高畑勲『十二世紀のアニメーション』
大塚康生氏の視点。
タミヤ模型の故・田宮俊作氏が、その著書の中で、アニメーターの大塚康生氏に関する、ある逸話を紹介していました。
『ミリタリー・ミニチュアシリーズ』……三十五分の一の戦車のプラモデルと組み合わせることができる、搭乗員や兵士などの人形……を、開発していた時のこと。
人形の原型となる石膏像を見た大塚さんは、こうつぶやきました。
「うーん……二コマ遅い」
私は大塚さんの言葉の意味がわかりませんでした。
「田宮さん。悪いけど、これはベストのポーズじゃないね。キマリのポーズの二コマ前の瞬間がいいんだなあ」
というのです。
「もとにしてる写真のポーズ、これがちょっとね。止まってる状態で撮ってるでしょ。だから人形に動きがないんだ。
(…)
ちょっと体をねじるような。この、ちょっとが重要なんだ。そうすると、グッとリアリティが増すんだよ。」
田宮氏は、大塚氏の視点に非常に驚き、絶賛しています。
「二コマ前の瞬間」「ちょっとが重要」このキーワードは、美術作品を見る時にも、非常に重要なものだと思います。
芸術をアニメーターの視点で見る。
例えばこちらは、十六世紀フランスの画家、フランソワ・クルーエの傑作として、ルーブルに収蔵されている『エリザベート・ドートリッシュ』の肖像。
当時のフランス王妃の、威厳に満ちた姿を示すために「キマリのポーズ」で「止まった状態で」描かれた作品です。
それから百年後、オランダで「ちょっと体をねじる」「二コマ前の瞬間」を捕らえて描かれた作品が、こちら。
有名な『真珠の耳飾りの少女』ですが、フェルメールが革新的であり、近代になって再評価されたのはまさに、この「グッとリアリティが増す」ものの見方で、作品を作ったところにあったのではないか。
平面に「動き」を描くということ。
フェルメールは「カメラ・オブスクラ」という、光景を平面に投影する器具を使っていたと言われます。それは、目に見えている世界を平面に投影する装置。
言うまでもなく、世界は平面ではなく、奥行きがある立体です。それ以前はその、眼前に広がる立体的な光景を平面にするには、頭の中で構成するしかなかった。しかし、カメラ・オブスクラを使えば、たとえどんなに動き回る光景でも、リアルタイムで平面にできる。それは、画家にとってどんな衝撃だったでしょうか。
その以前は、最終的な完成形がすでに想定されていて、それに合わせて「キマリのポーズ」を取ってもらい、止まったものを描くものでした。しかし動いている対象を平面にとらえる道具ができた以上、その逆が可能になりました。
すなわち、どんな絵を描くかなんて関係なく、動き回っている人間はそれ以前からそこにいるのだ、ということ。変化する世界があって、絵を描く側はそれを追いかける側なのだ、ということ。
「時間的視覚芸術」とは?
時間の経過を、その中に含んだ絵画表現。
それを、高畑勲氏はこの本の中で「時間的視覚芸術」と呼んでいます。それが、フェルメールからさらに五百年さかのぼった、十二世紀の日本で既に生まれていた。もちろん、カメラ・オブスクラなどありません。高畑氏は、それが生まれた理由を、音声・文字・絵画の境界があいまいなところに求めています。
現在のアニメ・マンガの隆盛だけではありません。イコノロジーの不在とオノマトペの自由さ、耳で聞く語りと目で見る演技が同居する能・狂言なども、その根拠としています。
その最たるものであり、現在のアニメ・マンガに最も近い源流として、今回この本で高畑氏は、十二世紀の絵巻物を読み解いていきます。
絵巻物と映像の基礎知識は共通している。
本編に入る前に、絵巻物の読み方と、カメラワークの基本についての解説が入ります。絵巻物は左から右に絵をスクロールさせていくものなので、鑑賞者がコントロールできるのは、基本的に、左右に広げる画面の大きさと、巻く速さだけです。時には止めてじっくり見るなど。
カメラワークについても、ここで説明されるのは、カメラの左右の動きについてだけです。しかしそれだけでも、登場する人物や建物が、開かれ表れてくる左側、巻き取られて消えてゆく右側、画面の手前か奥か、どこを向いているか。それだけで、とんでもなく多種多様な表現が可能だという事が示されます。
まるで能や人形浄瑠璃の、無表情な顔が、向き一つで様々な表情を見せるように。
では実際に絵巻物の中で、カメラワーク……としか言いようのない演出が、どのように行われているか。それ以外にも、アニメ・マンガ的な、あるいは演劇・映画的な、さまざまな描写や効果には、どのようなものがあるか。
それを、国宝『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵巻』『彦火々出見尊絵巻』『鳥獣人物戯画』などから、丁寧に拾い上げ、詳細に解説されています。
右から進んでいたはずの長者一行が左から現れる。
『信貴山縁起絵巻』の章が一番ボリュームがあります。
内容はwikiとか見てもらう事として。
『飛蔵の巻』の前半では、長者の屋敷から、蔵が飛んでいき、それを長者の一行がそれを追いかけて、山中の命蓮の庵にやってくる。後半では、命蓮の庵から、長者の屋敷へ向けて米俵が列をなして飛んでいく。
つまり、前半と後半で、動く方向が真逆になる。それを、同じ方向に巻いていく絵巻物でどう表現するのか?
