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【毎日投稿398日目】都知事を狙う石丸伸二の「稚拙で卑怯」な政治戦略


石丸伸二氏に関して、YouTubeにてとあるインタビューを見た。
まずはこのやりとり(06:15~)を御覧いただきたい。

最初から石丸伸二氏を徹底的に批判する記事を書こうと思って、粗探しをするように映像を見始めたわけではない。

何か決定的な失言が飛び出すことを期待していたわけでもない。

石丸氏が現在何を考え、これから何をしようとしているのか。

それを単純に知りたかった。

しかし、インタビューが進むにつれて、私の中に一つの強烈な違和感が生まれた。

その違和感は、最初はまだ輪郭のはっきりしないものだった。

何かがおかしい。

話は一見つながっている。

使われている言葉も、それらしく聞こえる。

「カオス理論」

「確率論」

「瞬間的な重なり」

「環境を用意する」

難しそうな言葉が並び、本人も自信を持って説明している。

だから、聞き流そうと思えば聞き流せる。

石丸氏らしい独特の理論として、なんとなく納得した気分になることもできる。

ところが、発言を一つずつ振り返ってみると、その奥に別のものが見え始めた。

前回の東京都知事選で得た成功は、今でも自分の可能性を語るための根拠として使う。

一方、自ら立ち上げ、代表として選挙を戦った政治団体「再生の道」の敗北については、十分な総括を示さない。

そして現在の組織との関係を「親と子」に例え、自分の手から離れた存在として語る。

成功は自分のもの。

失敗は、自分から手を離れた別人格。

過去の栄光は、未来の野望を語るために何度でも持ち出す。

直近の敗北は、現在の距離感を理由に、自分から遠ざける。

その構造が見えた瞬間、私の中にあった違和感は、はっきりとした言葉に変わった。

稚拙であり、卑怯である。

かなり強い表現だと思う。

だからこそ、感情の勢いだけで投げつけるつもりはない。

私は、石丸伸二という一人の人間の人格すべてを「稚拙だ」「卑怯だ」と断定したいわけではない。

今回問題にしたいのは、あくまでも石丸氏が実際に語った政治戦略と、自らが主導した政治活動に対する責任の引き受け方である。

具体的に、どの発言が問題なのか。

なぜその政治戦略を稚拙だと感じるのか。

なぜその責任の取り方を卑怯だと考えるのか。

本来、政治家であるならば、どのような姿勢を示すべきだったのか。

そして、石丸氏が本当に東京都知事になる可能性があったとすれば、どのような道を歩むべきだったのか。

今回の記事では、一つのインタビューを起点として、石丸伸二氏の政治姿勢をできる限り丁寧に検証していきたい。

これは、数分間の発言に対する揚げ足取りではない。

むしろ私は、この短いやり取りの中に、石丸氏がこれまでどのように成功を扱い、どのように失敗を扱い、これからどのような方法で政治の世界に戻ろうとしているのか、その核心が凝縮されているように感じた。

インタビューを見終えたとき、私の頭に残った問いは一つだった。

この人は、政治家として成長するために、本当に必要だったものから逃げてしまったのではないか。

ここから、その理由を順番に論じていく。
長文になるが、是非お付き合い願いたい。

※本文は第1章~第5章+終章で構成されています。


第1章 あるインタビューに凝縮されていた石丸氏の政治観

1.都知事への思いは、今も変わっていない

今回のインタビューでは、石丸氏が今後、再び東京都知事選挙に出馬する可能性について語る場面があった。

2024年7月7日に行われた東京都知事選挙で、石丸氏は165万8363票余りを獲得し、小池百合子氏に次ぐ2位となった。事前には小池氏と蓮舫氏を中心とした選挙になると見られていた中で、石丸氏が2位に入った結果は、大きな驚きをもって報じられた。東京都選挙管理委員会が公表した石丸氏の得票数は、165万8363.406票である。

