇40歳)から約3年の歳月をかけて造営した。自然の山の斜面を利用した唯一無二の景観を有する。【庭の歴史・五 人工美の極致へ】から、庭師大橋治三の言葉をここに紹介することから始めよう。
  修学院離宮はぐんと大きく開けた大自然の中、溶け込むように人工の手が加えられ、全体の景観を見るがぎりにおいては、人工の手がどのへんに掛けられているかということを見ることができないくらいだ。
しかも、下肥の匂いがするような田んぼが庭園の半ばを占めているのである。その上、桂離宮のような閉鎖された空間は無いに等しい。夏の日などに歩いていると、とぐろを巻いた蛇に出くわし、藪蚊に刺され、イナゴたちが羽音を立てて飛び交うといった、私たちが子供の頃に体験し知っていた自然が、眼前に展開するのである。
春ともなれば、レンゲがあちこちに咲き乱れ、彼岸花の真っ赤な紅があぜ道を埋め、タンポポが風に吹かれている。こんな庭は日本中捜してもどこにもない。

修学院のHPによると、離宮の敷地が54万5755㎡、樹林は3万7940㎡、庭園は8万6731㎡を占めている。
自然の山をそのまま庭園とし、畑もそのまま風景に取り入れ、池を穿ち、樹木と家屋を配置して、朝日・夕陽、松・紅葉等を池に映し取り、四季それぞれに美しい。特に、浴龍池は標高137m、面積11,500m2もの広い池である。北側に位置する赤山(あかやま)の高さは196m、浴龍池の南側には隣雲亭、東側には窮邃軒を配置している。また、大滝・雌滝を作った。滝を作るに当たって地形を綿密に調査したのであろう。これは難工事であったことが想像できる。大らかなこの庭園こそ帝王の庭に相応しいと言える。
 後水尾院は天賦の才を持った庭園設計師と言える。もちろん、後水尾天皇一人だけで設計出来るものではないが、天皇家からこのような天才を輩出したことは、記憶すべき出来事と思う。
 田中日佐夫の【修学院離宮】から引用する。
万治二年(1659)四月十四日、後水尾法皇は工事して五年目になる修学院内の御殿で、気心の知れた弟・妙法院宮堯然法親王と照高院宮道晃法親王、それに法皇のもとに親しく出入りし仕えていた鹿苑寺(金閣寺)住職鳳林承章(じょうしょう,筆者注)を呼んで内々の宴を催した。
承章は「御庭の滝の風景は平凡な眼識を驚かせ、心の底に徹するものである。二階の御亭隣月亭・寿月観所々の御飾りも。御掛物は九条良経の懐紙と日観筆の蒲[葡] 萄図、讃あり」などと日記【隔冥記】に記している。

承章がこの離宮の滝のある風景を素晴らしいと絶賛していることが分かる。「御庭の滝の風景」とは、滝が渓流となって浴龍池に流れ込む「大滝」を指すのであろう。朝日・夕陽を映す雄大な景観と池周辺の繊細な景色を合わせ映す帝王の庭に驚いたのであろう。
「目を驚かす寿月観の御飾り」とは欄間(花菱模様)・襖絵(虎渓三笑)・杉徒、違い棚・釘隠しなどを言うのであろう。ただ、これ等の御飾りが現在と同じかどうかは知らない。尚、隣月亭は今日の修学院離宮にはない。更に引用する。
一行はまず、修学院離宮の、そのころもそう呼んでいたであろう「下御茶屋」に入ったが、間もなく雲母坂に方へ、不動堂(雲母寺)の方へ散策に出て、比叡山山上へ通じる雲母坂では、爛漫たる卯の花を見て法皇と承章が俳諧を楽しんだ。
  卯の花や白き禿にも雲母坂  (承章)
    絵にも及ばぬ夏山の隈  (御製)
 主従つねに和気あいあいと山荘の一日を楽しむ姿がうかがわれる。ただ、ここに記されている修学院離宮はなんとはなく現在の離宮のたたずまいとはちがうように思われる。

上記の俳諧から、法皇と承章は、実際、仲の良い事が見て取れる。また、法皇自身が下御茶屋の寿月観を「絵にも及ばぬ夏山の隈」と暗に褒めていることが分かる。
 更に引用する。
同年(1659年,筆者注)六月十四日、後水尾院が鳳林承章を通して五山*1の禅僧達に「修学院之内御殿新八景之詩」を作ることを命じた。
  *1:五山とは京都五山のこと。
南禅寺(別格)、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
 
詩・歌を作った人を次にまとめて挙げる。作者の後に書かれている数字はその年の年齢である。これから、八景の詩を命じた相手の年齢層は28~71歳とまちまちであったことが分かる。
修学院離宮 八景の作者(上が漢詩、下が和歌)