発端は、長者の蔵から不思議な鉢がポンと飛び出すシーンから。
驚き慌てて、何かを追いかける山崎長者とその一行、はやしたてる人々。何を追いかけているのかな、という興味で巻物を撒いていくと、さっきの鉢が空を飛んでいる。その上に蔵をいただいて。
巻物を撒いていくと、あんなに慌てていた長者一行はすっかり落ち着いていて、驚きよりも不思議な想いが強くなった様子で、蔵とそれを浮かべている鉢を見上げながら、トコトコとついていく。
ロングショットのような山々の連なりが挟まって、場面転換が行われると、庵の縁側に、鉢が何事もなかったようにストンと落ち着いていて、それを指差して何か尋ねている、命蓮が現れる。
さらに巻いていくと、命蓮の問いかける先には、長者たちが訴えていて……ここで高畑氏が問いかけます。
「右から来たはずの長者が、なぜ左側にいるのか?」
右から進んでいたはずの米俵の列が左から現れる。
同じ事が繰り返されます。
命蓮の指示で、鉢に俵の一つを乗せると、それは舞い上がって長者の家に向かう。他の俵も後に続き、一列になって飛んでいく。
先の、蔵と長者一行が出発した時のように、命蓮の庵から出発する米俵の列は、右から左へ進んでいる。
再びロングショットで山々の連なりが挟まり、場面転換が行われる。巻いていくと一番最初と全く同じ構図の、長者の家の画面が現れる。
蔵が飛んで行ったのと同じルートで、ただし向きは全く逆に、米俵が飛び込んできて、長者の屋敷の人々はまたびっくり。しかし、やっぱり不思議です。
「右から左に飛んで行ったはずの米俵が、なぜ左から右に飛び込んでくるのか?」
長者一行も、米俵の列も、途中で向きが変わっているのに、それがスルリと受け入れられるのは、どうしてでしょう?
「では、剣の護法童子の召喚プロセスを、もう一度みてみよう!」
『延喜加持の巻』には、あの「剣の護法童子」が登場!
この、剣の衣をジャラジャラとなびかせて、ビューン! と飛んでくる絵は、みんな大好きですね。
ただ実は、この前にもう帝の宮殿に来ているシーンがありまして。清涼殿の庇の前に、フワーリと舞い降りる様子は、スピード感とは真逆の、いかにも安寧をもたらしたシーンらしき、柔らかな感じなのでした。
到着後のシーンの後に、飛んでくるシーンがある?
過去にさかのぼっているのが、なんだか不思議で。
このシーンは物理的に時間を逆転させたのではなく、結果から原因へと剣客が時間を遡ることで、すなわち、具体的には飛行機雲という痕跡をたどることで、童子を飛来させた信貴山の命蓮の法威力に観客の思いを集中させる、高度に知的な手法なのである。
信貴山縁起絵巻 延喜加持の巻
高畑氏の思考が難しくて、最初はよく分からなかったので、色々と考えてみました。時間を遡ることで、パワーの源に思いを巡らすように促す、という表現について、類似したものはないか? その結果、東映『宇宙刑事シリーズ』の変身プロセスに思い当たってしまいました。
すなわち『宇宙刑事ギャバン』の蒸着、『宇宙刑事シャリバン』の赤射、『宇宙刑事シャイダー』の焼結。
彼らが変身した後には、必ず「もう一度みてみよう」というナレーションが入り、変身シーンがリピートされるのです。
宇宙刑事シャリバンは一ミリ秒で赤射蒸着を完了する。
では、赤射プロセスをもう一度みてみよう。
灼熱の太陽エネルギーが、グランドバースの増幅システムにスパークする。
増幅された太陽エネルギーは、ソーラーメタルに変換され、シャリバンに赤射蒸着される。
時間を遡り、赤射プロセスをたどることで、宇宙刑事シャリバンの「男・強さ・やさしさ・力・勇気・かがやき」を、子供たちに伝える。似ている……ような気がする。
剣の護法童子は、一ミリ秒で帝を守るために参上する。
では、召喚プロセスをもう一度みてみよう。
信貴山の命蓮が加持祈祷を行うと、その法力は、剣の衣をまとった童子へと顕現し、法輪に乗って参上するのだ。
こんな感じでしょうか……よくわかりません。
アップとロング。
昔の漫画は、キャラクターの全身が描かれ、背景に地平線がありました。田河水泡の『のらくろ』や、長谷川町子『サザエさん』とか。それは、舞台で劇をしているのを見ているような感じ。