その石丸氏に対して、インタビュアーは、今後また都知事を目指すのかという趣旨の問いを投げかけた。

石丸氏の回答は、時期については決めていないというものだった。

次なのか。

次の次なのか。

あるいは10年後なのか。

具体的な時期は分からない。

しかし、前回の都知事選に挑戦したときの思いそのものは変わっていない

つまり、時期こそ未定であっても、東京都知事を目指すという意思は現在も失っていないということである。

私は、石丸氏が再び東京都知事を目指すこと自体を否定するつもりはない。

選挙に敗れた人物が、もう一度同じ職を目指すことは珍しいことではない。

一度の敗北で政治家としての可能性がすべて失われるわけでもない。

むしろ、前回の敗北から学び、自分の不足を補い、より成熟した状態で再挑戦するならば、それは評価されるべきことだと思う。

だから問題は、

「もう一度、都知事を目指すのか」

ではない。

本当に重要なのは、

もう一度都知事を目指すために、前回の敗北以降、何を積み重ねてきたのか。

そして、

これから何を積み重ねようとしているのか。

そこにある。

前回の選挙で165万票を獲得したとはいえ、結果は落選である。

ならば次の挑戦を語る際には、

なぜ当選できなかったのか。

何が足りなかったのか。

前回から何を学んだのか。

次はどのような政策を掲げるのか。

都民との信頼をどのように築くのか。

政治家として何を実現し、どのような実績を作るのか。

当然、そのような話が出てくるものだと思っていた。

ところが、インタビューは意外な方向へ進んでいった。

2.「ステップは半分正しく、半分違う」

インタビュアーは、今後再び都知事選に挑戦するのであれば、その前段階となる何らかの政治活動や実績、いわば「ステップ」が必要なのではないかと尋ねた。

極めて自然な質問である。

東京都知事になりたい。

しかし、次回出るかどうかは分からない。

それなら、その間に何をするのか。

次の選挙まで、何らかの政治的な経験や実績を積むのか。

普通なら、そこが気になる。

それに対し、石丸氏は次のような趣旨の回答をした。

石丸氏

「ステップという考え方は、半分正しくて、半分違うと思います」

その理由として持ち出したのが、前回の都知事選における自身の経験だった。

石丸氏

「前回も、そんなにステップを踏んでいないんですよね」

私は、この回答を聞いた時点で、最初の違和感を覚えた。

なぜなら、政治家が大きな選挙に挑むために、政治経験や実績、支持基盤を積み重ねることの重要性を問われたとき、

前回の自分は、それほどステップを踏んでいないのに躍進できた

という成功体験を、ステップの必要性を相対化する根拠として使っているからである。

もちろん、選挙に至る道は一つではない。

地方議員、国会議員、首長と順番に経験しなければ、都知事選に出てはいけないという規則もない。

政治経験が長ければ必ず有能であるとも限らない。

外部から新しい人材が政治に参入することにも、大きな意味がある。

だから私は、

「必ず決められた階段を一段ずつ上らなければならない」

と主張しているのではない。

問題は、石丸氏がステップを相対化する根拠として、「前回の自分の躍進」を持ち出していることである。

石丸氏にとって、前回の都知事選は成功だったのだろう。

当選はしなかった。

しかし、全国的な知名度を得た。

165万票を獲得した。

有力候補と見られていた蓮舫氏を上回り、2位になった。

その意味では、政治的な成功体験として捉えることは理解できる。

しかし、その成功体験から導き出す結論が、

「だから、ステップを踏むという考えは半分違う」

なのであれば、私はそこに強い危うさを感じる。

前回うまくいったから、次回も同じようにいくとは限らない。

前回、既存の階段とは異なる方法で注目を集められたからといって、積み重ねそのものの価値が半減するわけではない。

一度、強い追い風を受けた人間が、

自分は階段を一段ずつ上らなくても、ここまで来られた

と考え始める。

これは革新的な発想というより、成功体験への過信ではないか。

3.しかし、安芸高田市長という明確なステップがあった

そして、この話には決定的な矛盾がある。

インタビュアーは、石丸氏が前回の都知事選で躍進できた背景には、安芸高田市長を務めた経験があったのではないかと指摘した。

要するに、

「前回はあまりステップを踏んでいないと言うが、そもそも安芸高田市長という大きなステップがあったのではないか」

ということである。

それに対して石丸氏は、その事実を否定しなかった。

インタビュアー

「でも、安芸高田市長というステップはありましたよね」

石丸氏

「まあ、そうですね」

そうなのである。

あったのである。

明確に、安芸高田市長というステップが。

石丸氏は、まったく政治経験のない状態で、突然東京都知事選に出馬し、165万票を獲得したわけではない。

広島県安芸高田市の市長として活動し、その際の議会との対立や記者会見、インターネット上で拡散された映像によって全国的な注目を集めた。

安芸高田市長という肩書があった。

市長として行政を動かしたという実績があった。

そして何より、その立場があったからこそ、石丸伸二という政治家の存在を多くの人が知った。

それは、どう考えても都知事選への巨大なステップである。

本人も「まあ、そうですね」と認めている。

それならば、最初の説明は一体何だったのだろうか。

「ステップは半分違う」

「前回はそれほどステップを踏んでいない」

そう語った直後に、前回の躍進の前提となった明確なステップを指摘され、それを認める。

この時点で、石丸氏の説明はかなり苦しくなっている。

むしろ前回の都知事選は、

安芸高田市長として注目される。

インターネットを通じて全国的な知名度を得る。

その知名度と市長経験を土台に東京都知事選へ挑戦する。

そこに既存政治への不満や選挙期間中の盛り上がりが加わり、165万票につながる。

という、非常に分かりやすい「ステップの存在した選挙」だったのではないか。

外部環境や偶然の要素があったとしても、その風を受ける土台となったのは、安芸高田市長としての経歴である。

市長というステップを取り除いて、同じ選挙結果が再現できたとは考えにくい。

にもかかわらず、その最も重要な前提を軽く扱い、

「前回はあまりステップを踏んでいなかった」

と説明する。

私には、自分がどのような積み重ねによって現在の知名度を得たのかを、本人自身が過小評価しているように見える。

あるいは、その積み重ねを正面から認めてしまうと、これから再び都知事を目指すためにも、同じような政治的実績が必要になる。

だから、あえてステップの重要性を低く見積もっているのではないか。

少なくとも、本人の言葉だけを素直に並べれば、

「ステップは半分違う。しかし、安芸高田市長というステップはあった」

という、奇妙な結論になる。

4.「カオス」「瞬間的な重なり」「確率論」

では、石丸氏は、次の都知事選に向けてどのような方法を考えているのか。

インタビューの中で石丸氏は、大きな選挙について、あらかじめ明確なステップを設計することは難しいという趣旨の説明をした。

そして、次のような言葉を使った。

石丸氏

「都知事選のようなビッグイベントはカオス理論じゃないですけど、、、」

そこから、さまざまな条件が「瞬間的に重なる」ことや、「確率論的」に複数の環境を用意しておくことの重要性の説明が続いた。

落ち葉を上から降らせたとき、完全に位置を予測することはできないが、なんとなくこの辺りに集まる。

そのような比喩も用いられた。

この説明の意味は分かる。

選挙というものは、単純な因果関係だけで決まるものではない。

候補者本人の能力。

知名度。

政策。

政党の勢力。

対立候補。

社会情勢。

景気。

不祥事。

報道。

インターネット上の盛り上がり。

投票率。

選挙までの期間に発生する予測不能な出来事。

さまざまな要素が複雑に絡み合い、最終的な結果が決まる。

大規模な選挙を完全に予測し、計画どおりに動かすことは不可能である。

その意味で、選挙に「カオス」の要素があるという話は理解できる。

しかし、私が問題だと感じるのは、石丸氏が政治家として何を積み重ねるのかを問われた文脈で、「カオス」や「瞬間的な重なり」を前面に出したことである。

選挙に偶然が存在することと、政治家が地道な実績を積まなくてよいことは、まったく別の話である。

未来が予測できないことと、計画を持たなくてよいことも別である。

むしろ、未来を完全には予測できないからこそ、政治家は自分にできることを積み重ねるしかない。

政策を磨く。

行政を学ぶ。

社会問題と向き合う。

地域を歩く。

人々の声を聞く。

自分の考えを説明する。

失敗を検証する。

信頼を築く。

選挙の風向きは操作できなくても、政治家としての実力と信頼は、自分の行動によって積み上げられる。

それが本来のステップではないか。

ところが、石丸氏の口から強調されたのは、積み重ねよりも「瞬間的な重なり」だった。

計画よりも「カオス」だった。

努力によって確実に作る実績よりも、複数の環境を用意し、いつか条件が重なる確率を高めるという考え方だった。

それは本当に政治戦略なのだろうか。

それとも、自分に再び強い風が吹く瞬間を待つための理屈なのだろうか。

5.恋愛リアリティー番組も「環境づくり」の一つ

そして、この「環境を用意する」という説明の中で、恋愛リアリティー番組への出演にも言及された。

PIVOTは今回のインタビューを、恋愛リアリティー番組への出演理由や、再び都知事選に出るのか、再生の道をどう振り返るのかといったテーマを含む内容として公開している。PIVOTの記事では、石丸氏が自身の設立した政治団体との距離感を「親と子」になぞらえたことや、恋愛リアリティー番組出演の背景についても紹介されている。