八景    作者       生年 〜 没年  説明
修学晩鐘 金地院竺隠崇五(44) 1615 - 1697 南禅寺今地院第三代住職。
     妙法院尭然法親王(57)1602 - 1661 後水尾院の実弟。
村路晴嵐 鹿苑院鳳林承章(66) 1593 - 1668 相国寺鹿苑院住職、
                     後水尾院とは昵懇の仲。
     中務卿智忠親王(40)1619 - 1662  桂離宮を造営した八条宮
                     智仁親王の息子で、
                     後水尾院の養子。
遠岫帰樵 建仁大統院九岩中達*1(?) ? – 1651建仁寺の塔頭である大統院を                
                     再建した人物。
                     建仁寺第300世住職。
     照高院道晃法親王(47)1612 - 1679 後水尾院の実弟。
松崎夕照 天龍妙智院補仲(?)  ? – 1641  天龍寺の塔頭である妙智院の
                     再興に功績を残した。
     飛鳥井雅章(48)  1611 - 1679  1657(明暦3),後水尾院から
                     古今伝授を受けた。
茅檐秋月 語心院規伯玄方(71) 1588 - 1661 南禅寺語心院住持。建長寺住
                     職も歴任。
     烏丸資慶(37)    1622 - 1670 歌道に秀でていた為、後水尾
                     上皇からと共に古今伝授を受
                     けた。
平田落雁 相国寺勝定院
     雪岑梵崟(?)     ? - 1668  禅僧・詩人、後水尾院の寵遇
                     を受けた。
     岩倉具起(58)   1601 - 1660  公卿。
隣雲夜雨 鹿王院賢渓玄倫(?)  ? - 1661  鹿王院十世住職、天龍寺201
                     世住職
     中院通茂(28)    1631 - 1710 公卿・内大臣。1664(寛文4
                     年)に後水尾院から古今伝授を
                     受けた。
叡峰暮雪 茂源紹柏(60)   1599 - 1667  建仁寺第303世住職
     白川雅喬(39)   1620 - 1688  公卿。22歳で神祇伯となる。

*1:建仁大統院九岩中達、天龍妙智院補仲は1659年前に亡くなっている。没年が誤りか。大家の指摘を待つ。
≪ 1. 修学晩鐘 ≫
【絶句】
修学招提境転幽,暮鐘殷殷万機休。
宸遊誰識発清興,数杵声中月半釣。  金地院竺隠崇五
【読み下し文】
修学の招提境は転幽、暮鐘は殷殷として万機休す。
宸遊誰か識らむ清興を発するを、数杵(しょ)の声中月は半釣。
【解釈】
ここ修学院の地は風景が美しい
暮の鐘は辺りに轟き、万機が鳴りを潜めている
御門がここに遊ばされ、趣が清々しい
杵の音が聞こえ、三日月が掛る
【和歌】
此寺は瀧の流れにひびき合い
入相の声もよそにかはりて    妙法院尭然法親王
【翻訳】
この御殿から滝の流れる音が聞こえる日の入りの鐘も他のとは異なる心地がする。
≪ 2. 村路晴嵐 ≫
【絶句】
翠嵐吹霽景清鮮,檐外酒帘茅店連。
村叟酔帰帯西照,三叉草深雨餘天。  鹿苑院鳳林
【読み下し文】
翠嵐吹霽(や)みて景は清鮮なり。
檐外(えんがい)の酒帘(しゅし)茅店(ぼうてん)は連なる。
村の叟(おきな)酔いて帰り西照を帯ぶ。
三叉の草は深し雨餘の天(そら)。
【解釈】
青青とした樹木を覆う霞が吹き払われて
辺りが晴れわたり景色が清々しい
軒から見える酒店は連なり、
酔って帰る村の老人の背に西日が当たる
三叉路では草が深く茂り、
雨が上がりし後の晴れたる空が見える
【和歌】
夕嵐吹残してや山もとの
雲よりさきに帰る里人     中務卿智忠親王
【翻訳】
夕嵐吹いてなお花が残っている
雲が山に止まっている間に
里人はもう帰路についている
 ≪ 3. 遠岫帰樵 ≫
【絶句】
遠岫雲興連翠微,看来樵者送斜暉。
檐頭別是重多少,猶帯佳山風景帰。 大統院九岩
【読み下し文】
遠岫(えんしゅう)に雲興り翠微に連なる,看来、樵者斜暉を送る。
檐頭(えんとう)別是重なり多少,猶佳山の風景を帯びて帰る。
【解釈】
遠くの山々に雲が起こり、緑が映える山麓に連なっている
薪を背負った樵が、夕日を背に受けて帰っていく
軒先の花びらは幾重かある
 (「重」(平聲)は重いという意味ではなく重なりという意味である。この花は菊かも知れない,筆者注)
 