手塚治虫が映画的なカメラワークを漫画に持ち込んだ後は、次第に減っていって、そういう構図を積極的に使っていたのは、ようやく吾妻ひでおくらいまでかなあ……他でもない、手塚治虫が『火の鳥・羽衣編』で、舞台を定点カメラで撮っているような構図を使っていたりしますが、この頃にはもうこの手法は「実験的」と言われる始末。
こういった芝居のような作画から、映画的な作画への、一番大きな変化は、コマいっぱいに顔を描くようなクローズ・アップと、カメラを引いて広く背景を撮った中に、豆粒のように人物を配置する、ロングショットを取り入れた事ではないでしょうか。
絵巻物では、やはり人物は全身を描かれていて、それだけを見ればアップもロングもないように思われますが、ちゃんとそのような演出はされています。
『信貴山縁起絵巻』の『尼君の巻』は、命蓮の老いた姉が、信貴山を訪ね来るお話。
最初は、お供も連れて、村々でも歓待されて、その様子がハッキリと表情や、手指の仕草までわかるような、サイズと詳細さで描写されます。
しかし、旅が長引くにつれ、供は去り一人きりになり、山を越える頃には疲れ果て、不安と孤独にさいなまれて、今にも消えてしまいそうな、豆粒のような大きさになります。
東大寺大仏殿で拝み、眠る……小さくなった尼君が、大仏と大仏殿の大きさとの比較で、さらに小ささを強調されて描かれます。
ようやく信貴山の庵にたどり着き、命蓮に逢う事がかなって、尼君はもとの大きさに、人間らしい表情がハッキリと伝わる姿に戻ります。
燃える応天門の風上と風下。
『伴大納言絵詞』は、応天門の炎上事件を扱った絵巻物。
炎上する応天門に駆けつける、検非違使や野次馬たちの描写、激しい炎の描写で有名。
様々に、転げるように走る人や馬を追いかけるように、巻物を撒いていった先には、何かに押し戻されるように、わだかまった群衆が現れます。
群衆が見上げる先には黒煙、そして紅蓮の炎。火の粉と熱が、立ちはだかっているのでした。
風下らしく、押しとどめられた人々は熱気に仰け反っています。火の粉や煙、熱気を少しでもさけようと、顔をそむけたり袖で覆ったりしています。さっきまでの、たくましかった野次馬根性がへし折られたように、不安と恐怖に震えています。飛び来る火の粉の行方をおびえながら目で追っています。
反対側は宮殿の内側なので、役人などが多い。しかも風上なので、切羽詰まった様子はありません。見物しながらおしゃべりをしています。風下の、民衆は右往左往と動き回って大騒ぎしているのに、こちらはボンヤリしているみたい。
風下と風上、大衆と役人という対比だけではなく、派手な大騒ぎで始まったこの物語が、ここでいったん収束します。そんな、終わりの雰囲気がある。絵巻の始まりからここまで、実際には同時に起こっている光景を描いているはずなのに、なぜか時間……というか、物語の経過が生まれています。
画面演出の世界、奥が深すぎる……
この後、誰が応天門に火をつけたのかという、ミステリ仕立ての物語が展開します。貴族たちの世界で、権力争いによる冤罪が仕組まれ、それが民衆の世界の子供のケンカをきっかけに、真実が暴かれる。
その二転三転するストーリーを、どんな演出で描いているかを、高畑氏が読み解いていきます。
この本の展開として、ドンドン演出の技法やカメラワークの考え方が、高度なものになっていきます。その結果『伴大納言絵詞』について、これまでに唱えられてきた定説を覆すような説まででてきます。
この後『彦火々出見尊絵巻』『鳥獣人物戯画』『バイユーのタピスリー』について、また様々な絵巻物の部分を例に引いて、ブリューゲルやイタリア・ネオリアリスモ映画にも例えながら、さまざまな映像の技法やそれにこめられた思想について、高畑氏は語るのですが、まだ自分にはそれを消化しきれません。
とはいえ、今まで理解できた部分だけでも、絵画や映像表現を見る眼が、ずいぶん変わった実感があります。これほど、読んだ甲斐が実感できる本は、めったにないでしょう。
『かぐや姫の物語』はずいぶん前に見たのだけど、この本を読んだ後で見たら、どれだけ感想が違ってくるでしょうか。
今から楽しみにしています。