石丸氏は、番組への出演によって新たに自分を知った人がいたことや、新しい人間関係が生まれたことを、収穫として語った。

そして、そのような活動もまた、確率論的に複数の環境を用意する行為の一つとして位置づけていた。

私は、政治家や元政治家が娯楽番組に出演すること自体を否定しない。

政治家が堅苦しい政策番組以外に出てはいけないとは思わない。

普段は政治に関心のない層に自分の存在を知ってもらうという意味もある。

一人の人間として、政治以外の活動を楽しむ自由もある。

だから、

「恋愛リアリティー番組に出演したから政治家失格だ」

という単純な批判をするつもりはない。

問題は、都知事を目指すためのステップを問われた文脈で、その出演が将来につながる環境づくりの一つとして語られたことである。

東京都知事を目指す人物にとって、本来用意すべき「環境」とは何だろうか。

東京都が抱える課題を研究することではないのか。

前回掲げた政策を検証することではないのか。

都民と継続的に対話することではないのか。

地方行政と大都市行政の違いを学ぶことではないのか。

政策を実現するための人材や専門家との関係を構築することではないのか。

小池都政の成果と問題点を具体的に分析することではないのか。

あるいは、自ら立ち上げた政治団体を育て、理念を共有する政治家を一人でも多く誕生させることではないのか。

もちろん、それらと恋愛リアリティー番組への出演は両立できる。

番組に出演したから政治について何もしていない、と断定することはできない。

しかし、重要なのは優先順位である。

都知事選への道筋を問われた場面で、政治家としての成長や実績よりも、

「出演を通じて自分を知った人がいる」

「新しい人と知り合えた」

「それも環境づくりの一つである」

という説明が前に出てくる。

そこに、石丸氏の政治戦略の特徴がよく表れている。

政治家としての信頼を深めることよりも、自分の認知を広げること。

政策を実現する力を証明することよりも、何かが起きたときに注目を集められる場所に自分を置いておくこと。

一つの政治活動を責任を持って育て上げることよりも、複数の可能性を広く用意しておくこと。

言い換えれば、

政治家として強くなることより、候補者として忘れられないことを優先しているように見える。

私は、それを政治家として高度な戦略だとは思わない。

むしろ、政治を知名度ゲームとして捉えすぎた、極めて稚拙な戦略に見える。


第2章 なぜこの政治戦略は「稚拙」なのか

1.選挙には偶然がある。しかし政治まで偶然に任せてはならない

ここで改めて、選挙に「風」や「偶然」が存在すること自体は認めておきたい。

現実の政治は、努力した者が必ず勝つ公平な競技ではない。

どれほど政策を勉強していても、知名度がなければ票につながらないことがある。

反対に、十分な政治経験がなくても、社会の空気や話題性をつかみ、一気に当選する人物もいる。

対立候補の不祥事によって勝つ場合もある。

所属政党への追い風で勝つ場合もある。

たまたま注目された動画や発言が、選挙結果を動かすこともある。

そうした意味では、石丸氏が言う「カオス」は、選挙の一面を表している。

しかし、選挙に偶然が存在することと、政治家が偶然を中心に自分の将来を設計することは同じではない。

政治家に求められるのは、風を完全に予測することではない。

風が吹いても吹かなくても、自分が何を実現するのかを示し、そのための能力と信頼を積み上げることである。

運によって選挙に勝つことはある。

だが、運だけで行政を運営することはできない。

偶然によって注目を集めることはある。

だが、偶然だけで約1400万人の生活を支えることはできない。

選挙に勝つ瞬間だけを考えるなら、「カオス」や「確率論」は役に立つのかもしれない。

しかし、都知事という職に就いた後のことまで考えるなら、必要なのは偶然ではない。

政策。

組織。

人材。

調整力。

継続性。

説明責任。

失敗を認めて修正する能力。

そのような、極めて地味で現実的な力である。

私は、ここに石丸氏の戦略の根本的なズレを感じる。

語られているのは、東京都知事として何をするかではなく、どうすれば再び都知事選という舞台で自分に有利な状況が生まれるかという話に聞こえる。

都知事になるための政治ではなく、

都知事選で勝つための配置。

さらに言えば、

勝てそうな瞬間に出られるよう、自分の商品価値を維持する活動。

そう見えてしまうのである。

2.政治家に必要なのは、注目の量ではなく信頼の蓄積である

石丸氏が2024年の東京都知事選で大きな票を得たことは事実である。

しかし、知名度が上がったことと、政治家としての信頼が確立されたことは同じではない。

注目されることと、任せられることも違う。

面白いと思われることと、行政を任せたいと思われることも違う。

選挙において知名度は重要である。

知られていない候補者には、そもそも投票の選択肢に入ってもらえない。

だから、メディアに出演し、幅広い層に自分を知ってもらう行為には一定の意味がある。

しかし、知名度は入口にすぎない。

一度名前を知ってもらった後に必要になるのは、

この人物は何を実現したいのか。

この人物には、それを実行できる能力があるのか。

この人物は失敗したとき、責任を引き受けられるのか。

この人物は、自分に都合の悪い事実も説明できるのか。

この人物に権力を預けても大丈夫なのか。

という信頼である。

石丸氏は、すでに十分すぎるほど知られている。

少なくとも、次の都知事選を目指す上で最大の問題が「石丸伸二という名前を誰も知らないこと」だとは思えない。

それでもなお、認知を広げる活動を「環境づくり」として重視するのであれば、どこかで戦略が止まっている。

2024年の都知事選以前なら、

まず名前を知ってもらう。

話題になる。

既存政治への不満を持つ人々の関心を集める。

という戦略は有効だっただろう。

しかし、今の石丸氏に必要なのは、その先である。

前回の165万票を、持続的な政治的信頼へ変えられたのか。

一時的な注目を、政策への支持へ変えられたのか。