【和歌】
眺むるに暮るるも惜くはるばると
柴おひつれて帰る山哉      照高院道晃法親王
【翻訳】
この夕暮の景色を眺めていると、更に暮れ行くのが惜しい
柴を背負って里に帰る樵も、次第に見えなくなって行く
 ≪ 4. 松崎夕照 ≫
【絶句】
松崎勝地玉楼前,佳境看来日已遷。
斯境欲知奇絶処,好風只在夕陽邊。  天龍妙智院補仲
【読み下し文】
松崎は勝地,玉楼前、佳境看来日已に遷る
斯の境奇絶の処を知らんと欲す,好風只だ夕陽の邊に在り
【解釈】
ここ松崎は景勝の地、建屋からこの素晴らしい景色を見ている
既に日が西に遷り、この絶景を確かめたい
只風が夕陽の辺りに吹いている
【和歌】
陰うすく残る夕日のまつの崎
あさをおひたる風の色哉     飛鳥井雅章
【翻訳】
影が薄く残るまで、夕日が傾くのを待つの崎
朝露を含むが如くの秋風の気配が感じることだ
 ≪ 5. 茅檐秋月 ≫
【絶句】
月照茅檐興特悠,愛看涼色坐間浮。
山堂不誦九天影,浪説調庭湖上秋。  惜心院規伯
特:原文には「特」に対して「コトニ」とルビが振ってある。
【読み下し文】
月は檐を照らし、興き特に悠なり
涼色の坐する間に浮かぶを愛し看る
山堂九天の影を詠まず,
浪(みだり)に説す調庭湖上の秋
【解釈】
月が軒を照らし、趣が殊に悠然としている
涼し気な景色を、ここから見るのが好きだ
山堂では天高くにある月を誦まず
やたらに庭の音楽や浴龍池の秋について話している
【和歌】
山水のよゝ澄みぬべき心をも
さやか軒端の月は知るらん    烏丸資慶
【翻訳】
山水は世々澄んで然るべきで、心もかくあるべき。
明るく照らす軒端の月はこの事を知っているであろうか
≪ 6. 平田落雁 ≫ 
【絶句】
洛邑長天秋水通,平田千頃一群鴻。
有色詩景数行字,修得形歌典学功。  勝定院雪岑梵崟
【読み下し文】
洛邑は長天にして秋水は通る,平田千頃にして一群の鴻。
有色(ゆうしょく)*1の詩景数行の字,修め得て歌に形わす典学の功。
*1:原文では有✔色となっている。色は「美しい」物事の意味。
【解釈】
京都の町は秋、田んぼに一群の鶴が飛んでいる。
美しい景色から数行の詩句を書き留めた。
学んだ古典の知識のおかげだ。
 【和歌】
山里は秋に身にしむはるばると
いな葉色つきかり落ちる     岩倉具起
【翻訳】
山里は寒さが身にしみ、秋に染まりて、葉も色づいて落ちてゆく
≪ 7. 隣雲夜雨 ≫
【絶句】
高閣依山景不同,卜隣暮雨白雲中。
感時却恨風流事,春夜折花秋夜楓。  鹿王院賢渓
【読み下し文】
高閣山に依り景同じからず,隣を卜して暮雨白雲の中。
時に感じて却って恨む風流の事,春夜花を折り秋夜の楓。
【解釈】
高殿が山を背に建っている。ここから幾つかの景色が見える
夕暮れの雨や白雲の中を選んで住んでいる
時に風流の事を恨み、春は夜に花を折り、秋は楓を愛でよう
 【和歌】
今宵きく雲の隣の軒の雨
誰が名にし負う絵をも忍ばん   中院通茂
【翻訳】
今宵は雲間に見える家の軒の雨音を聴く
誰かの名前かは忘れたが、その名に相応しい絵にも似ている
 ≪ 8. 叡峰暮雪 ≫
【絶句】
艮嶽由来護九重,近濃遠淡為君容。
晩風吹雪千層頂,始信詞人擬士峰。  茂源紹柏
艮岳(こんがく):北宋の徽宗皇帝が1117年頃から首都汴京(現開封市)に庭園を建設した。それが宮城の北東の隅に位置していたため、当初の万歳山から艮岳(艮は八卦では北東を意味する)に改称された。庭園の面積は約50万m2、主峰の高さは145メートルに達し、中国史上最大規模の巨石庭園・離宮である。
 修学院離宮の敷地が67万m2であることを思い起こすと、いかに修学院が大きいかが分かる。
九重:君主の居る所。
擬士:王侯に仕えて、彼等を護る士に譬える。士が王候を護るように、山が雨風を防ぐことを述べた。
【読み下し文】
艮嶽由来が九重を護る,近濃遠淡、君が為に容(かたち)づくりぬ
晩風雪の千層の頂を吹き,始めて信ず、詞人が士の峰に擬えるを
【解釈】
御門が造営の庭園は、天皇を守る山嶽だ
近景は濃く遠景は淡く、御門がためにその姿を見せている
夕風が比叡山の頂の白い花や石が雪のように舞い散る
初めてこの山が士の峰に擬えることを悟った
艮嶽:中国の北宋時代、徽宗皇帝が造営した巨大な庭園
   費用が掛かり過ぎて北宋滅亡の原因となった。
【和歌】
時雨つる雲雪は夕の峰越えて
雪にさやけき比叡の山風      白川雅喬
【翻訳】
時雨を降らせた雲が去り、夕日に映える峰を雪が越え来る
その白さを引き立たせる比叡山の風
 

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