石丸伸二という個人に集まった関心を、現実の政治活動へ接続できたのか。

そこが問われている。

そして、その問いに答えるための最大の機会が、「再生の道」だったはずなのである。

3.「カオス」は結果を後付けで説明できる便利な言葉である

石丸氏の「カオス」「瞬間的な重なり」「確率論」という説明には、もう一つ重大な問題がある。

この考え方は、結果がどうなっても後から説明できてしまう。

選挙で躍進した。

→環境がうまく重なった。

選挙で敗れた。

→今回は条件が重ならなかった。

出馬しなかった。

→まだ最適な瞬間が来ていなかった。

別の活動を始めた。

→将来に向けて、確率論的に環境を増やした。

何をしても、どのような結果になっても、「カオス」の一部として説明できる。

これは理論として非常に便利である。

なぜなら、自分の戦略が間違っていたと認める必要がなくなるからだ。

成功すれば、自分が用意した環境が機能した。

失敗すれば、複雑な条件がそろわなかった。

本人の判断が正しかったのか、間違っていたのか。

何を改善すべきなのか。

それを検証しなくても済む。

しかし、本来の戦略とは、検証できなければならない。

何を目的としたのか。

その目的のために、どの行動を選んだのか。

実際にどのような結果が出たのか。

予想と結果の間に、どのような違いがあったのか。

次は何を変えるのか。

それが戦略の検証である。

一方、

「落ち葉を降らせれば、なんとなくこの辺りに集まる」

という比喩からは、失敗したときに何を改善すべきなのかが見えてこない。

落ち葉が予想した場所に集まれば、環境づくりの成果。

集まらなければ、風向きが複雑だった。

これでは、永遠に自分の戦略が間違いだったという結論にたどり着かない。

今問われているのは、落ち葉がどこに集まるかではない。

一人の政治家が、自分の過去の行動と結果をどう評価し、次に何を変えるかである。

政治家に必要なのは、何が起きても自分を正当化できる理論ではない。

自分が間違ったときに、間違ったと認識できる仕組みである。

私は、石丸氏の「カオス理論」に、その仕組みを感じない。

むしろ、自分の責任を外部環境へ溶かすための、便利な説明装置に見える。

4.「前回はうまくいった」は、次回の戦略にはならない

成功体験は、人を前進させる。

一度成果を出した経験は、自信になる。

自分の強みを知る材料にもなる。

しかし、成功体験には危険な側面もある。

一度うまくいった方法を、普遍的な法則だと思い込んでしまうことだ。

石丸氏は前回、安芸高田市長として得た知名度と、インターネット上の注目、既存政治への不満などが重なり、都知事選で165万票を獲得した。

だが、その条件は一度限りのものだった可能性がある。

・初めて全国的な選挙へ出た新鮮さ。

・既存の有力候補に対抗する第三の選択肢としての期待。

・インターネット上で生まれた大きな熱量。

・「石丸伸二とは何者なのか」という関心。

これらは、次回も同じ形では存在しない。

二度目の挑戦では、もはや未知の新人ではない。

2024年以降の活動も評価対象になる。

再生の道を立ち上げたことも、その選挙結果も見られる。

政治以外のメディア活動も含め、何を積み重ねてきたのかが問われる。

前回よりも多くの人が石丸氏を知っている。

それは有利な点でもある。

しかし同時に、前回よりも多くの人が判断材料を持っているということでもある。

前回のように、

「何かを変えてくれそうな新しい人物」

という期待だけでは投票されない。

何を変えたのか。

何を続けたのか。

何から逃げたのか。

その実績が問われる。

にもかかわらず、前回の躍進を根拠として、

「大きな選挙ではステップがすべてではない」

と考えるなら、それは戦略というより前回の再現待ちである。

一度当たった方法を、条件が変わった後も握り続けているだけである。

前回の都知事選で必要だったのは、注目を集めることだったのかもしれない。

しかし次回に必要なのは、その注目に値する政治家だったと証明することである。

その違いを認識できていないなら、石丸氏の政治戦略は、時間が止まっている。

2024年7月の成功体験の中に、今も閉じ込められているのである。


第3章 「再生の道」が突きつけた、成功と失敗の非対称性

1.再生の道こそ、次の都知事選に向けた最大のステップだった

石丸氏は2025年1月、地域政党「再生の道」を立ち上げた。

この政治団体は、石丸氏にとって単なる寄り道ではなかったはずである。

前年の東京都知事選で獲得した165万票という個人的な支持や注目を、継続的な政治運動へ変えるための試みだった。

個人として注目されるだけで終わるのか。

理念を共有する候補者を集め、組織として政治を動かせるのか。

石丸氏が政治家として次の段階へ進めるかどうかを証明する、非常に重要な挑戦だった。

安芸高田市長が、前回の都知事選に向けたステップだった。

そう考えるなら、再生の道は次の都知事選へ向けた、さらに大きなステップになり得た。

市長として一つの自治体を運営した経験。

都知事選で165万票を獲得した経験。

その次に、政治団体を立ち上げ、人を集め、候補者を擁立し、組織として選挙を戦う。

これは、政治家として非常に自然な発展である。

もし再生の道が一定の成果を収めていれば、石丸氏はこう語ることができた。

自分は個人として票を集めただけではない。

自分の理念に賛同する人材を集めた。

その人材を政治の世界へ送り出した。

一つの政治勢力を作った。

既存政党とは異なる政治参加の道を示した。

その実績を持って、再び東京都知事選に挑戦する。

それならば、「ステップは半分違う」などと言う必要はない。

再生の道そのものが、誰の目にも見える巨大なステップになるからである。

しかし、結果は厳しかった。

2025年6月の東京都議会議員選挙で、再生の道は42人を擁立したものの、全員が落選した。続く参議院選挙にも10人を擁立したが、全員が落選した。都議選と参院選を合わせて52人の候補者が議席を獲得できなかったことは、その後の代表交代を伝える報道でも確認されている。

これは明確な敗北である。

候補者を出したこと自体に意味がなかったとは言わない。

政治参加の機会を増やした。

既存政党に所属しない人材が立候補する場を作った。

そうした意義はあるのかもしれない。

しかし、選挙は最終的に有権者から選ばれ、議席を獲得し、政策を実現するために行うものである。

52人を擁立し、一人も当選しなかった。

この結果を、政治団体としての成功と呼ぶことはできない。

少なくとも、何が足りなかったのかを徹底的に検証しなければならない結果である。

そして、その検証の先頭に立つべき人物は誰だったのか。

言うまでもない。

再生の道を立ち上げ、代表を務め、政治的な看板となっていた石丸伸二氏である。

2.失敗したことではなく、失敗をどう引き受けたかが問題である

私は、再生の道が全敗したこと自体をもって、

「だから石丸氏は政治家として無能だ」

と結論づけたいわけではない。

新しい政治団体が、最初の選挙で思うような結果を出せないことはある。

組織づくりには時間がかかる。

知名度のある代表がいたとしても、その支持が個々の候補者へ移るとは限らない。

選挙区ごとに事情も違う。

候補者自身の経験不足もあったかもしれない。

党として共通政策を示さない戦略が、有権者に理解されなかった可能性もある。

むしろ、これほど大きな失敗を経験したからこそ、政治家として成長できる可能性があった。

重要なのは、失敗そのものではない。

その失敗をどう引き受けたかである。

・なぜ一人も当選できなかったのか。

・石丸氏個人に対する支持は、なぜ候補者への支持に転換されなかったのか。

・候補者選定は適切だったのか。

・共通政策をほとんど設けない方針は正しかったのか。

・「政治屋の一掃」などの理念は、具体的な政策として有権者に届いたのか。

・組織の代表として、候補者を十分に支えることができたのか。

・都知事選での165万票を、自分個人の影響力として過大評価していなかったか。

これらを一つずつ検証する。

自分の見通しが甘かったなら、甘かったと認める。

戦略が誤っていたなら、誤っていたと認める。

候補者や支持者に対して、代表として説明する。

そして次の選挙に向けて改善する。

それが、政治家としての誠実な態度だと思う。

全敗したことは、恥ではない。

全敗を全敗として認めず、「正面から総括しないこと」の方が、よほど恥ずかしい。

3.問われていたのは現在の距離ではなく、過去の責任である

今回のインタビューで、話題は再生の道へ移った。

石丸氏は、自分が再生の道について語ることで、良い意味でも悪い意味でも組織に影響を与えてしまうため、なるべく言及しないようにしているという趣旨の説明をした。

さらに、自身と再生の道との関係を「親と子」に例えた。

大切に生み、育てた。

しかし手を離れた後は、子どもが自分で生きていけばよい。

外形的なものは変わっても構わない。

自分はあえて口を出さない。

そのような考え方である。PIVOT側の記事でも、石丸氏が再生の道との関係を「親と子」になぞらえ、独立した後は組織自身が未来を築くべきだという趣旨の説明をしたことが紹介されている。

石丸氏

「親と子の関係に近いと思っています」

石丸氏

「手を離れた後は、好きに生きればいい」

私は、この説明を聞いて強い違和感を覚えた。

なぜなら、問われているのは子離れの美学ではないからだ。

今聞かれているのは、現在の再生の道を支配するつもりがあるかどうかではない。

後任の代表に命令するのかどうかでもない。

現在の組織運営に口を出すべきかどうかでもない。

問われているのは、

あなた自身が代表として選挙を戦った再生の道の活動を、あなたはどう総括しているのか。

ということである。

都議選で42人全員が落選した。

参院選でも10人全員が落選した。

その選挙を戦ったとき、石丸氏は代表だった。

後任の体制になった後に起きた失敗ではない。

石丸氏の知らないところで、組織が勝手に候補者を擁立して起きた結果でもない。

自分が設立し、自分が代表を務め、自分の知名度を大きな看板として戦った選挙の結果である。

その過去の責任について聞かれているのに、

「今は手を離れた子どもだから、好きにすればいい」

と答える。

これは問いに答えていない。

現在、組織から距離を置くことと、過去に代表として行った判断を総括することは両立する。

後任に口を出さなくても、

「私が代表だった時期の選挙結果については、こう考えている」

と説明できる。

現在の運営を尊重しながら、

「候補者全員を当選させられなかったことは、当時の代表である私の責任でもある」

と言うこともできる。

親子の比喩を使うにしても、子どもが独立したからといって、親が過去に行った養育上の判断まで消えるわけではない。

現在の別人格を尊重することと、過去の自分の責任を検証することは別である。

石丸氏の回答は、この二つを意図的か無意識かは別として、混同している。

その結果、

「現在は別の組織だから語らない」

という説明によって、

「自分が代表だった時期の失敗についても語らない」

ことが正当化されている。

私は、ここに責任回避を感じる。

4.成功は自分のもの、失敗は「別人格」

ここで、前回の都知事選についての発言と、再生の道についての発言を並べてみたい。

前回の都知事選について語るとき、石丸氏は165万票という結果を、自分の経験として扱っている。

自分は、それほど多くのステップを踏まなくても躍進した。

だから、ステップを踏むという考え方は半分違う。

前回の結果は、現在の自分の政治戦略を説明する根拠になる。

そこでは、主語は明確に「自分」である。

恋愛リアリティー番組についても同じだ。

自分を知る人が増えた。

自分に新しいつながりができた。

自分にとって収穫があった。

将来に向けた環境づくりの一つになった。

ここでも、主語は「自分」である。

ところが、再生の道の全敗について話が及ぶと、主語が急に曖昧になる。

親と子は別人格。

もう手を離れた。

今は自由にすればよい。

自分が語ると影響を与えてしまうから、何も言わない。

成功した都知事選は、今も自分の可能性を証明する財産として使う。

失敗した再生の道は、手を離れた別人格として距離を置く。

しかし、都知事選も再生の道も、どちらも石丸氏自身の政治活動である。

しかも時系列で言えば、再生の道の方が新しい。

2024年の都知事選の成功だけを現在の戦略の根拠にし、2025年の全敗を同じ重さで現在の自分を検証する材料にしない。

この非対称性は何なのだろう。

もし再生の道が大成功していたら、その成功は石丸氏の実績として扱われなかっただろうか。

都議選で10人、20人が当選していたら、

「石丸伸二が立ち上げた新しい政治勢力が躍進した」

と報じられただろう。

石丸氏自身も、

「自分が作った仕組みから、新しい政治家が生まれた」

と豪語していたのではないだろうか。

そして、その成功を次の都知事選に向けた大きな実績として利用したのではないか。

ところが、全員が落選した。

すると途端に、

「親と子は別人格」

「手を離れた後は好きにすればよい」

という話になる。

成功していれば親の功績。

失敗すれば、独立した子どもの人生。

そんな都合のよい親子関係があるだろうか。

私は、この態度を卑怯だと感じる。

人間として卑怯だと罵倒したいのではない。

政治家として、自分に都合のよい結果だけを自分の実績として引き受け、自分に都合の悪い結果を十分に総括しない姿勢を、卑怯だと言っている。

成功したときだけ主語を「私」にする。

失敗したときには、組織や環境や別人格の話を持ち出し、主体をぼかす。

政治家に求められる責任とは、その反対ではないか。

成功したときには、候補者や支援者のおかげだと語る。

失敗したときには、自分が責任者だったと語る。

それがリーダーの姿勢である。

しかし、今回見えたものは逆だった。

成功は、自分の特別な経験。

失敗は、もう手を離れた存在の話。

私は、この責任の取り方を到底誠実だとは思えない。


第4章 石丸氏が都知事になるために残されていた「唯一の道」

1.私は、石丸氏が都知事になる可能性を否定していたわけではない

ここまで、かなり厳しい批判を続けてきた。

しかし、私は最初から、

「石丸伸二氏が東京都知事になる可能性など絶対にない」

と思っていたわけではない。

むしろ、再生の道が発足した当初、私の中には一つの可能性が見えていた。

こういう道を歩めば、もしかすると本当に石丸氏はいつか都知事になるかもしれない。

そのように思える道があった。

それは、奇抜な戦略ではない。

カオス理論でもない。

恋愛リアリティー番組への出演でもない。

瞬間的に条件が重なるのを待つことでもない。

極めて地味で、時間がかかり、途中で何度も批判され、報われない時期が続く道である。

その道とは、

再生の道の代表として、自分の職務と責任をできる限りまっとうすること。

ただ、それだけだった。

2.全敗を「物語の始まり」に変える道があった

再生の道は、最初の大きな選挙で全敗した。

42人を擁立し、全員が落選した。

続く参院選でも10人全員が落選した。

世間から見れば、これほど分かりやすい失敗はない。

当然、批判される。

笑われる。

「165万票は何だったのか」

「石丸氏個人の人気は、候補者にはまったく移らなかった」

「政治団体として失敗した」

そう言われる。

しかし、本当はそこからだったのではないか。

石丸氏が本当に政治を変えたいと思っていたなら。

再生の道が本当に新しい政治参加の形を作るための組織だったなら。

代表として敗北を正面から引き受け、そこから始めればよかった。

まず、自分たちは負けたと認める。

一人も当選させられなかったという現実を受け止める。

候補者選定、政策、選挙戦術、組織運営、代表としての自分の言動。

すべてを検証する。

候補者や支援者と向き合う。

有権者に対して、

「私たちはなぜ選ばれなかったのか」

を聞く。

そして、次の選挙まで地道に活動する。

街頭に立つ。

地域の問題に取り組む。

候補者を育てる。

政策を作る。

負けても逃げない。

批判されても続ける。

おそらく最初は、何をしても笑われただろう。

「また再生の道が何かやっている」

「どうせ次も全敗だ」

「石丸氏の人気は終わった」

そう言われたかもしれない。

しかし、それでも続ける。

次の地方選挙に候補者を出す。

また負けるかもしれない。

それでも続ける。

そして、いつか一人目の当選者が現れる。

その瞬間、物語が変わり始める。

「全敗しただけの政治団体」だった再生の道から、初めて議員が生まれる。

さらに次の選挙で、二人目が当選する。

その次に、三人目が当選する。

少しずつ実績を積み重ねる。

議会に入った候補者が、地域で具体的な成果を出す。

有権者の信頼を得る。

石丸氏は代表として、成功だけでなく失敗にも立ち会い、候補者を支え、組織を育て続ける。

そうなれば、最初の「全敗」の意味は変わる。

ただの惨敗ではなくなる。

後から振り返ったとき、

「あそこが始まりだった」

と言える出来事になる。

最初は52人全員が落選した。

世間から笑われた。

それでも逃げなかった。

自分の責任として引き受けた。

地道に政治家を育て、一人、また一人と議員を誕生させた。

そして新しい政治勢力を形にした。

これは、非常に強いサクセスストーリーになったはずである。

3.アンチですら、簡単には笑えなくなっていた

もし石丸氏が、その道を歩み続けていたらどうなっていただろう。

最初のうちは、「選挙全敗」という言葉で何度も批判されたと思う。

しかし、代表として逃げず、何年も地道に活動を続けていたら、いつまでも同じ言葉だけで笑うことは難しくなる。

なぜなら、全敗したという事実を、本人自身が隠さず背負い続けているからである。

自分で敗北を認め、自分で改善し、自分で次の結果を出そうとしている人物に対して、

「お前たちは全敗したではないか」

と言っても、

「そのとおりです。だから改善して続けています」

と答えられてしまう。

これは強い。

批判から逃げる人間は、いつまでも同じ批判に追われる。

しかし、批判を自分から引き受けた人間は、やがてその批判を自分の物語の一部に変えることができる。

石丸氏が再生の道の代表として残り、全敗の責任から逃げず、一人目の当選者が生まれるまで活動を続けていたなら、アンチですら次第に態度を変えざるを得なかったと思う。

もちろん、支持する必要はない。

政策に反対する人もいる。

石丸氏の言動を嫌う人もいる。

それでも、

「少なくとも、あの全敗から逃げなかった」

「自分が作った組織を投げ出さず、結果が出るまで続けた」

「口だけではなく、時間をかけて政治家を育てた」

という評価は生まれたはずだ。

石丸氏に不足していた「信頼」が、そこで初めて積み上がり始めたのではないか。

4.満を持して都知事選へ出れば、前回とは別の候補者になれた

そのような活動を何年か続けた後、石丸氏が再び東京都知事選に出馬したらどうなっていただろう。

前回とは、まったく違う候補者になっていたはずである。

2024年の石丸氏は、安芸高田市長として注目を集め、インターネット上の大きな勢いを背負って都知事選に挑んだ人物だった。

しかし次の挑戦では、

都知事選で敗れた。

政治団体を立ち上げた。

最初の選挙では全敗した。

それでも代表として逃げなかった。

失敗を認め、組織を立て直した。

候補者を育てた。

少しずつ当選者を生み出した。

現実の政治の中で実績を積み重ねた。

そのような厚みを持つ候補者になれた。

一時的な勢いだけではない。

失敗から逃げない。

人を育てられる。

組織を継続できる。

批判に耐えられる。

結果が出るまで責任を背負える。

そう証明した上で、満を持して都知事選へ出る。

そのとき初めて、

「今度は本当に都知事になるかもしれない」

と私は感じたと思う。

私の中では、それこそが、石丸氏が東京都知事になるために残されていた、ほとんど唯一の道だった。

都知事になるための「再生の道」。

まさにその名のとおり、敗北から自分自身を再生させる道である。

5.しかし彼は、サクセスストーリーの第一章で真っ先に逃げ出した

ところが、石丸氏はその道を歩まなかった。

再生の道が全敗した。

その責任を背負い、組織を育て続けるのではなく、代表から退いた。

2025年8月には、都議選と参院選で計52人が全員落選した後、石丸氏が代表を退くことが報じられた。

そして現在、組織との関係を「親と子」に例え、

手を離れた後は好きに生きればよい。

自分は影響を与えないため、あえて語らない。

そう説明する。

だが、私から見れば、手を離すのが早すぎる。

政治団体として、これから信頼を作らなければならない最初の段階だった。

最も苦しい時期だった。

最も代表の責任が問われる時期だった。

そして同時に、最も政治家として成長できる時期でもあった。

石丸氏は、その地点で道を降りた。

全敗から始まるサクセスストーリーの、まさに第一章。

これから敗北を引き受け、批判に耐え、地道に信頼を積み重ねるという物語の冒頭で、本を閉じてしまった。

それにもかかわらず、次の都知事選については、

次かもしれない。

次の次かもしれない。

10年後かもしれない。

思いは変わっていない。

カオスの中で、さまざまな環境を用意する。

恋愛リアリティー番組への出演も、その一つである。

と語る。

私には、これがどうしても理解できない。

東京都知事になるために最も必要だった環境は、すでに目の前にあったのではないか。

再生の道という政治団体。

52人全敗という重い失敗。

そこから信頼を作り直す長い時間。

それこそが、石丸氏を政治家として成長させる最大の環境だった。

だが、石丸氏はその環境から真っ先に逃げた。

自分を鍛える最も厳しい環境は捨て、その一方で、知名度や人脈を広げる環境は確率論的に増やしていく。

これを戦略的だと評価することは、私にはできない。

政治家として最も必要な苦労を避け、再び自分に有利な風が吹く可能性を広げようとしているように見える。

だから私は、稚拙だと思う。

そして卑怯だと思う。


第5章 政治戦略として「稚拙」、責任の取り方として「卑怯」

1.なぜ「稚拙」なのか

ここまでの論を整理したい。

私が石丸氏の政治戦略を「稚拙」だと考える理由は、単に恋愛リアリティー番組へ出演したからではない。

「カオス理論」という言葉を使ったからでもない。

前回の都知事選を成功体験として語ったからでもない。

問題は、それらが一つの構造としてつながっていることである。

石丸氏は、都知事選に向けたステップの必要性を問われ、

「半分正しく、半分違う」

と答えた。

その根拠として、

「前回はそれほどステップを踏んでいない」

と語った。

しかし実際には、安芸高田市長という明確なステップがあった。

本人も、それを指摘されれば認めている。

さらに、大規模な選挙を「カオス」と捉え、瞬間的な条件の重なりや、確率論的に複数の環境を用意することを重視する。

恋愛リアリティー番組への出演も、その環境づくりの一つとして語る。

一方で、政治家として実績を積むための最も明確なステップだった再生の道については、全敗後に代表を退き、現在は「手を離れた子ども」として距離を置く。

つまり、石丸氏の戦略では、

政治家として困難な責任を背負い、地道に結果を作ることよりも、

自分の知名度や人脈を保ち、再び大きな選挙で条件が重なる可能性を増やすことが重視されているように見える。

私はこれを稚拙だと思う。

なぜなら、東京都知事という仕事を目指す政治家の戦略というより、東京都知事選というイベントで勝つ可能性を高めるタレント的な戦略に見えるからである。

政治家に必要なのは、選挙当日の偶然を味方につけることだけではない。

選挙後に行政を任せられる能力を証明すること。

その能力を、有権者に時間をかけて信じてもらうこと。

そこに至るまでの積み重ねである。

都知事選は、落ち葉がどこに集まるかを当てる遊びではない。

約1400万人の生活を預かる人物を選ぶ選挙である。

「なんとなくこの辺りに集まる」という確率の話だけでは、都政は動かせない。

2.なぜ「卑怯」なのか

私が石丸氏の姿勢を「卑怯」だと考える理由も、改めて明確にしておきたい。

石丸氏は、前回の都知事選で得た165万票を、現在の自分の可能性や戦略を語るための根拠として使っている。

これは、自分の過去の成功を現在に接続する行為である。

そのこと自体は悪くない。

しかし、自ら立ち上げた再生の道の全敗については、同じように現在の自分を検証する材料として扱わない。

現在の組織との関係を語り、

親と子は別人格。

手を離れた後は好きに生きればよい。

自分が語れば影響を与えてしまう。

だから言及しない。

という説明をする。

しかし、全敗した選挙の時点では、石丸氏自身が代表だった。

現在の組織との距離は、過去の代表としての責任を消さない。

成功した過去は、今も自分のもの。

失敗した過去は、現在の別人格の話。

そのような扱いは、あまりにも都合がよい。

私は、失敗した人間を卑怯だと言っているのではない。

失敗を認めた人間を責めているのでもない。

失敗を自分の言葉で説明せず、成功だけを未来の可能性として利用する姿勢を、卑怯だと言っている。

本来、政治家とは、自分にとって不都合な結果ほど引き受けなければならない存在である。

成功したときは、周囲の協力のおかげだと語る。

失敗したときは、自分が責任者だったと語る。

それがリーダーである。

ところが石丸氏の発言から見えるのは、その反対だ。

成功は自分の特別な経験。

失敗は、親元を離れた子どもの話。

この非対称な責任の取り方を、私は卑怯だと批判する。

3.理想の政治家は、風が吹かないときにこそ仕事をする

理想の政治家とは、どのような人物だろうか。

私は、すべての政策に精通し、絶対に失敗しない完璧な人間を求めているわけではない。

政治家も間違える。

判断を誤る。

選挙に負ける。

政策が支持されない。

組織づくりに失敗する。

そうしたことはある。

重要なのは、失敗しないことではない。

失敗した後にどう行動するかである。

理想の政治家は、成功したときだけ前に出る人ではない。

失敗したときにも、同じ場所に立ち続ける人である。

自分に追い風が吹いているときだけ有権者へ語りかけるのではない。

誰からも注目されない時期にも、地道に政治活動を続ける。

選挙が近いときだけ政策を語るのではない。

次の選挙まで何年あっても、現実の問題と向き合う。

自分の名前を忘れられないように露出を続けるのではない。

忘れられない実績を作る。

そして、自分が率いた組織が全敗したなら、まずその責任を引き受ける。

「カオスだった」

「条件が重ならなかった」

「今は手を離れた」

と説明する前に、

「代表として、私の判断にも問題があった」

と言う。

それが政治家としての信頼を作る。

風が吹いたときに前へ進む人は、いくらでもいる。

本当に問われるのは、風が止まった後である。

注目が薄れたとき。

結果が出なかったとき。

批判だけが残ったとき。

その場所から逃げずに仕事を続けられるか。

政治家の本質は、そこで表れる。

4.未来を語る前に、総括すべき過去がある

石丸氏は、次なのか、次の次なのか、10年後なのかは分からないとしながらも、都知事を目指す思いは変わっていないと語った。

ならば、次の都知事選までに何をするのか。

その問いに対する答えは、本来それほど複雑ではない。

政治家として実績を作る。

政策を磨く。

都民と向き合う。

前回の敗北を検証する。

再生の道の失敗を総括する。

自分の判断の何が正しく、何が間違っていたのかを説明する。

そして、もう一度信頼を積み重ねる。

それだけである。

そこにカオス理論は必要ない。

落ち葉の比喩も必要ない。

恋愛リアリティー番組への出演を、都知事選に向けた環境づくりとして説明する必要もない。

政治家として、政治の中で結果を出せばよい。

だが、その最も正攻法の道から、石丸氏自身が離れている。

都知事への思いは残す。

前回の165万票も、現在の可能性を語るために残す。

一方で、再生の道の全敗を背負い続ける役割からは離れる。

そして次の機会がいつ訪れるのかを、確率論とカオスの中で待つ。

私は、そこに政治家としての覚悟を感じない。

感じるのは、前回の成功をもう一度再現したいという執着である。

しかし、前回と同じ風は、二度と吹かないかもしれない。

だからこそ、政治家は風に頼らない土台を作る必要がある。

石丸氏にとって、その土台を作る最大の機会が再生の道だった。

そして、その機会を本人は手放した。


終章 風を待つ前に、敗北と向き合え

私は今回のインタビューを見て、石丸伸二氏を「稚拙で卑怯だ」と感じた。

しかし、この記事を書き始めた時点では、その感情がどこから来るのか、完全には整理できていなかった。

発言を一つずつ並べ、過去の政治活動と照らし合わせることで、ようやくその正体が見えてきた。

政治戦略として稚拙である。

なぜなら、政治家としての地道な積み重ねよりも、大きな選挙で条件が瞬間的に重なることを重視しているように見えるからである。

前回の躍進を、ステップの重要性を相対化する根拠として使っているからである。

すでに十分な知名度を持ちながら、政治家としての信頼を深めることより、認知や人脈を広げる活動を「環境づくり」として語っているからである。

そして、責任の取り方として卑怯である。

なぜなら、都知事選の165万票は現在の自分の可能性を示す成功体験として利用しながら、自ら代表として戦った再生の道の全敗については、同じ重さで総括しないからである。

現在の組織との距離を「親と子」に例え、過去の代表としての責任まで曖昧にしているからである。

成功は自分のもの。

失敗は手を離れた別人格。

そのような責任の引き受け方を、私は誠実だとは思わない。

石丸氏には、別の道があった。

再生の道の代表として残る。

全敗を認める。

批判から逃げない。

候補者を育てる。

一人目の当選者が出るまで続ける。

その次に二人目、三人目を生み出す。

最初の全敗を、長いサクセスストーリーの出発点へ変える。

その実績を持って、満を持して都知事選へ出る。

それが、私の中では石丸氏が東京都知事になるために残されていた、ほとんど唯一の道だった。

しかし彼は、物語の第一章で本を閉じた。

最も批判される場面で、その批判を引き受け続ける道を選ばなかった。

最も政治家として成長できる場所から離れた。

そして今も、次の都知事選への思いは変わらないと語る。

私は、その順序が違うと思う。

未来を語る前に、総括すべき過去がある。

次の野望を語る前に、説明すべき敗北がある。

新しい環境を増やす前に、なぜ目の前にあった政治団体を育てられなかったのかを検証すべきである。

カオスを語る前に、自分が制御できたはずの判断を振り返るべきである。

親と子の別人格を語る前に、親だった時期の責任を語るべきである。

石丸氏が本当に東京都知事を目指すのなら、必要なのは、もう一度注目を集めることではない。

自分にとって都合の悪い過去から逃げないことである。

政治とは、自分に有利な瞬間だけを拾い集める仕事ではない。

成功も失敗も、自分の選択によって生まれた結果として背負う仕事である。

都知事とは、風が吹いた瞬間にたまたま座れればよい椅子ではない。

都民の生活と、巨大な行政組織と、あらゆる結果責任を背負う職である。

その職を目指す人物が、自らの政治団体の全敗すら十分に総括できないのであれば、都知事になった後に起きる、より重大な失敗を本当に引き受けられるのだろうか。

私は、そこに大きな不安を感じる。

石丸氏が次に待つべきものは、再び自分に吹く追い風ではない。

向き合うべきものは、すでに自分の後ろにある。

165万票という栄光ではない。

52人全員が落選したという、直近の政治的な敗北である。

その敗北を背負い、自分の言葉で総括し、そこから一歩ずつ信頼を作り直す。

本来、それこそが「再生の道」だったはずだ。

しかし今の石丸氏は、その道を歩かず、どこか別の場所で落ち葉が集まる瞬間を待っている。

私は、そのような政治家に東京都政を任せたいとは思わない。

東京都知事に必要なのは、カオスの中から好機を見つける能力だけではない。

自分が生み出した混乱と、自分が招いた敗北に、最後まで責任を持つ能力である。

風を読む前に、敗北と向き合え。

次の都知事選を語るのは、それからである。

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